愛としか

及川 瞳

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― 5 ― 過去編

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 結婚をするにあたっての私の希望は、とにかくできるだけ簡素にシンプルに、というものだった。それで、結婚式も披露宴も新婚旅行もせず、特別有給休暇を来月の初旬に一週間取るだけにした。すると会社が休暇の前の日に、第三監査課主催の結婚を祝う会を、会議室で開いてくれる事になった。
 あと、いくらシンプルにとは云っても、それでもやはりする事は他にもいろいろとあった。一緒に住む処を探して引っ越さないといけないし、私の親戚や長野の崇之の実家にも挨拶に行かなければならない。
 それから、まだ解決していない問題が二つ。
 一つ目は、私の父親に会いに行く事。
 崇之に父と絶縁している事情を話して、結婚の連絡さえも必要ないと云った。けれど、いつも私の一方的な決定に唯々諾々と従ってきた崇之だったのに、これだけは頑としてそれをよしとしなかった。会わなくていいと云う私と、やはり会わなきゃだめだと云う崇之の意見は、いよいよ明日から休暇に入るという日になってもまだ平行線のままだった。
 そして、もう一つは田上恭也の事だ。
 大学時代、田上君の求婚を断ったのだけれど、それだけならさして問題はないと思う。プロポーズは田上君の打算だし、そこに愛情などの問題はなかったから。
 ただ、その時、あんなにはっきりと自分は結婚なんかしない、愛なんて信じないと云ったのに、彼の目の前でそれを反故にする事に抵抗があった。結果的に嘘をつく事になって田上君を怒らせているのではないか、ひどく傷つけているのではないか、と心配になったのだ。実際、これまで社内で田上君とは普通に同僚として時には仕事で協力もすれば、日常会話もしていた。が、崇之との結婚が公にされてから微妙に避けられているというか、無視されているような気がしていた。
 気にかけつつもそのまま時は過ぎ、とうとう明日から結婚休暇という祝う会の当日。朝、顧客先に出かける為に乗った下りのエレベーターで、偶然田上君と二人きりになった。朝夕のエレベーターは大抵ひどく混雑しているから、それはまったく予期していなかった事で、エレベーターが九階分下降するだけの限られた時間の中で、どうすればいいのか、何を云うべきかを必死に考えていた。その間、田上君はやはりこちらの方をまったく見ず、完全に無視しているようだった。
 焦るから余計に考えがまとまらず、とうとう一階に着いてしまう。フロアを足早に立ち去ろうとする田上君の背中に、とにかく声を掛けた。
「田上君。待って、田上君」
 そのまま聞こえない振りをして立ち去られてしまいそうで、少し大きな声を出してしまった。やっと立ち止まってこちらを振り向いてくれた田上君に私はとにかく素直に謝った。
「田上君。ごめんなさい。ずっと気になっていた。私……」
 そう云いかけた時、田上君の視線が自分の左後ろに逸れたのを見て振り向いた。
 そこには崇之がいた。手に税務代理権限証書を持っている。今から行く会社で印鑑を貰う書類だ。さっき打ち出したままプリンターに置き忘れているのに気付いて、追いかけて持ってきてくれたのだろう。
 この距離なら今のセリフはきっと崇之にも聞こえていたに違いない。そう気付いたのは田上君も同じで、急に踵を返してこっちに近づくと云った。
「佐藤さん。それは何について俺に謝っているの?」
 これは崇之がここにいるから、わざとそう訊いているんだってわかっていたけれど、今はまず、田上君への謝罪を優先した。
「嘘、ついたから。前に、だから」
