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婚約 (4)

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「こちらが巧さんの婚約者、七瀬充希さん……とおっしゃったかしら?」

 事もあろうに、藤原晃成の前で、マダムが私を巧の婚約者として紹介する。
 マズい。マズいなんてものじゃなかった。
 ダークスーツを着て、会場で一際目立つ藤原晃成の目が、冷ややかに私と巧を見据える。
 私の身体がサーっと凍りついた。

「そうか、そうか。それで、麗香との見合いに難色を示したのか。いやあ、おめでとう」

 マダムの夫が巧と握手をし、その手をブンブン振る。

「そちらの方は?」

 女性の注目を浴びている藤原晃成に、マダムが声を掛けないわけがなかった。

「彼は藤原晃成くん、コンサルティング会社インテネクサスの社長さんだよ」

「んまあ、噂に聞いていたけど、こんなに素敵な方なんて。まだ独身なんでしょ?」

 マダムの目がギラつく。
 彼がマダムに狙われる!
 いてもたってもいられず、咄嗟に赤ワインを自分のドレスにこぼした。

「私ったら……」

 白い布地に、真っ赤なシミが広がる。
 皆に注目される中、巧がサッとハンカチを差し出した。

「化粧室に連れて行ってお上げなさい。すぐに洗わないとシミになるわよ」

 マダムの声に、私の手を掴んだのは――

「化粧室ならこっちだ」

 巧ではなく、藤原晃成だった。

「えっ?」

 巧と私、藤原晃成を除く、その場にいたほぼ全員が、声を揃える。
 周りの驚きの目に構わず、藤原晃成は私をその場から連れ去った。

「ま、待って」と躊躇する私を無視して、彼はズンズンと歩いて行く。

「なぜ、あの方があなたの婚約者を……? 巧さんっ、ぼーっとしてないで、追いかけなさいっ」

 一大事のように、巧を急き立てるマダムの声が背後で聞こえた。
 私の手を握り早歩きで会場を出る藤原晃成と、引っ張られほぼ小走りで歩く私。後ろを振り返れば、巧が私と彼を追いかけている。
 まるで藤原晃成が、巧の目前で婚約者をかっさらったみたいな?
 私達の方を見て、女性達が囁きあっている。

 そして、ハタと思い当った。 
 先日、契約が取れるかもしれないと彼が言っていた大手の銀行は、マダムの夫が常務として務めるこの銀行ではないかと。
 だとしたら、問題だ。誤解されたまま変な噂にでもなったら、彼の評判に傷が……

 人気のない廊下に来たところで、彼が立ち止まる。
 私はゴクリと唾を飲み込んだ。

「一体何なんだ?」

 彼が感情にまかせ、私と巧に怒鳴る。

「手を繋いだり、婚約者として振舞ったり、ただの友達ではなかったのか」

「ただの友――」

 状況をさらに悪くするように、私と巧の声がハモる。
 案の定、気に入らなかったように、彼の目が細まった。

「七瀬を責めるな。事情があって、恋人の振りをしてほしいと無理に頼んだのは俺だ。謝る。婚約者として捉えられてしまったのは、誤算だった」

 巧が私の前に出て、庇う。

「事情? さぞかし、高尚な事情だろうな。お陰で取引先の常務の前で、不審に思われるような行動を取ってしまっただろ」

 やっぱりだ。
 巧も事情を察し、「マズイな……」と呟く。

「ごめんなさい。契約がこじれたら、私のせい……」

 私の声が震える。
 彼の足手纏いになるようなことになるなんて……婚約者失格だ。
 泣くなんて卑怯だと思いながら、涙が零れ落ちるのを止められなかった。 

「大丈夫だ。あんな些細なことで、契約はこじれたりしない」

 涙を見過ごせない彼が、私の肩を抱き寄せると、巧をキッと睨みつけた。

「軽率なことをしてくれたものだ。常務にどう説明するつもりだ?」

「そうだな……騙したことは言えない」

 巧が顎に手を当て考え込む。

「常務に全てを告白しろと言いたいところだが、それは勘弁しよう。充希にも汚名がつく」

 彼が情けを見せる。

「だが、婚約だけは否定しろ。でないと、俺達の結婚を公表するときに、充希の評判に傷がつく」

「それはもちろんだ。とにかく、七瀬は帰った方がいい。藤原氏と俺は一緒に会場に戻って――」

「藤原氏はやめろ」

 平安の貴族を連想させる呼び方に、彼が顔を顰める。

「じゃあ、藤原か」

「どうでもいい。俺は充希にタクシーを拾ってから、会場に向かう」

 彼が上着を脱いで、私の肩にかけシミを隠す。

「私は一人で大丈夫だから、巧と行って。その方が変に誤解されなくて済むから」 

 涙をハンカチで抑えながら、上着を彼に返す。
 彼の優しさが今は痛い。

「……そうだな。 帰ったら連絡をくれ」

 巧の前で、彼が私にキスをする。

「見せつけるのはいいけど、口紅落としとけよ。また変な誤解を生む」

 巧がもろともせず、彼に忠告する。

「反省の色、全くなしだな」

 藤原晃成が指で唇を拭うと、巧に毒ついた。

 いつか私と彼、巧の間に、わだかまりがなくなる日が来るのだろうか。
 一定の距離を開けて歩く二人の背中を、私は不安げに見守った。
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