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46話 お帰りください

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 ネイリーズ伯爵夫妻と別れ、ソフィアがノア宅をあとにしたのは、日が落ちる直前だった。
 冬の日は早い。城に着いた時はもう真っ暗だ。伯爵夫妻にカルボナーラを振る舞ったのが午後二時ぐらいである。ソフィア自身はあまり食べていないのだが、そんなに空腹ではなかった。考えることがたくさんあると、食欲は減退する。

 主殿の玄関ホールでケツ顎ジモンに呼び止められた。

「ソフィア様っ!! やっと帰ってこられましたか!! 早くこちらへ! ご案内いたします!」

 なにか起こったのだろうか。慌てた様子だ。いつものボヤッとしたキャラクター感が抜け、騎士団長らしくなっている。

「どうしたの? なにごとです?」
「公爵閣下が城中の人間を大広間に集めて、なにか始めようとされているのです。私は案内役を仰せつかったのですよ。ソフィア様が帰られたら、すぐに開始されますので……」

 その内容は?……と聞いても、ジモンは頭を振るばかりだ。まったく聞いていない話にソフィアは不安を募らせた。

 昨晩、支配欲に満ち、それこそ天下人となった公爵閣下は今朝、これまでで最大級の甘ったれになった。裸体を絡ませ眠って起きてからは、ソフィアに密着し、一ミリも移動させてくれなかったのである。恒例のベッド上の朝ご飯にて、リヒャルトの両手はソフィアの髪をさわったり、ソフィアへ食事を運ぶためだけに使われた。自分のために使わないのは、意地であろう。全部食べさせられたいという。

 そんな甘えん坊から、今聞いた行動力は想像つかない。しかし、心配しつつもソフィアはリヒャルトを信じていたので、早く会いたいと思った。
 ガランとした城内はいっそう広く感じる。人がいないだけで、城は別物になる。忘れ去られた遺跡を歩いているような既視感を覚えた。


 椅子も設えず、大広間の奥でリヒャルトは立って待っていた。目が合うと、眉間の険が取れる。

「ソフィア! 帰ってきたか! ジモン、ごくろう」

 弾んだ声を出し、ソフィアを定位置の自分の隣に立たせた。上目で訴えるも、リヒャルトは答えず。女にされて一日も経っていない、依然として過敏なソフィアの手を握った。
 これでも外向きの顔である。二人きりになった時の甘ったれ暴君を思い出して、ソフィアはゾクゾクしてしまう。

 広間には城で働くありとあらゆる業種の人が集まっていた。
 衛兵、学匠、武術指南役、庭師、メイド、執事、料理人、下男下女、洗濯女、機織り女──百人以上いるだろうか。来る途中、ひとけがなかったのはこのせいだったのだ。
 ソフィアたちの近くにはルシア夫婦、宰相セルペンスがいる。夕食前で空腹なのもあるだろう。機嫌の悪さが見て取れる。

「いったい、なにごとですの?」

 案の定、ルシアがリヒャルトに食ってかかった。リヒャルトは平然と冷たい笑みを浮かべる。

「ソフィアが帰ったら、始めると言っただろう? 早速、本題に入ろう。話すのは君たち夫婦のことだ」

 それを聞いて、ソフィアは身体をこわばらせた。リヒャルトが手を握ってくれなかったら、ルシアの様子を観察できなかったかもしれない。

 ルシアは碧眼を見開き、拳を握りしめていた。驚きに疑念が混じるのは、普段からリヒャルトがルシアに冷たいせいだろう。

「まず、君たち夫婦には明日にでも出て行ってほしい」
「どういうことです? 失礼にもほどがあります。わたしたちは国の命でこちらに参りました。これは国同士の問題になりますよ?」
「承知のうえだ。兄……国王の了承もとってある。歓待する義理などないと判断したまで」

 今にも怒りを爆発させんとするルシアに代わって、エドアルドが口を開いた。

「そそそ、そんな……戦争になるぞ」

 過激な文言に反して腰は引けており、声も小さい。集まった人たちの半分にも声は届いてないだろう。こんなダサい小者に恋していたのかと思うと、今さらながらソフィアは恥ずかしくなる。
 この臆病者の援護は意外や意外、身内から出た。宰相セルペンス。

「グーリンガムから来られた友好的なお客様、それも王族を無下にあしらっては、敵対すると断言しているようなもの。どういうおつもりです?」

 逆三角髭は落ち着いており、リヒャルトを言い負かそうとする気概が感じられる。ゾッとする蛇の目はリヒャルトの首根っこを狙っていた。だが、そんな不気味な男に対しても、リヒャルトは姿勢を崩さない。

「では、理由を申そう。彼らは我が国の状況を探り、資金協力を得るために参ったのだ」

 資金協力の言葉に人々はどよめいた。ソフィアも初耳だ。我が親ながら、敵国に金をたかるとは図々しすぎる。しかし、セルペンスは当然知っていたのか、動じない。

「ソフィア、すまない。金の件は君に余計な気を使わせると思い、黙っていた」

 温かい銀の目に見下ろされ、ソフィアは怒りたくても怒れなかった。自分に関することは、包み隠さず話してほしかったのだが。
 ルシアが即座に弁明した。

「姉が王の代理である閣下の妻ですし、援助を求めるのは当然ではないですか?」
「妻と実家との関係性が正常なら、私も平和的に話しただろう。だが、妻はグーリンガムで邪険に扱われていた」