 崇之はただそこで、事の成り行きを見ていた。
「ごめんなさい」
 と、頭を下げた。田上君は少し考えて、
「許すか許さないか、考えておくよ」
 と云ってから、私達を残して行ってしまった。この時の私には、どうしてこんな風に田上君が自分に必要以上に意地悪な態度をとるのかわかっていなかった。昔から特にすごく優しかった訳ではないけれど、前は普通に女性に対する紳士的な態度の範疇だった。彼は嘘をつかれた事ではない別の事で、苛立っているように思えた。
「……あ、ありがとう」
 顔を上げると、そこにそのまま立っている崇之からプリントを受け取った。今の会話の内容を説明するべきかどうか一瞬考えたけど、とても短時間で簡潔に話せる自信がなくて諦めた。
「時間がないから行くね」
「運転、気をつけて」
 ビルの大きな回転ドアへと歩きながら、もし後で崇之から訊かれたら事情を説明しようと思っていた。けれど、崇之も私が話してくれたら聞こうと思っていたので、二人の間でこの話題が上る事はなかった。


 その夜に結婚を祝う会があり、翌日から一週間の休みに入ったのだけど、最初の一日は都内の私の親戚の家に挨拶回り、次の二日間は引っ越しに明け暮れた。私は会社近くのアパートから、崇之は隣の区の兄のマンションから、新しく借りた新築マンションに荷物を運んだ。
 お互いにそれぞれの個室がある間取りにしたので、基本はそのまま独身時代に使っていたベッドや机を運び込むだけだったけれど、リビングの家具やファブリック、買い換えるべき電化製品もあって時間はいくらあっても足りなかった。
 どうにか人が住めるレベルまでは片付いたと思ったら、もう長野に行く日になっていた。長野まで高速を使って五時間弱。崇之が車を出すというので、私も念の為に免許証を持っていこうとしていたら彼に全力で止められた。
「あの運転でよく、免許がとれたよ……」
 崇之に云わせると私の運転はブレーキのタイミングは遅いし、ハンドルの切りは甘いし、スピードの出し方が道路に全然合っていないしで最悪らしい。一度、私の車に同乗して肝を冷やして以来、可能な限り崇之が車を出してきた。本当なら私に一切車の運転をして欲しくないようだったけれど、仕事柄荷物が多かったり、訪問先へのアクセスが悪かったり、残業が多かったりでの通勤の安全上、どうしても車の使用が必要だった。
 そうは云ってもこれまで無事故無違反なのに、と憤慨したけれど、とにかく運転は交代してもらえず崇之の運転だけで無事に実家に着いた。
 長野には崇之の父親と母親のそれぞれの実家があって、加瀬家先祖代々のお墓もここにある。崇之の生家は純日本家屋の豪奢な平屋で、玄関からして恐ろしく広かった。天井も柱も建具もものすごく古そうなんだけど、上質な素材ゆえに年を重ねた分、風格が増してますます重厚な雰囲気を醸し出している。
 玄関で出迎えてくれた崇之の父親は、満面の笑顔で私の事を心から歓迎してくれた。やはりかなり緊張していたので、それだけで随分とほっとした。
 居間に案内されている途中、長い廊下の左手の庭は中央が大きな池で、その奥には販売店規模の様々な樹木が茂った築山が悠々と広がっていた。右手の屋敷内はいくつもの座敷が連なっていて、いろいろな模様の豪華な彫の欄間とか、達筆すぎて読めない大きな書の掛け軸とか、大木の根を切って造られた重たそうな衝立とかが無造作に置いてあった。すべての襖を開け放つと何十人もの人が一堂に会せる大広間になる、なにかの映画で見た事あるような威圧感のある設えだった。
「任侠、って感じでしょ」
 歩きながら崇之が云った。そう云えばそんな感じかもと思っていたら、
「昔は実際にそうだったからね」
 と、さらっとつけ足した。びっくりしていると崇之は笑いながら、
「大丈夫。今は普通」
 と、なんでもない事のように云った。
