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「うっひゃ~、きっもちぃ~」
ワンピースの裾を軽く持ち上げながら足を踏み入れて、七海さんは楽しげにはしゃいでいた。
現実ではまだ冷たくて入れなかったけど、この夢の世界は夏の気候だ。
だからか、海水も夏らしく心地のよい温度になっている。
波打ち際にしゃがみ込み、手だけ軽く海水につけながら僕は七海さんが遊ぶ姿を眺めていた。
(やっぱり、彼女は元気な姿の方がよっぽど似合ってる)
彼女は僕にこの世界の最後まで楽しんでいて欲しいと言っていた。
僕がそうするには、やっぱり彼女自身が楽しんでいないと無理だ。
そのためにも、僕は――。
「うわっぷ?! っ、しょっぱ!」
ボーッとしていると、突然顔に海水がかけられた。
口の中に入ったそれをペッペッと吐き出しながら、下手人に抗議の眼差しを向ける。
「いきなり何をするんだよ」
「へっへ~ん、そんなところで黄昏れてないでさ、君もおいでよ! 楽しいよ」
そう言ってまた海水を手で掬って僕の方へかけてくる。
避けようと立ち上がったその時、砂に足を取られてその場で転げた。
「……最悪だ」
びしょ濡れになった自分を見下ろす。
そんな僕を見て七海さんは「あははははっ」と高笑いしていた。
……やられっぱなしは釈然としない。
僕はゆらりと立ち上がり、凶悪な笑みを刻む。
「他人事みたいに笑っていていいのかな?」
「え?」
「僕はもういまさらどれだけ濡れてもかまわないんだ。……七海さん、さっきから服が濡れないようにしてるみたいだけど」
言いながら、その場で屈んで両手に海水を掬う。
すべてを察した七海さんは、表情を強張らせた。
「お、女の子に乱暴するのはどうかと思うな~」
「悪いけど、僕はそういうのに興味がないんだ。――それぃ!」
「きゃぁっ!」
七海さんの悲鳴が轟く。
「ちょっと、何するのよ!」
「これでお相子だ」
毅然とした態度で応じると、七海さんは不満げに頬を膨らませて睨んできた。
だけどそれも一瞬のこと。
すぐさまその場に屈みこむと、彼女はまた水を掬う。
「争いは何も生まないよ。お互いに掛け合ったんだし、この辺りで和解するのはどうだろう」
「興味、なーい!」
七海さんの手を離れた海水が宙で弧を描きながら僕に向かって飛んでくる。
今回は事前にわかっていたから避けられたけど、激しく動いたせいで足元の海水が飛び跳ねて結局濡れてしまう。
「っ、そっちがその気なら!」
次弾を構えようとしてる七海さん。
先手を取るべく、僕もまた海の中に手を入れた。
そうして僕たちは波打ち際でただ二人、小さな子どもみたいに水を掛け合って遊んだ。
遊び疲れた僕たちは、びしょ濡れになった服を乾かすことも兼ねて、どちらからともなく砂浜に並んで寝そべっていた。
先ほどまで二人の間に流れていた騒がしい時間が嘘みたいに、波の音だけが響き渡る。
頭上の空には入道雲が出ていた。
直に、現実で見ることのできる空だ。
「ありがとう、比呂。私をここに連れてきてくれて」
心地のよい潮風に身を委ねて目を瞑っていると、不意に七海さんが感謝の言葉を口にした。
隣を向くと、彼女も僕の方を向いていた。
広い砂浜には僕たちしかいないのに、そんなことを感じさせないほど、僕たちは近い距離で横になっていた。
遊んでいた時は気にならなかったけど、海水で濡れたワンピースが肌に張り付いている。
濡れた髪と合わさって、嫌に大人びて見えた。
そういえば、彼女は僕よりも年上だった。
もうすっかり忘れていたことをいまさらながらに思い出す。
それと共にドキリと胸が跳ねる感覚を覚えて、僕は慌てて彼女から顔を背けた。
「お陰で僕も一足先に夏を満喫できたからね。いい気分転換になったよ」
僕がそう言うと、彼女はくすくすとおかしそうに笑う。
「比呂、なんだか変わった?」
「え?」
「前までの君だったらそんなこと絶対言わないもん。それに、友だちとこんなところに来ることもなかったでしょ?」
「……まだ会って一月も経ってない相手にそんなことを言われても困るな」
「ただの一月じゃないでしょ? 私たちしかいない世界で、一月近く。密度が違うよ、密度が」
