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引っ越し (2)

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 巧の両脇に手をついたまま私は、顔を上げる。

「どういうことだ」

 旅行鞄を肩に掛け、いかにも空港から直行したという藤原晃成がそこに立っていた。
 帰国は三日後のはずだったんじゃ……
 巧の上で四つん這いになっている自分にハッとして、巧から離れた。

「ち、違うの、これは。バランスを崩した私を、巧が助けようとして下敷きになっただけで……」

 巧と何かあったと、変な誤解を招いたかもしれない。

「そうなんだ。信じてやってくれ」

 巧も肩を痛そうに抑えながら、立ち上がる。

 どこか打ったんじゃないかと、「大丈夫?」と、私は巧の肩に触れた。

 何気ない行為だったけど、彼の刺すような視線を感じ手を離す。

「そんなことはいい」

 彼が気を鎮めるように、目を伏せた。
 彼は相当怒っている。怒る理由は明らかだった。

「聞きたいのは――どうして君の親友がここにいるのか、ということだ。アパートに他の男は入れるなと言ったはずだ」

 彼の声は重く静かだった。

「七瀬を責めるな。足を捻挫して、大変だったんだ。買い物に行けないだろうと、俺は食料を買って、渡しに来ただけだ」

「捻挫?」

 彼が私の左足に巻かれたサポーターに視線を落とす。

「大丈夫か?」と旅行鞄を下ろすと、カウンターに手をついて体を支える私に手を貸した。

「冷蔵庫に入れるもんを入れたら、俺は帰るから」

 巧が玄関に放りっぱなしにされた、スーパーの袋をキッチンに運ぶ。
 袋の中の物を、冷蔵庫に入れ始めた。

「大丈夫。階段を踏み外しちゃって」

 誤解が解けた、とホッとしたのも束の間。

「何故、俺に連絡しなかったんだ?」

 彼が責める。

「だって、晃成は海外にいたから。今日帰ってくるとは知らなかったし……」

「向こうでの仕事が早く片付いたから、帰国する予定を早めたんだ。海外でも同じ電話番号で、連絡が取れると言ってあっただろ?」

 彼の口調がいつにもなくきつい。
 普段は私に優しくしてくれる彼が……
 しかも、捻挫したことを、彼に知らせなかったというだけで? 
 私は驚きを隠せなかった。

「藤原が普段忙しくしているから、七瀬は迷惑を掛けたくなかったんじゃないか? 海外だと、電話代とか気になってしまうしな」

 食料を片付け終わった巧が、私を代弁する。

「何度も言うけど、七瀬にとって俺は友達でしかない。アパートに入れたところで何も起こりようがないから、余計な心配は無用だ」

 一言念を押す巧に、私も頷く。
 しかしながら、それは火に油を注いだようなものだった。

「それを心底信じて、嫉妬しない奴がどこにいる?」

 逆鱗に触れたように、彼が吐き捨てる。

「親友であっても男と女である以上、万が一間違いが起こってしまったら、と嫉妬に駆られるのを止められない。それは過去にも、俺だけではなかったはずだ」

 彼の言葉が、私と巧に重く押しかかる。
 何も言えずただ立ち竦んだ。
 彼がジャケットのポケットから小さな箱を取り出し、私に渡す。

「これを君に早く渡したかった」

 見覚えのある黒いベルベットのケース……
 ケースを開けると、中に入っていたのはやはり、ダイアモンドを乗せた婚約指輪――

「君の親友が大切なのは分かっている。分かっているからこそ、君と彼の関係に口出しをしなかった。だが、もう限界だ」

 とうとう言われてしまった。
 私と巧のことで、彼に無理を強いていたのは、本当は分かっていた。
 でも私は巧との関係を変えることはできなかった。

「俺と結婚するなら、君の親友とはもう会わないと約束しろ」

「――約束できなかったら?」

 やっと聞き取れるような声で聞く私に、彼が宣言する。

「破局だ」

 いきなり別れの言葉が出てきて、私は混乱した。
 彼は私に、巧と絶縁するか、彼と破局するか、どちらかを選べと言っている?
 それはすなわち。

「それは……巧か晃成か、どちらかを選べと言うこと?」

「そうだ」

 彼が頷く。

「馬鹿な。友情と恋愛は別のものだ。そのどちらかを選べなんて」

 巧が反論する。

「俺と充希の問題だ。黙っていてくれないか」

 藤原晃成がピシャリとはねつける。
 彼は本気だ。
 本気で私に彼か巧を、選ばせようとしている。

「そんなにも……」

 頭の中がゴチャゴチャになりながら、私は呟いた。

「そんなにも、異性の親友を持つことっていけない?」

 結婚の妨げにもなるほどに?

「俺の立場になって考えてみろ。答えが分かるはずだ」

 彼が言う。

「晃成の親友が女性だったら……」

 確かに、良くは思わない。

「良くは思わないけど、乗り越えられないとは思えない。男女の友情が成り立つことは、巧を通じて知っているから」

 言いながら、私と彼の間にある決定的な亀裂を悟った。

「親友と絶縁しなければ、成り立たないような結婚なんて、私には健全だと思えない」

 とにかく、私は疲れていた。
 朝からろくに食べず、重い買い物袋を運びながら坂道を何往復もし、捻挫までした。
 永遠に解決の見込みのない問題を言い争っているように感じ、気が遠くなった。
 これ以上言い争うのは、無駄だ。もう終わりにしよう。
 正常でない頭でそう判断した私は、間違いを犯した。

「――結婚の話はなかったことに」

 彼が耳を疑うような表情で、私を見る。
 こんなに人を好きになったことはなかった。
 そして、こんなに想われたことも。
 彼となら巧との関係も乗り越えられるかもしれないと、私は心の何処かで楽観的に思っていた。

「今まで、ありがとう。晃成と出会えてよかった」 

 彼が蒼ざめる。

「七瀬、早まるな。今、返事をすることじゃない」

 背後で止める巧の声も虚しく、私は婚約指輪を箱ごと彼に返す。

「これはもらえない」

 彼は受け取らなかった。
 誰も口を開かず身動きもせず、息を止めたように、時だけが刻まれて行く。

「分かった」

 彼がようやく返事をする。
 私は彼が引き止めてくれることを、期待していたのだろうか。
 彼が指輪の箱を受け取ると、突き放されたような衝撃が胸に走った。

「君が親友をそこまで大切にするなら……これまでだ」

 彼の声が冷淡に宣告する。
 彼が私に背を向け、アパートから出て行く。

 もう後戻りは出来ない。
 バタンとドアが閉まると、肩が震え涙が零れおちる。
 巧がそっと私の肩に手を置いた。

「……一人にしてもらってもいい?」

 私は啜り泣く声を手で押さえると、巧の慰めを断った。

「いいけど……何かあったら、いつでも連絡しろよ」

 躊躇しながら、巧が出て行く。
 足を引きずりながら、ソファーに横になると、惨めさが一気に襲った。
 
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