 通された奥の和室は極普通のテーブルと座布団と、床の間に柔らかな風景の描かれた掛け軸のかかった、普段見慣れた日常的な造りの部屋だった。廊下越しに見える奥庭も、小ぶりの灯篭と色づいた紅葉がすっきり見渡せて落ち着ける。
 襖を隔てた隣の部屋が仏間で、まず、仏壇の崇之の母親に手を合わせた。傍に置かれた写真を見ると、とても華奢で綺麗な人だった。笑顔の素敵な優しそうな人だけど、きっと本当に優しくて、この人に育ててもらったから今の崇之があるんだと思った。
「母さんがいたら、きっとすごく喜んでくれただろうね」
と、崇之が云うと、
「いや、ちゃんとここにいて喜んでいるよ」
と、にこやかに父親も云った。
 崇之の母親は、六年前に不治の病を発症した。すぐに死んでしまうような病気ではなかったけれど、元から体があまり丈夫でなかった事もあって絶対安静の闘病生活が始まった。
 当時、父親はいくつかの関連会社を経営していた。当然に多忙で、とても満足に妻の看病ができる状態ではなかった。それで、彼はまだ五十歳の若さで代表取締役社長の座から退き、経営のすべてを甥に譲った。
 息子である修一も崇之も、まったく父親の会社を継ぐ気がなかったし、潤沢な財産の他に会社が建っている土地と建物が彼の個人名義だったので、毎月生活していくのに十分な賃貸収入も見込めた。決して仕事は嫌いではなかったけれど、大恋愛の末に学生結婚までした大切な妻に代えられるものはなかった。
 結局、闘病生活は一年と少ししか続かず彼女は他界した。それでも短い余生をできる範囲ではあっても幸せに、共に過ごせた事に悔いはなかった。話を聞きながら私はそんな夫婦もいるんだと、ちょっと哀しくなるくらい感動していた。それから自身の父を思い、母を思った。
 その後、また崇之の車で近くの父親の弟の家と母親の兄の家を廻って、それぞれに顔見せの挨拶をした。本来なら親戚一同を集めて食事会とか開くところかもしれないけれど、崇之達と同じように若い世代はみんな都会に出ていて今は年寄りしか残っておらず、あまり意味をなさなかった。
 結局二人で再び崇之の家に帰ってきたのは七時前だった。帰るとすっかり食事の用意ができていて、すぐに食べられるようになっていた。私の家は核家族だったので、嫁の立場、と云うのがよくわからなかった。加瀬家の一切の家事は、母親が病床に着いた時からずっと通いのお手伝いさんがやってくれていた。姑さんはいないけど、それでもやはり嫁としては家事を手伝うべきだろうと台所に行ってみたけれど、そこでベテランお手伝いさんである立花さんに、ぴしゃりと窘められた。
「若奥様。これは私の仕事ですから、一切手出し無用でございます」
 人生で初めて、というか普通、生涯縁があるとは思えない「若奥様」扱いを受けた事に驚愕していたところに、
「私は本日はこれで下がらせていただきますが、食事の後片づけや布団の始末などをご自分でなさろうなどとは、努々お思いになりませんように。もし、少しでも若奥様が何か為されようものなら、それはもう取り返しのつかない大変な事になってしまいますよ。よろしいですね」
 と、真顔で脅された。
 その気迫に押されて、つい「はい。すみません」などと謝りながら元の部屋に戻った。
「何? どうしたの?」
 私が余程不可思議な顔をしていたらしく、崇之と父親にそう尋ねられた。
「取り返しのつかない大変な事って、なんでしょう?」
 結構真剣に訊いてみたのだけど、二人に爆笑された。
「あー、立花さんね。うん。家の事には手出ししない方がいいよ。もう、それはそれは世にも恐ろしい事態になるらしいから」
 と、崇之に云われた。