その通りだと思った。
現実ではたくさんの人が当たり前のように生きている。
でもこの世界では僕と七海さんしかいない。他に雑音のない、お互いの存在だけを感じられる時間。
そんな時間を、僕たちはもう一月近く過ごしていた。
「……確かに、僕も君と会って随分と経っているような気がする。それまでたくさんの人の夢を渡り歩いていたのが嘘みたいだ」
もう、他人の夢を見たいと思わなくなった。
彼女がいるこの夢に入ることを望んでいた。
……不思議だ。
「それだけ私のことが好きなんだよ」
「君の方こそ」
お互いに茶化し合う。それでも、どちらも相手の言葉を否定はしなかった。
奇妙な沈黙が流れて、時間が移ろう。
その沈黙の果てに、僕は自然と切り出していた。
「この間の話」
「え?」
「この世界に最期が来るのだとしても、その時まで楽しんでいて欲しいって」
「……うん」
「悪いけど、それは無理だ」
「え……?」
隣で七海さんが起き上がる気配がした。
僕も上体を起こしながら彼女を見る。
七海さんは、今にも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。
そんな彼女に、僕は笑いかける。
「だって、そうでしょ? 現実にはこんなに綺麗な世界がいくらでも広がっているんだ。こんなちっぽけな世界で楽しめるわけがないよ」
僕がそう言い切ると、七海さんは目を丸くして固まった。
彼女は呆気にとられた様子で僕を見つめる。
次第にじわじわと目尻に薄く涙が溜まり、こぼれ落ちようかという時、どこか嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「やっぱり君、変わったよ」
涙を拭いながら、彼女は言う。
「現実の世界のことをそんなに楽しそうに、嬉しそうに話すなんて。現実のことを退屈だって、そう話していたのに」
「友だちのお陰なんだ。僕の本当の気持ちに気付かせてくれた」
「……なら、仕方ないね。でも、比呂には悪いけど、私の夢が終わるまではこの世界でつまらない時間を過ごしてもらうね。こればっかりはどうしようもないから。私の夢が終わるまでは他の人の夢に行けないんでしょ?」
悲しそうに、なのに嬉しそうに。何かとんでもない勘違いをして、七海さんは微笑みかけてくる。
その微笑みは僕の嫌いなものだ。すべてを諦めて、受け入れて、仕方ないからって浮かべている微笑みだ。
僕に、最期の日まで楽しんで欲しいと願ったときと同じ。
「比呂……?」
いきなり立ち上がって、波打ち際に歩いて行く僕を訝しげに呼び止めてくる。
その声を無視して、僕は海水を両手にすくい上げた。
そして――、
「きゃぁっ! ちょっと、せっかく乾いてきたのに、何するのよ!」
七海さんの顔に勢いよくぶっかける。
びしょびしょになったワンピースを摘まみながら抗議の声を上げる七海さんを見下ろしながら、僕は憮然と言い放つ。
「君が変な思い違いをするからだ」
「思い違い?」
「今はちっぽけなこの世界も、僕なら広げることができる。現実と同じぐらい綺麗で、楽しくて、価値で溢れた世界に」
「――っ」
七海さんが息を呑む。僕の意図を察したんだろう。
「このままだと僕は楽しめない。――だから、僕は僕のために、現実で見たもの、行った場所をこの世界にも創る。そうしたら僕は現実でも夢でも楽しめる。一石二鳥だろ?」
得意げに胸を張る。
そうして、瞠目する彼女に柔らかく語りかける。
「僕はこの世界の不法侵入者だ。間借りしている以上、この世界の主の意向はある程度聞いてもいい。……君が見たいもの、行きたい場所があるなら、教えて欲しい」
ジッと七海さんを見つめる。
……なんだか気恥ずかしくて、少し回りくどい言い方をしてしまった。
僕の意図はちゃんと伝わっただろうか。
果たして、その心配は杞憂だった。
彼女の瞳からこぼれ落ちた涙がそれを物語っていた。
「……ありがとう、比呂」
波にかき消されるほどか細い嗚咽。
僕は自然と彼女に手を伸ばしていた。
びっくりするほどに華奢な体を抱きしめる。
「……冷たい」
「君が海水をかけたんでしょ」
「それはお互い様だ」
くすりと、僕の胸の中で七海さんが笑う。
それだけで、なんだか満たされた気がした。