 リヒャルトが声を張り上げ、ざわざわしていた城内の人々は静かになった。ルシアの意地の悪い視線は、ソフィアに向いている。ソフィアはうつむいた。

「それ、本人が言ったんです? やーね……昔からそうなんですよ。わざと地味な格好をして「わたくし、いじめられてるの」って、男性の気を引こうとする。ね、エド?」

 ルシアの隣のエドアルドがうなずくのは、見なくてもわかった。このような中傷には慣れているはずなのに、ソフィアが逃げたくなるのはリヒャルトのせいだ。嘲られるみじめな自分をリヒャルトに見られたくない。ソフィアはリヒャルトのおかげで強くなり、弱くもなっていた。
 指に絡むリヒャルトの体温が上がってくる。強く手を握られ、彼が怒っているのだと、ソフィアはわかった。

「妻を侮辱するのは、もうやめていただきたい。妻は……ソフィアは一言も実家でのことを話していない。私が聞いたのは、あなた方の供をしてグーリンガムから来た人たちからだ」

 少し離れ、壁際に固まっていたグーリンガム人たちは目を泳がせている。ルシアは振り返って彼らを一瞥すると、鼻で笑った。

「おかしなことを言わないで? 姉が自分で言ってることでしょう? 誰かがそう言ったのなら、それは言わされてるだけです。わたしが尋ねれば、すぐに発言を翻しますわ」

 それはそうだろう。ルシアを恐れ、グーリンガムでは誰も本当のことを話せなかったのだ。
 ──と、ここで手を上げる者が一人。

「発言してもよろしいでしょうか? 私は騎士団長のジモン・ジュリアス・フォン・ラシュルガーと申します。公爵夫人をグーリンガムから、このリエーヴにお連れしたのは私です。ソフィア様は馬車も供の者も用意してもらえず、たった一人で私と同じリエーヴ行きの馬車に乗られました。荷物は小さな桑折一つ、使用人のような服装をされていたのです」

「それは姉が自分で望んでしたことです。最初から厚かましくリエーヴの厄介になるつもりで、なにも用意させてなかったんだわ」

 ルシアの嘘はジモンの周りにいた騎士たちによって、かき消された。同意する声は使用人たちのほうにまで、広がっていく。彼らはジモンとソフィアを迎えに行った者たちだ。

「見送りは数人の職人と学匠だけ。家族で見送られる方は一人もおられなかった」
「あと、年老いた侍女だ」
「荷物も騎士団長がお持ちしたのだ」

 ルシアがひるんだところで、リヒャルトが口を開いた。

「ソフィアは友好の証として、この
国に来たと思っていたが、ちがうようだね。道具として利用されただけだ」
「リヒャルト様は姉に騙されているのです。姉の言葉に惑わされ、争いを引き起こすおつもりですか?」
「いい加減、ソフィアを悪く言わないでほしいのだが?」
「は?」

 リヒャルトは周囲の人々を見回した。

「おまえたちを集めたのは、ソフィアの名誉を回復するためでもある。ここにおられる妹君は、ソフィアに対して根拠のない誹謗を繰り返している。聞いた者も多いと思うが、これを機に宣言しておく。我が妻ソフィアは人を欺いたり、そしったりもしなければ、国庫の金を浪費してもいない。これ以上の悪評を広める者がいたら、私は断固戦うつもりだ!」

 大広間は騒然となった。人々が口々に言うのは、ルシアから聞いたソフィアに関する嘘だ。エドアルドと不倫しているだの、国庫の金を無駄遣いして遊んでいるだの、グーリンガムでは使用人たちをいじめていただの……皆が「私も聞いた」「俺も聞いた」と声を上げた。悪い噂は相当広まっていたようだ。
 それにしても、悪評の内容はほとんどルシアに当てはまる。よくもまあ、自分のことを棚に上げて、ありもしない嘘をばらまけたものだ。

 ここまでされては、ルシアは反論しようがない。ぶりっ子の仮面はあえなく崩れ落ちる。般若の形相になり、ヒステリックに叫んだ。

「黙りなさいっ!! 主が主なら家来も家来だわ! 躾がなってないのよ! 姉の嫁ぎ先のくせに、実家が困っていても資金も出さない、王女であるこのわたしを侮辱する。もう二度とこんな国、訪れるものですか! 父にはここであったことを、しっかり申し伝えておきますからね! 無能で汚い赤毛をかばって、国を失うことになっても知らないですから!」

 ルシアの金切り声は、城中の者たちの怒りに火をつけたようだった。騒ぎは収まるどころか大きくなり、非難の目を向けられたルシアはさすがに及び腰になった。

「わかったわ。もう帰らせていただきますわ! 帰る準備をしていただけます?」
「君はソフィアとちがい、自国からたくさんの従者を連れてきているじゃないか? 馬車四台じゃ、まだ足りないとでも?」

 リヒャルトのイヤミには答えず、ルシアはおびえるエドアルドを引きずるようにして、大広間を出て行った。
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