 立花さんは若いお嫁さんが気を使わないようにわざと云ってくれているんだってわかるけど、でも、だからって本当に何の後片付けもしないで放っておいていいものか、悩んだ。でも結局、立花さんのあの迫力に負けて、使った食器を台所に運んで水につけておく処までしておいた。これくらいはセーフにして欲しい。
 食後に話しながら三人でお茶を飲んでいたら、古い柱時計が十時を知らせた。父親が様子を見て声をかけてくれる。
「千晶さん、疲れたでしょう。今日は早めに休んだ方がいい。崇之、お風呂に連れて行ってあげて」
「え、あ、大丈夫です」
 たぶん家長より先に、嫁が風呂に入ってはいけない気がした。でも、そう考えている間にもう崇之が先に部屋を出ようとしていたので、慌てて立ち上がって「すみません。先に入らせていただきます」と挨拶してから後に続いた。
「いいのかな。お義父さんより先に入っちゃって」
「そういうの、関係ないよ。俺はもう少し父さんと話しているけど、お風呂が済んだら先に寝て。俺も兄さんも十八歳でこの家を出たから、こんな風に父さんとゆっくり話した事なかったんだ。今日は親孝行するよ」
 そう崇之が云った。
 私達の荷物は、崇之が高校を卒業するまで使っていたという部屋に運んであった。十畳程の広さの和室にカーペットが敷いてあって、奥の大きな窓に向けて勉強机とベッドが置いてあった。部屋の右側はクローゼットでその逆側とドア側の壁は一面本棚になっており、小説や雑誌、受験参考書や何某かの専門書といったあらゆるジャンルの本が並んでいた。
 私はカバンから着替えを取り出すと、また長い廊下を崇之について歩いた。
 浴室は廊下の突き当たりの、屋敷の一番奥まったところにあった。崇之は中の電気を点けてくれて、簡単に設備の説明をして出て行った。
 とても個人住宅レベルとは思えない広い脱衣所を見た時から、きっとそうなんだろうと予想はしていたけれど、浴室はこぢんまりとした温泉宿クラスの広さがあった。壁の向こう一面がすべてガラス張りで、そこから見える坪庭にはいろいろな木や草花がたっぷりと植えられていて、統一感はなかったけれど安らげる温かさがあった。超ゆったりサイズの浴槽は、総檜造りだ。
 ここは母親が病床に伏せっている時に、せめてお風呂でくらい旅気分を味あわせてあげたいと、父親が改装したものだそうだ。サッシを全面開け放てば露天風呂風にもなる、父親としては自慢の大浴場だったのだけど、私にはこの大いなる解放感の中に裸でいるのが妙に恥ずかしく心細かった。それで隅の方でこそこそっと体を洗って、大きな浴槽の端っこでちょこっとお湯に浸かって早々に出てしまった。
 寝室に戻る途中でリビングに寄ったら、崇之達は向かい合って水割りを飲んでいた。大人になった息子と一緒に酒を酌み交わすというのは、父親の叶えたい夢のひとつかもしれない。就寝の挨拶をしてから部屋に戻った。
 当然といえば当然にふかふかの布団が二組並べて敷いてあって、私は奥側の布団にもぐりこんだ。やはり自分で思うよりずっと疲れていたのだろう。清潔なシーツの心地良い感触を堪能する間もなく、あっという間に眠りに落ちていった。


 目覚めると、部屋はうすぼんやりと明るかった。身じろぎすると、隣の布団の中でうつ伏せたまま、小さなスタンドの明かりで本を読んでいた崇之が声をかけてきた。
「起きた?」
「ん。……あ、何時?」
 なんだかすごく眠った気がして、少し焦った。
「まだ六時前。朝食は八時からって云っていたから、あと一時間くらいは大丈夫だよ」
 崇之は昔から一日に四時間くらいしか眠らない。いざとなれば睡眠時間が二、三時間という日が数日続いても、まったく日常生活に支障をきたす事はなかった。体にとってはもしかしたらよくない事なのかもしれないけれど、受験の時や資格試験の勉強をしていた時は、かなり役立ったお得な体質だ。
