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 その日の夜は日が変わってからもしばらく寝付けずにいた。

 現実で昏睡し続けていることを知った上で、彼女にどう接すればいいかわからなかった。
 考えすぎて眠れなかったというのと、彼女に合わせる顔がなくて眠りたくなかったのと、二つの要因が眠りを妨げていた。

 そうしてベッドの上で天井を眺め続ける無為な時間が流れ、ようやく睡魔に負けて夢の世界に入ると、昨日眠りについた公園の芝生の前で目を覚ました。
 すぐ傍にいた七海さんがいつもの快活な様子で出迎えてくる。

「おやすみ~。今日は遅いね。勉強でもしてた?」

 この世界独自の挨拶を、彼女は頑なに続けている。
 もしかしたら、彼女の中で現実と夢の境界が曖昧になっているのだろうか。
 その線引きとして、挨拶を変えているのか。

 ……夢の世界で目覚めて早々に、そんなことを考えてしまった。

 僕は、淡いに世界に戻るために彼女の夢が終わることを望んでいた。
 だけど、彼女の真実を知った今、それは望めない。

(もしこの夢が終わったら、彼女はどうなるんだ?)

 彼女の夢が終わる時が来たとしたら、それは彼女が現実で目を覚ましたか、――覚ませなくなったか。
 前者ならいい。だけど後者なら……そんなこと、考えたくもない。

「―――ぇ、……ろ」

 三年前の夏から、彼女は眠り続けている。
 それだけ長い間昏睡状態にある人が再び意識を取り戻す確率はどれぐらいあるのだろう。

「――ねぇ、比呂」

 奇しくも父さんが亡くなったのと同じ年、季節。
 彼女の姿を重ねずにはいられない。
 父さんと違い、ただの不幸な事故だったとしても。

「ねえってばぁ!」
「ぁ、ぇ……」

 ぐいと、怒り顔の七海さんに胸元を掴まれた。
 どうやらなんども僕に話しかけていたらしい。

 僕が情けない声を上げると、彼女は掴んでいた胸元からそっと手を離し、どこか寂しげに言う。

「そんなに退屈?」
「へ?」
「私の夢が。……私といることが、そんなに嫌?」
「嫌じゃ――」

 嫌じゃない。そう言い切ろうとしたはずなのに、言葉は喉元で突っかかる。
 真実を知った今、彼女と共にいることが重く感じられてしまった。

 そんな僕の本心が、彼女に伝わる。
 考えていることがすぐに顔に出てわかりやすい。
 僕のことをそう評していた彼女には。

「もういい!」

 険しい顔で僕に背を向ける七海さん。
 その瞬間に、僕の頭をぐわんと揺さぶられる感覚が襲った。



 意識が暗転する。



 数瞬の空白の後、僕は懐かしい場所で意識を取り戻した。

「ここは、淡いの世界……」

 どこまでも広がる灰色の地平。三週間ぶりに、その何もない大地に降り立っていた。

「っ、まさか七海さん?! いや、今のはどちらかというと……」

 一瞬最悪の可能性が脳裏をよぎった。
 だけど、さっきのは七海さんの夢が消失したというよりも、

(七海さんが僕を拒絶したことで、僕という存在を夢から追い出したのか……?)

 感覚的にこちらの考えの方が正しいと、そう直感していた。
 そしてその直感を裏付ける光景が頭上に広がっている。

「あれは、七海さんの夢か」

 多くの人の夢が星となって瞬くはずの深更の空には、まるで一番星のようにただ一つの星が煌めいていた。
 注視すると、そこには先ほどまで僕がいた七海さんの夢の景色が映し出されていく。

 彼女の夢がまだ存在することに安堵する。それと同時に胸に去来したのは、ショックだった。

「なんで僕はショックなんて……」

 締め付けられるように痛む胸に手を添えながら、僕は星を見上げる。

 僕は空虚で退屈な現実とよく似たあの夢の世界を嫌っていた。
 ようやくそこから脱せたはずなのに、どうして今、僕は悲しんでいるんだ。

 わからない。わからないことだらけだ。何かをわかっても、わからないことが増えていく。

 ただ一つ確かなことは、僕があの夢に戻りたいと思っていることだ。
 彼女の星に手を伸ばす。暗い空を目映く照らす彼女の夢に。
 今までのように僕の体から星と同じ光が溢れだし――また、意識がぶれた。



 ぽたりと、頬に雨粒が降り注いできた。

「っ、ぅぅ、……ぐすっ……っぅ……」

 それが雨粒ではないと気付いたのは、頭上から彼女の嗚咽が聞こえてきたから。
 頭の後ろには柔らかくて暖かい感触。間近に、くしゃりと歪んで涙を流す七海さんの顔。

 ――僕は、彼女に膝枕されていた。

「これはどういう状況なの?」
「っ、比呂!」
「うぇ、ちょ、ちょっと……」

 突然七海さんの覆い被される。
 彼女の柔らかな感触が僕の顔にのし掛かり、どこか心地よい圧迫感の中、僕は悶えた。

「よかった、もう目を覚まさないのかと、よかった、ほんとに……っ」

 しばらくそうして抱きしめられた後、ようやく落ち着いた七海さんは赤くなった目尻を拭いながら上体を起こす。

「説明、してくれる?」

 どこか名残惜しさを感じながら僕は訊ねた。膝枕をされたまま。

「……いつも比呂がいなくなるときは、この世界からもいなくなるの。体が光に包まれて、細かな粒子になって溶けて消えて。だけどさっき、比呂は突然気を失ったように倒れたから、それで……」
「それで膝枕をしていたと?」
「……改めて言われると恥ずかしいね」

 彼女が顔を赤くしたので、僕も体を起こした。
 そうして僕たちは芝生の上に座りながら向かい合う。

「比呂がもういなくなったんじゃないかって、もう私の前に来てくれないんじゃないかって、心配で、不安で、私……」

 また泣き出しそうになる七海さんに、僕はかける言葉を逡巡してから、あえて茶化すように口を開いた。

「僕は君に追い出されたのだと思ったけど」
「……うん、たぶんそうなんだと思う。だからこそ、もう来てくれないと思ってた。だけど」

 彼女はそこで言葉を句切り、僕の顔を見つめる。
 そうしてから、どこかはにかんだような笑顔を浮かべた。

「来てくれたんだね。ありがとう」
「――他に選択肢がなかったんだよ」

 顔を逸らしながら、僕は淡いの世界に戻ってからのことを話す。
 空に七海さん以外の夢が浮かんでいなかったことを。
 ……僕が心の奥底で抱いた感情は伝えずに。

「ねぇ、比呂。聞きたいことがあるんだけど」
「なに」

 会話に一段落が着いた頃、彼女はずいと身を寄せながらどこか悪巧みをするような笑顔で聞いてくる。

「私の膝枕、どうだった?」
「……はぁ」
「ちょっと、そこでなんでため息?!」

 本調子に戻った彼女に安心すればいいのか、それとも落胆すればいいのか。

 僕は七海さんを適当にあしらいながら寝転がる。
 瞼を閉じた僕に、七海さんが喚き立てている。
 その元気な声とは裏腹に、僕の瞼の裏には先ほどの彼女の泣き顔が浮かび上がっていた。

(……あんな顔、して欲しくないな)

 夢を追い出された時よりもずっと胸が締め付けられる。
 もう二度と、彼女の泣き顔を見たくないと思っていた。
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