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再び不運に見舞われ

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 簡単に終わらせていい恋ではないのに――
 目を閉じると、彼との楽しい思い出が蘇る。

 お互いのことを何も知らなかった五ヶ月前、お見合いの席で喧嘩を売ったのに、彼は私と一緒にクマゾウを取りに行ってくれた。交際を始めた初日に、火事に遭った私と同居したり……
 彼は忙しくてデートもままならなかったけど、プロポーズをするために、温泉旅行を計画してくれた。観覧車に乗るのが夢だった私のために、ゴンドラを貸し切ってくれて……
 ジンクスや運は全く興味がないのに、ゴンドラに乗るカップルは永遠に結ばれるジンクスがある紫のゴンドラを選んでくれた。次の日も縁結びの神社に連れて行ってくれたり……
 今思うと、私のために考えてくれたデートコースだった。

 彼の優しさに甘え、私は巧とのことを彼に理解してもらおうという努力さえしなかった。
 今からでも遅くないだろうか? 彼ともう一度話し合うのは。
 私はスマートフォンを手に握ると、身体を起こした。

 その時だった。
 どこからともなく、香ばしい香りがしたのは。
 薪を燃やしているような香り? まだ冬でもないのに、誰かが焚き火をしている? 
 涙を手で拭いながら、壊れたように私はフフッと一人で笑った。
 こんな心の余裕がない時に、どうでもいいことに気をとられるなんて。
 それにしても、煙が部屋の中に入ってきていると感じるの気のせい?

 私は眉を顰めた。 
 気のせいではなく、煙はどんどん部屋の中に充満している。
 火事に遭った時の光景と重なった。
 逃げないと。
 そう思った時――耳をつんざくような警報鳴り響く。

 ほぼ同時に滝の如く、スプリングクラーが水を撒き散らした。
 視界が水で遮られる中、財布が入ったバッグを取りにベッドルームに向かう。
 捻挫した足に激痛が走り、しかも濡れた床に足を滑らせ、ツルッと転んでしまった。
 強く打ったお尻の痛みを堪え、立ち上がる。
 何とかバッグを掴むと、ビスコも掴んで、外に脱出した。

「七瀬さん、どえらいことにっ」

 痛い足を引きずって、階下にやっとのことで降りると、大家さんが駆けつけてくる。
 ずぶ濡れの私を見ると、アパートの一角にある自分の部屋に戻って行った。

「火事は……?」

 火の気が無いアパート全体を、私は狐につままれたように見渡した。
 既に収まったのか、私の部屋の真下から、少しだけ煙が出ている。
 私と同じくずぶ濡れになった、若い男性が一人、その部屋の前に立っていた。

 他の住人も外に出てきた。
 乾いた状態で、命からがらというわけではなく、悠々と。
 スプリングクラーが作動したのは、私の部屋と真下の部屋だけ?  

「これで身体を拭きなさい。田中さんっ、どういうことですか。あなたの部屋から煙が出てるじゃないですか」

 大家さんが私にバスタオルを渡しながら、ずぶ濡れの男性を問い詰める。

「す、すみません。サーモンの燻製を作っていたら、煙が出すぎて、スプリングクラーが作動してしまって……」

「サーモンの燻製? そんな非常識な! 当然じゃないですかっ。燻製を室内で作るなんて。煙が出ることくらい考えなかったんですかっ」

 ガミガミと大家さんが田中さんを叱り始める。
 そうしている内に、救急車が到着した。
 警報の誤作動だと言う大家さんの説明で、消防員は警報を止めると、さっさと撤退する。
 他の住人もやれやれと、自分の部屋に戻っていく。

「七瀬さん、申し訳ない。寒いでしょう。今日はホテルを用意しますから、とにかく着替えて下さい。乾いた服がなかったら、私のでよかったら、貸しますんで」

 私が抱えるビスコドールに不審な目を向けながら、大家さんがペコペコと謝る。
 大家さんのバスタオルを羽織ったまま、痛む足で自分の部屋に戻った。

 洪水が過ぎ去った直後のように、床はもちろん、壁という壁が濡れていて、天井からも水が滴っている。私は玄関脇に置いた傘を差し、滑らないように捻挫をした足で、歩いていく。

 被害は壊滅的だった。
 二階だから水は堪らなかったけど、とにかく何もかもが濡れている。
 テーブルの上に放りっぱなしにされたスマートフォンは、ウンともスンとも言わず、起動しなかった。
 最後の気力を吸い取られ、もう何も考えられない。
 タンスの中に乾いている服を見つけ着替えると、私は大家さんにバッグを借りて、荷造りをした。

「業者さんに頼んで、部屋の中を乾かしてもらいますから。二日くらい、ホテルに滞在してもらうことになるかと。滞在費はこちらで持ちますので……」

 大家さんに言われるままタクシーに乗ると、私はホテルに向かった。
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