 崇之は私が俗にいう枕が変わると寝つきが悪くなるタイプだと知っていたので、夕べ、途中で一度様子を見に来た。もし寝つけていなかったら、少しアルコールを入れてみたらいいかもと思ったので。
 けれど予想に反してよく寝ていたから、深夜一時くらいまで父親と二人でお酒を飲んだ。崇之たちの子供の頃の失敗談とか、元気な時の母親の思い出とか、そんな他愛もない事柄をゆっくり語り合った。
「俺はやっぱり、どうしても君のお父さんに会っておきたい」
 横になったまま、唐突に崇之が云った。今日まで先延ばしにしてきた問題。布団の中で薄暗い天井を見つめながら、私はまだ結論を出しかねていた。崇之の気持ちはよく分かっていた。こういう両親に育てられたのなら、親を蔑ろにするような事は絶対にしたくないだろう。
 でも。
「だったら俺だけで会いに行く。それでいい?」
 この事だけは頑なに自分の意思を曲げない崇之は、できうる最大の譲歩案を出した。
「……駄目」
 それでも私は自分のいないところで、父と崇之が自分について話すのが嫌だった。
「じゃあ、どうするの」
 少しきつく崇之に云われて悲しくなった。自分が我儘を云って崇之を怒らせているのかと思うと、何も云えなくなった。その雰囲気を感じ取って、崇之は今度は優しく諭すように云った。
「俺は千晶さんが好きだから。例え君のお父さんがどんな人であったとしても、千晶さんをこの世に存在させてくれた大切な人である事に変わりはない。それはわかるよね?」
 頷くしかなかった。きっと崇之はどうあっても、私の父親に会う事を絶対に諦めはしないだろう。この結婚休暇中に向こうの都合がつくかどうかわからなかったけれど、とにかく今日これから帰って連絡をとってみる事になった。


 長野から戻ると休む間もなくまた引っ越しの片付けを再開し、あっという間に夜になった。それも、ぐずぐずと後回しにし続けたので、もう結構遅い時間になってしまっていた。
 テーブルを挟んで崇之と向かい合わせに座り、携帯電話を前に緊張していた。最後に父と会話したのは何年前になるんだろう。父方の親戚とは私も父もそれぞれに交流があるので、お互いに携帯番号は間接的に知らされていた。でも実際に掛けるのは初めてだった。
 崇之は急かすような事はしなかったけど目の前でじっと待っているので、意を決して電話を掛けた。コール五回目で父が出た。
「千晶?」
 それは昔と全然変わらない、自分の名を呼ぶ優しい父の声だった。『千晶』という名前は父がつけてくれたものだ。「キラキラがいっぱい、っていう意味だよ」と教えてくれた。
「千晶。元気か」
 落ち着いた声でそう訊いた。
「……うん。元気」
 やっとそれだけ答えたけれど、その後、何をどういう風にどこから話していいのかわからなくて、言葉がどうしても出てこなかった。
「千晶さん、貸して」
 そのまま固まってしまった私の手から携帯電話を取って、崇之が替わってくれた。彼らが話している間に私は席を立ってベランダに出た。夜風がひんやりして頬に気持ちがいい。
 久しぶりに聞いた父の声は、昨日も一昨日も聞いていたようにまったく時間の隔たりを感じさせなかった。開口一番、元気かと訊いた。父は大きくなった今でも、いつも私の体の事を心配していた。
 電話を終えてベランダに出てきた崇之を背中で感じながら、そのまま夜の街を見渡していた。
「明日、三人で食事をする事になった」
 そう崇之が云った。
「現地集合で、俺達はここを十時に出る。いいね?」
「ん。わかった」
 明日、父に会って崇之を紹介して一緒にご飯を食べる。考えていたよりもずっとなんでもない事なのかもしれないと思った。
 その後の事はわからない。でもとにかく、ずっと放置されたままの宿題のように、重く心に引っかかっていた懸案の一つは明日で終わるんだと思うと、それだけで気持ちが少し軽くなるような気がした。


