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55話 悪役は去っていく

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 城門の近くまで来ると、小さな黒い人影が見えた。ちょうど日がよく当たる時間帯だ。もしやと思い、ソフィアは走る速度を上げた。
 闇から抜け出たような影は、石積みの門に小さなシミを作っていた。日中に存在するのには違和感を覚える。あの邪悪さは彼に違いない。

「宰相! セルペンス宰相!」

 彼が門の向こうへ消えるまえに、ソフィアは声を張り上げた。振り向いたセルペンスは目を細める。相変わらず毒蛇を思わせるものの、以前ほどのトゲトゲしさはなくなっていた。ソフィアを一瞥した後、前を向いて進もうとしたが、ふと足を止めた。

「お、お待ちください……」

 追いついたソフィアは懸命に呼吸を整えた。酸素が脳へいかず、かける言葉が見つからない。セルペンスはその様子を冷ややかに見守った。彼にとっては無意味な時間だ。彼には“間”や“ゆとり”は不要なものである。
 やがて、待つのに飽きたのか逆三角髭が動いた。

「敗走する惨めな負け犬を見物しに来たのですか?」
「嫌な言い方をしますわね……」
「私は当たり前の質問をしただけです。誰だって、敵将の首を飾って楽しみたいもの。敗者を嘲笑して楽しむのは勝者の権利ですから」
「それはあなたの価値観でしょう。わたくしはちがいます」

 これ以上の言い合いは不毛だと思ったのだろう。セルペンスは口をつぐんだ。彼は無駄を嫌う。蛇の目を向け、言葉を促した。早く要件を言えと。ソフィアはその無感情な爬虫類の目をまっすぐに見返した。

「あの……わたくし、お聞きしたかったの。どうして、わたくしに関する訴訟を取り下げさせたのです?」
「そんなどうでもいいことで……」

 セルペンスはいったん言いよどんでから、彼にはめずらしく明るい口調で話し始めた。

「議会の招集があった時点でわかっていたのですよ、自分が断罪されるってことは。私にもそれなりの情報網があるのでね。無駄な裁判に時間と金を費やしては、裁判官や検察が可哀そうだと思ったのです」
「無駄というのはわかります。わたくしは潔白ですし、証拠をこじつけられても裁判で負けることはありません」
「なら、ご理解いただけましたね。それでは……」
「待って。わたくしはあなたの敵です。本当はこの国から追い出したかったのでしょう?」
「ええ」

 セルペンスは迷うことなく、即答した。彼の冷たい目から憎悪は感じられない。憎んでもいない相手を加害する彼の心が、ソフィアには理解できなかった。理解できないことには、とりあえず言葉を連ねてみる。

「わたくしのことが嫌いなのですね? あなたは陛下を裏切ってまで資金を用立て、戦争を防ごうとしていました。それがすべて無駄になってしまったのですから」
「そうですね……あなたの行動は想定外でした。いや、あなたの存在自体が最初からあり得なかった。計画が全部狂ってしまったのですよ。第二王女のルシア殿下が来られる予定だったのが、どこでどう変わってしまったのか。じつは公爵との結婚を進言したのは私です」

 いつものルシアのわがままで、ソフィアが嫁入りすることになった。もし、当初の予定通りだったと思うと──

「リエーヴの次期国王とグーリンガムの王女が結婚すれば、国同士の平安は保たれると思ったのです。裏で資金提供するのは、これまでだと思っていました」

 この見た目完全悪役の逆三角髭は、私利私欲のために動いていたのではなかった。国のために感情を殺し、ひたすら尽くしていたのである。ソフィアが聞きたかったのは彼の清廉さを知るためではなく、その逆だった。権力を得るために、政敵であるソフィアを貶めたという事実がほしかったのだ。自分のせいで戦争になった罪悪感を少しでも和らげたかった。
 そんなソフィアの心情を察知してか、セルペンスは口の端を曲げて意地の悪い笑みを浮かべた。

「あなたは罪深い人だ。私は悪人であなたは善人かもしれないが、あなたのせいで人がたくさん死ぬことになる。行いが正しくても、人を救えるとは限らないのですよ」
「やめて……」

 ソフィアは彼を追うべきではなかったと、後悔した。彼が見た目どおりの悪人で権力の虜で、極悪非道の人非人だったら良かったのに。本当の彼は民と国のために働いていた。反対に、優しくて民に慕われるソフィアが無垢な命を消費する悪魔なのだ。
 表面上は勝利しても、精神面ではソフィアが負けていた。

 フッとセルペンスの顔から笑みが消えた。邪悪な顔がまた能面のごとく無表情になる。

「軽く昔話でもしましょうか。公爵夫人、私はあなたと違い、そこまで高貴な生まれではないんですよ。貴族といっても、領地もない底辺。しかも、三男坊ときている。庶民に近いかもしれませんな? ですから、がむしゃらに勉強した──」

 唐突に始まった昔話はソフィアの胸をえぐった。

「父は私を聖職者にしたかったのだと思います。その父も亡くなり、私は学匠として王城に仕えることとなりました……ああ、父は戦死ですよ。もっとまえの戦争でね」

 どうしてこんな昔話を聞かせようと思ったのか。セルペンスは苦労人だった。寝る間も惜しんで勉強し、家族と国のためにその身を捧げた。戦争で家族を亡くし、貧困が病を引き寄せ初恋の人を奪った。それからはいっそう学問に邁進し、やがて政務に励むこととなる。人から好かれることはなく、能力だけがいつも高く評価された。そして、学匠から廷臣、相談役、宰相と徐々に出世していく。

「本当は軍人になって、勇ましく国のために戦いたかったのです。兄たちのようにね。ですが、虚弱な私には無理でした……兄たちは二人とも亡くなりましたよ。戦死です」

 “戦死”という言葉がソフィアに重くのしかかる。人の生を奪ってまで、貫き通そうとする愛にどれだけ価値があるというのだろう? 戦争は命だけでなく人の心まで奪っていく。セルペンスの抑揚のない声が物語っていた。

「私はなんとしても、戦争を回避したかった。それだけです」

 初まりから最後までセルペンスは感情を見せなかった。話し終えるとクルリと背を向け、待たせている馬車のほうへと歩き出す。ソフィアはその板みたいな背中をただ眺めることしかできなかった。
 始まってしまった戦争を回避することはできない。これから、ソフィアのせいでたくさんの人々が死んでいく――

「あ、なぜ訴訟を取り下げたか、気にされてましたね?」
 ふたたび止まった背中からこんな声が聞こえてきた。

「無駄が嫌いなのも、当然ありますが……民にとって、あなたが必要だと思ったからです」

(どうしてそんなことを? わたくしは自分の幸せしか考えられない役立たずよ?)
 ソフィアには、セルペンスの言葉の意図が汲み取れない。

「愚かな善人と敏い悪人、民が選ぶのはあなたです。国にとってどちらが良いか……場外から私は見守らせていただきますよ」

 こんな捨て台詞を最後に、セルペンスは王城から去っていった。
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