上 下
44 / 60

婚約

しおりを挟む
 コオロギの鳴き声を聞きながら、彼と露天風呂にゆっくり浸かり、朝は日が高くなり、一段と高まった蝉の鳴き声で目を覚ます。
 遅い朝ごはんを済ませ、また露天風呂に浸かり、旅館を出たのはほぼ正午だった。

 涼しい木陰に囲まれた参道を歩いて、縁結びで有名な神社でお参りをする。
 時が瞬く間に過ぎていく。

 夕方、彼の友人である間宮涼のレストランで婚約報告も兼ねて食事をすると、私と彼はダイヤモンドをはめる婚約指輪を選びに、ショールームを訪ねた。
 数々のデザインの中から、見た瞬間にピンときて私が選んだのは、ダイアをアームで包む、シンプルで凛とした存在感のあるプラチナのリングだ。

 指輪の制作は通常一ヶ月掛かる、と言われた。
 私はそれで不満はなかったのだけど……
 私の左手の薬指にはめられる指輪を早く見たいからと、彼がショールームにあった指輪を仮の婚約指輪としてプレセントしてくれた。

 それがつい昨日のことだ。
 そして今、私の左手の薬指には、その仮の婚約指輪がはめられている。
 私の誕生石である水色のアクアマリンを品よく乗せた指輪は、決して安価ではなかった。
 幸せな結婚をもたらすという伝承を持つパワーストーン。
 その深みのある水色に、私はホーッとため息をつく。

 とっても幸せだ。

 二十八歳という私の人生を振り返っても、こんなに幸せだったことはない。
 数ヶ月前は火事にあって、何もかも失い、不幸のどん底に突き落とされたような感じがしていたのに。

 ――でも、怖い。

 超幸せになるって、こんなに怖いものだとは思わなかった。
 二八歳の誕生日を迎えて以来、不運が続いたせいだろうか?
 後何十年も続く私の人生の中で、今が幸せの頂点なような気がしてならない。
 今という瞬間が過ぎると、後は落ちるだけ、みたいな。

「――分かりやすく例えるなら、幸せという名の尖った山があったとして、両足を着くのもやっとの広さの頂点で、四方八方を急な崖に囲まれて、崖に落ちないように際どいバランスを保ちながら立っているような気分?」

 巧のマンションでマダムが送って来た松坂牛のステーキをご馳走になった後、デザートにプリンを食べながら、婚約後の心境を語る。
 巧はこのところ出張続きで、会うのは久しぶりだった。

「例えが高所恐怖症のお前らしいな。早くもマリッジブルーか? 俺には全部、惚気にしか聞こえないけど」

「これがマリッジブルー?」

 カッと私の目が見開く。
 マリッジブルー、マリッジブルー、マリッジブルーと、頭の中で反響した。

 まさか私がー――?

 ショックを受けていると、

「……それより、何か忘れているだろ?」

 と巧が咎めるような口調で言う。
 すぐに巧の恋人になる件を思い出して、「あっ」と叫ぶ。

「忘れるなよっ。こっちはいくら七瀬でも無茶なことを頼んでしまったかなって、ヤキモキしてたっつーのに」

「ごめんごめん。でもその件なら、オッケー」

 テヘヘッと、私は笑って誤魔化す。

「ええっ? そんな軽くオッケーでいいのか? アイツと婚約したんだろ?」

「大丈夫……じゃないかな? 純粋に友達として、助けになりたいだけだから。それに、私もマダムからの宅配、食べてたし」

「悪いな、巻き込んで。俺の恋人役を演じられる奴は、お前しかいない」

 胸を熱くしたように、巧が言う。

 事の始まりは、巧にいつもギフトを贈るマダムだ。
 そのマダムがついに行動を起こし、来週開催されるビジネスパーティーで、娘を紹介すると言ってきたのだ。
 恩恵を受けたという心理効果は絶大だ。
 宅配便で送られるギフトを食べ続けた巧は、気が進まないという理由だけでは断りづらく、付き合っている人がいると言ってしまった。
 そこで引き下がると思ったら、マダムに今度のパーティーに連れて来ていらっしゃいと、言われたらしい。
 恋人との熱々ぶりを見せないと、諦めてくれそうにない勢いだそうだ。

 当分女性関係は懲り懲りな巧は、恋人役に私を立てた。 
 私なら勘違いして、巧に惚れてしまうこともないからだ。
 マダムの娘とお見合いをして、断ったほうが簡単だと私は思うのだけど、ストーカーが入っているマダムの娘と会ってしまうと、余計ややこしいことになると巧は踏んでいる。

「今更急にギフトは要らないっていうことも、言えないしさ。取引銀行の常務の奥さんだと、気を使うよ。初めからギフトを断ればよかったんだよな。面倒だからと、放って置くともっと面倒なことになる。俺もまだまだ未熟だ」

 巧がそう言って、プリンのお皿を片付ける。

「それで、パーティーの打ち合わせだけど……」

 ノートパソコンまで持ってきて、本格的な作戦会議に入った。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛

冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

鬼上官と、深夜のオフィス

99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」 間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。 けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……? 「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」 鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。 ※性的な事柄をモチーフとしていますが その描写は薄いです。

溺愛婚〜スパダリな彼との甘い夫婦生活〜

鳴宮鶉子
恋愛
頭脳明晰で才徳兼備な眉目秀麗な彼から告白されスピード結婚します。彼を狙ってた子達から嫌がらせされても助けてくれる彼が好き

お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜

Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。 渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!? 合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡―― だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。 「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき…… 《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》

処理中です...