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九
婚約
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コオロギの鳴き声を聞きながら、彼と露天風呂にゆっくり浸かり、朝は日が高くなり、一段と高まった蝉の鳴き声で目を覚ます。
遅い朝ごはんを済ませ、また露天風呂に浸かり、旅館を出たのはほぼ正午だった。
涼しい木陰に囲まれた参道を歩いて、縁結びで有名な神社でお参りをする。
時が瞬く間に過ぎていく。
夕方、彼の友人である間宮涼のレストランで婚約報告も兼ねて食事をすると、私と彼はダイヤモンドをはめる婚約指輪を選びに、ショールームを訪ねた。
数々のデザインの中から、見た瞬間にピンときて私が選んだのは、ダイアをアームで包む、シンプルで凛とした存在感のあるプラチナのリングだ。
指輪の制作は通常一ヶ月掛かる、と言われた。
私はそれで不満はなかったのだけど……
私の左手の薬指にはめられる指輪を早く見たいからと、彼がショールームにあった指輪を仮の婚約指輪としてプレセントしてくれた。
それがつい昨日のことだ。
そして今、私の左手の薬指には、その仮の婚約指輪がはめられている。
私の誕生石である水色のアクアマリンを品よく乗せた指輪は、決して安価ではなかった。
幸せな結婚をもたらすという伝承を持つパワーストーン。
その深みのある水色に、私はホーッとため息をつく。
とっても幸せだ。
二十八歳という私の人生を振り返っても、こんなに幸せだったことはない。
数ヶ月前は火事にあって、何もかも失い、不幸のどん底に突き落とされたような感じがしていたのに。
――でも、怖い。
超幸せになるって、こんなに怖いものだとは思わなかった。
二八歳の誕生日を迎えて以来、不運が続いたせいだろうか?
後何十年も続く私の人生の中で、今が幸せの頂点なような気がしてならない。
今という瞬間が過ぎると、後は落ちるだけ、みたいな。
「――分かりやすく例えるなら、幸せという名の尖った山があったとして、両足を着くのもやっとの広さの頂点で、四方八方を急な崖に囲まれて、崖に落ちないように際どいバランスを保ちながら立っているような気分?」
巧のマンションでマダムが送って来た松坂牛のステーキをご馳走になった後、デザートにプリンを食べながら、婚約後の心境を語る。
巧はこのところ出張続きで、会うのは久しぶりだった。
「例えが高所恐怖症のお前らしいな。早くもマリッジブルーか? 俺には全部、惚気にしか聞こえないけど」
「これがマリッジブルー?」
カッと私の目が見開く。
マリッジブルー、マリッジブルー、マリッジブルーと、頭の中で反響した。
まさか私がー――?
ショックを受けていると、
「……それより、何か忘れているだろ?」
と巧が咎めるような口調で言う。
すぐに巧の恋人になる件を思い出して、「あっ」と叫ぶ。
「忘れるなよっ。こっちはいくら七瀬でも無茶なことを頼んでしまったかなって、ヤキモキしてたっつーのに」
「ごめんごめん。でもその件なら、オッケー」
テヘヘッと、私は笑って誤魔化す。
「ええっ? そんな軽くオッケーでいいのか? アイツと婚約したんだろ?」
「大丈夫……じゃないかな? 純粋に友達として、助けになりたいだけだから。それに、私もマダムからの宅配、食べてたし」
「悪いな、巻き込んで。俺の恋人役を演じられる奴は、お前しかいない」
胸を熱くしたように、巧が言う。
事の始まりは、巧にいつもギフトを贈るマダムだ。
そのマダムがついに行動を起こし、来週開催されるビジネスパーティーで、娘を紹介すると言ってきたのだ。
恩恵を受けたという心理効果は絶大だ。
宅配便で送られるギフトを食べ続けた巧は、気が進まないという理由だけでは断りづらく、付き合っている人がいると言ってしまった。
そこで引き下がると思ったら、マダムに今度のパーティーに連れて来ていらっしゃいと、言われたらしい。
恋人との熱々ぶりを見せないと、諦めてくれそうにない勢いだそうだ。
当分女性関係は懲り懲りな巧は、恋人役に私を立てた。
私なら勘違いして、巧に惚れてしまうこともないからだ。
マダムの娘とお見合いをして、断ったほうが簡単だと私は思うのだけど、ストーカーが入っているマダムの娘と会ってしまうと、余計ややこしいことになると巧は踏んでいる。
「今更急にギフトは要らないっていうことも、言えないしさ。取引銀行の常務の奥さんだと、気を使うよ。初めからギフトを断ればよかったんだよな。面倒だからと、放って置くともっと面倒なことになる。俺もまだまだ未熟だ」
巧がそう言って、プリンのお皿を片付ける。
「それで、パーティーの打ち合わせだけど……」