ワンピースの裾を軽く持ち上げながら足を踏み入れて、七海さんは楽しげにはしゃいでいた。
現実ではまだ冷たくて入れなかったけど、この夢の世界は夏の気候だ。
だからか、海水も夏らしく心地のよい温度になっている。
波打ち際にしゃがみ込み、手だけ軽く海水につけながら僕は七海さんが遊ぶ姿を眺めていた。
(やっぱり、彼女は元気な姿の方がよっぽど似合ってる)
彼女は僕にこの世界の最後まで楽しんでいて欲しいと言っていた。
僕がそうするには、やっぱり彼女自身が楽しんでいないと無理だ。
そのためにも、僕は――。
「うわっぷ?! っ、しょっぱ!」
ボーッとしていると、突然顔に海水がかけられた。
口の中に入ったそれをペッペッと吐き出しながら、下手人に抗議の眼差しを向ける。
「いきなり何をするんだよ」
「へっへ~ん、そんなところで黄昏れてないでさ、君もおいでよ! 楽しいよ」
そう言ってまた海水を手で掬って僕の方へかけてくる。
避けようと立ち上がったその時、砂に足を取られてその場で転げた。
「……最悪だ」
びしょ濡れになった自分を見下ろす。
そんな僕を見て七海さんは「あははははっ」と高笑いしていた。
……やられっぱなしは釈然としない。
僕はゆらりと立ち上がり、凶悪な笑みを刻む。
「他人事みたいに笑っていていいのかな?」
「え?」
「僕はもういまさらどれだけ濡れてもかまわないんだ。……七海さん、さっきから服が濡れないようにしてるみたいだけど」
言いながら、その場で屈んで両手に海水を掬う。
すべてを察した七海さんは、表情を強張らせた。
「お、女の子に乱暴するのはどうかと思うな~」
「悪いけど、僕はそういうのに興味がないんだ。――それぃ!」
「きゃぁっ!」
七海さんの悲鳴が轟く。
「ちょっと、何するのよ!」
「これでお相子だ」
毅然とした態度で応じると、七海さんは不満げに頬を膨らませて睨んできた。
だけどそれも一瞬のこと。
すぐさまその場に屈みこむと、彼女はまた水を掬う。
「争いは何も生まないよ。お互いに掛け合ったんだし、この辺りで和解するのはどうだろう」
「興味、なーい!」
七海さんの手を離れた海水が宙で弧を描きながら僕に向かって飛んでくる。
今回は事前にわかっていたから避けられたけど、激しく動いたせいで足元の海水が飛び跳ねて結局濡れてしまう。
「っ、そっちがその気なら!」
次弾を構えようとしてる七海さん。
先手を取るべく、僕もまた海の中に手を入れた。
そうして僕たちは波打ち際でただ二人、小さな子どもみたいに水を掛け合って遊んだ。
遊び疲れた僕たちは、びしょ濡れになった服を乾かすことも兼ねて、どちらからともなく砂浜に並んで寝そべっていた。
先ほどまで二人の間に流れていた騒がしい時間が嘘みたいに、波の音だけが響き渡る。
頭上の空には入道雲が出ていた。
直に、現実で見ることのできる空だ。
「ありがとう、比呂。私をここに連れてきてくれて」
心地のよい潮風に身を委ねて目を瞑っていると、不意に七海さんが感謝の言葉を口にした。
隣を向くと、彼女も僕の方を向いていた。
広い砂浜には僕たちしかいないのに、そんなことを感じさせないほど、僕たちは近い距離で横になっていた。
遊んでいた時は気にならなかったけど、海水で濡れたワンピースが肌に張り付いている。
濡れた髪と合わさって、嫌に大人びて見えた。
そういえば、彼女は僕よりも年上だった。
もうすっかり忘れていたことをいまさらながらに思い出す。
それと共にドキリと胸が跳ねる感覚を覚えて、僕は慌てて彼女から顔を背けた。
「お陰で僕も一足先に夏を満喫できたからね。いい気分転換になったよ」
僕がそう言うと、彼女はくすくすとおかしそうに笑う。
「比呂、なんだか変わった?」
「え?」
「前までの君だったらそんなこと絶対言わないもん。それに、友だちとこんなところに来ることもなかったでしょ?」
「……まだ会って一月も経ってない相手にそんなことを言われても困るな」
「ただの一月じゃないでしょ? 私たちしかいない世界で、一月近く。密度が違うよ、密度が」
その通りだと思った。
現実ではたくさんの人が当たり前のように生きている。
でもこの世界では僕と七海さんしかいない。他に雑音のない、お互いの存在だけを感じられる時間。