ノートパソコンまで持ってきて、本格的な作戦会議に入った。
遅い朝ごはんを済ませ、また露天風呂に浸かり、旅館を出たのはほぼ正午だった。
涼しい木陰に囲まれた参道を歩いて、縁結びで有名な神社でお参りをする。
時が瞬く間に過ぎていく。
夕方、彼の友人である間宮涼のレストランで婚約報告も兼ねて食事をすると、私と彼はダイヤモンドをはめる婚約指輪を選びに、ショールームを訪ねた。
数々のデザインの中から、見た瞬間にピンときて私が選んだのは、ダイアをアームで包む、シンプルで凛とした存在感のあるプラチナのリングだ。
指輪の制作は通常一ヶ月掛かる、と言われた。
私はそれで不満はなかったのだけど……
私の左手の薬指にはめられる指輪を早く見たいからと、彼がショールームにあった指輪を仮の婚約指輪としてプレセントしてくれた。
それがつい昨日のことだ。
そして今、私の左手の薬指には、その仮の婚約指輪がはめられている。
私の誕生石である水色のアクアマリンを品よく乗せた指輪は、決して安価ではなかった。
幸せな結婚をもたらすという伝承を持つパワーストーン。
その深みのある水色に、私はホーッとため息をつく。
とっても幸せだ。
二十八歳という私の人生を振り返っても、こんなに幸せだったことはない。
数ヶ月前は火事にあって、何もかも失い、不幸のどん底に突き落とされたような感じがしていたのに。
――でも、怖い。
超幸せになるって、こんなに怖いものだとは思わなかった。
二八歳の誕生日を迎えて以来、不運が続いたせいだろうか?
後何十年も続く私の人生の中で、今が幸せの頂点なような気がしてならない。
今という瞬間が過ぎると、後は落ちるだけ、みたいな。
「――分かりやすく例えるなら、幸せという名の尖った山があったとして、両足を着くのもやっとの広さの頂点で、四方八方を急な崖に囲まれて、崖に落ちないように際どいバランスを保ちながら立っているような気分?」
巧のマンションでマダムが送って来た松坂牛のステーキをご馳走になった後、デザートにプリンを食べながら、婚約後の心境を語る。
巧はこのところ出張続きで、会うのは久しぶりだった。
「例えが高所恐怖症のお前らしいな。早くもマリッジブルーか? 俺には全部、惚気にしか聞こえないけど」
「これがマリッジブルー?」
カッと私の目が見開く。
マリッジブルー、マリッジブルー、マリッジブルーと、頭の中で反響した。
まさか私がー――?
ショックを受けていると、
「……それより、何か忘れているだろ?」
と巧が咎めるような口調で言う。
すぐに巧の恋人になる件を思い出して、「あっ」と叫ぶ。
「忘れるなよっ。こっちはいくら七瀬でも無茶なことを頼んでしまったかなって、ヤキモキしてたっつーのに」
「ごめんごめん。でもその件なら、オッケー」
テヘヘッと、私は笑って誤魔化す。
「ええっ? そんな軽くオッケーでいいのか? アイツと婚約したんだろ?」
「大丈夫……じゃないかな? 純粋に友達として、助けになりたいだけだから。それに、私もマダムからの宅配、食べてたし」
「悪いな、巻き込んで。俺の恋人役を演じられる奴は、お前しかいない」
胸を熱くしたように、巧が言う。
事の始まりは、巧にいつもギフトを贈るマダムだ。
そのマダムがついに行動を起こし、来週開催されるビジネスパーティーで、娘を紹介すると言ってきたのだ。
恩恵を受けたという心理効果は絶大だ。
宅配便で送られるギフトを食べ続けた巧は、気が進まないという理由だけでは断りづらく、付き合っている人がいると言ってしまった。
そこで引き下がると思ったら、マダムに今度のパーティーに連れて来ていらっしゃいと、言われたらしい。
恋人との熱々ぶりを見せないと、諦めてくれそうにない勢いだそうだ。
当分女性関係は懲り懲りな巧は、恋人役に私を立てた。
私なら勘違いして、巧に惚れてしまうこともないからだ。
マダムの娘とお見合いをして、断ったほうが簡単だと私は思うのだけど、ストーカーが入っているマダムの娘と会ってしまうと、余計ややこしいことになると巧は踏んでいる。
「今更急にギフトは要らないっていうことも、言えないしさ。取引銀行の常務の奥さんだと、気を使うよ。初めからギフトを断ればよかったんだよな。面倒だからと、放って置くともっと面倒なことになる。俺もまだまだ未熟だ」
巧がそう言って、プリンのお皿を片付ける。
「それで、パーティーの打ち合わせだけど……」
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《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》
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