そんな時間を、僕たちはもう一月近く過ごしていた。
「……確かに、僕も君と会って随分と経っているような気がする。それまでたくさんの人の夢を渡り歩いていたのが嘘みたいだ」
もう、他人の夢を見たいと思わなくなった。
彼女がいるこの夢に入ることを望んでいた。
……不思議だ。
「それだけ私のことが好きなんだよ」
「君の方こそ」
お互いに茶化し合う。それでも、どちらも相手の言葉を否定はしなかった。
奇妙な沈黙が流れて、時間が移ろう。
その沈黙の果てに、僕は自然と切り出していた。
「この間の話」
「え?」
「この世界に最期が来るのだとしても、その時まで楽しんでいて欲しいって」
「……うん」
「悪いけど、それは無理だ」
「え……?」
隣で七海さんが起き上がる気配がした。
僕も上体を起こしながら彼女を見る。
七海さんは、今にも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。
そんな彼女に、僕は笑いかける。
「だって、そうでしょ? 現実にはこんなに綺麗な世界がいくらでも広がっているんだ。こんなちっぽけな世界で楽しめるわけがないよ」
僕がそう言い切ると、七海さんは目を丸くして固まった。
彼女は呆気にとられた様子で僕を見つめる。
次第にじわじわと目尻に薄く涙が溜まり、こぼれ落ちようかという時、どこか嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「やっぱり君、変わったよ」
涙を拭いながら、彼女は言う。
「現実の世界のことをそんなに楽しそうに、嬉しそうに話すなんて。現実のことを退屈だって、そう話していたのに」
「友だちのお陰なんだ。僕の本当の気持ちに気付かせてくれた」
「……なら、仕方ないね。でも、比呂には悪いけど、私の夢が終わるまではこの世界でつまらない時間を過ごしてもらうね。こればっかりはどうしようもないから。私の夢が終わるまでは他の人の夢に行けないんでしょ?」
悲しそうに、なのに嬉しそうに。何かとんでもない勘違いをして、七海さんは微笑みかけてくる。
その微笑みは僕の嫌いなものだ。すべてを諦めて、受け入れて、仕方ないからって浮かべている微笑みだ。
僕に、最期の日まで楽しんで欲しいと願ったときと同じ。
「比呂……?」
いきなり立ち上がって、波打ち際に歩いて行く僕を訝しげに呼び止めてくる。
その声を無視して、僕は海水を両手にすくい上げた。
そして――、
「きゃぁっ! ちょっと、せっかく乾いてきたのに、何するのよ!」
七海さんの顔に勢いよくぶっかける。
びしょびしょになったワンピースを摘まみながら抗議の声を上げる七海さんを見下ろしながら、僕は憮然と言い放つ。
「君が変な思い違いをするからだ」
「思い違い?」
「今はちっぽけなこの世界も、僕なら広げることができる。現実と同じぐらい綺麗で、楽しくて、価値で溢れた世界に」
「――っ」
七海さんが息を呑む。僕の意図を察したんだろう。
「このままだと僕は楽しめない。――だから、僕は僕のために、現実で見たもの、行った場所をこの世界にも創る。そうしたら僕は現実でも夢でも楽しめる。一石二鳥だろ?」
得意げに胸を張る。
そうして、瞠目する彼女に柔らかく語りかける。
「僕はこの世界の不法侵入者だ。間借りしている以上、この世界の主の意向はある程度聞いてもいい。……君が見たいもの、行きたい場所があるなら、教えて欲しい」
ジッと七海さんを見つめる。
……なんだか気恥ずかしくて、少し回りくどい言い方をしてしまった。
僕の意図はちゃんと伝わっただろうか。
果たして、その心配は杞憂だった。
彼女の瞳からこぼれ落ちた涙がそれを物語っていた。
「……ありがとう、比呂」
波にかき消されるほどか細い嗚咽。
僕は自然と彼女に手を伸ばしていた。
びっくりするほどに華奢な体を抱きしめる。
「……冷たい」
「君が海水をかけたんでしょ」
「それはお互い様だ」
くすりと、僕の胸の中で七海さんが笑う。
それだけで、なんだか満たされた気がした。
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