 私はその場所を、よく知っていた。
 父が指定した三人の会食場所は海辺のホテルだった。ホテルと云っても、老舗の旅館が二十年くらい前に少し洋風にリニューアルしたもので、部屋は畳にベッドといった和洋室がメインになっていた。ホテルから回廊でつながった離れに、割烹や中華やイタリアンといった飲食店ばかりが入った別棟がある。そこの二階の個室は、食事をしながらの会合や家族会などに利用できるようになっていた。
 小さい時、私は父に連れられて何度かこの海にドライブに来た事があった。日に焼けるからと母はあまり海に来たがらなかったので、母が用事でいない二人だけの休日をここで過ごした。波打ち際で打ち寄せる海水と闘いながら絵を描いたり、綺麗な貝殻を両手にいっぱい集めたり、父と手をつないで砂浜を裸足でざくざくと歩いたりした。
 父は私の為に良かれと思って、この場所を選んだのだ。しかし、父にはその幸せなだけの思い出の地だったけれど、私には鮮明に脳裏に焼き付けられた、父の知らない別の暗い記憶もあった。
 防波堤の向こうに海が見える駐車場に崇之は車を停めた。左側にホテルが建っていて、海と反対側にエントランスがある。
 この緩やかに弧を描く海岸線を見た時から、いやそのホテルの名前を聞いた時から、そこは駄目だと思った。でも、もう今更、崇之や父にそこは嫌だとは云えなかった。父に会って崇之を紹介して、一緒にご飯を食べる。それだけの間だけ辛抱すればと思ったけれど、ここまで来てみると車の窓を閉めていても強く香る潮の匂いに、胸の奥がザワザワして息苦しくなってくる。
 車がホテルに近づくにつれてどんどん無口になり、車のエンジンを切っても自分の両手をきつく握ったまま俯く私を見て、崇之は困惑した。
 崇之は自分がちゃんと私の父親に挨拶したかったのは勿論だけど、実の親子がこんなに長い間決裂しているのはとても哀しい事だと思った。だから、この機会に少しでも二人の関係が修復してくれたら、とも考えていたのだ。昨夜の私の様子を見ても、どうにか大丈夫だと高をくくっていた。
 でも今、一所懸命辛さに耐えている私を見て、崇之は可哀想になった。父親の不貞は、男の自分には考えの及ばない、もっと繊細で奥の深い事件なのかもしれないと、会うのをあんなに強要した事を今更ながら反省した。
「わかった。もういいから。千晶さんはここにいて。俺が行って挨拶だけしてくる。待てる?」
 一緒に行った方がいいに決まっているけど、どうにもそれは難しく私は頷いた。崇之はもう一度車のエンジンをかけて、空調を整えてから一人でホテルに入っていった。
 崇之が行って少しの間、そのまま瞳を閉じて、ただ遠く規則正しく響いてくる波の音を聞いていた。それからゆっくり顔を上げて、窓の外を眺める。防波堤ぎりぎりに海の青と波しぶきの白が見えた。そんな事がある筈もないのに、ふと、その砂浜にあの日の幼い自分と若い母がまだじっと佇んでいるような気がした。
 思い出したくなかった記憶。
 でもこんなに近くに来てしまったら、行って確かめなければいけない。過去の自分に呼ばれているような気がして、車から出ると砂浜へのコンクリートの階段を降りた。


 私は、予定よりも二か月近くも早く生まれてきた。
 超未熟児で体がまだすべて完全には機能しておらず、覚悟はしておいてくださいと医師にも宣告されていた。実際、呼吸や心臓が止まって、夜中に両親が病院に呼び出された事も何度かあった。
 それでも私は懸命の治療で奇跡的に命を繋ぎ止め、二か月後には退院できた。それからは大事に至る事もなく、無事にすくすくと育った。
 父はそんな娘が可愛くて仕方なかった。何度もその死を覚悟した娘が元気でいてくれるだけでありがたいと思えたし、小さい頃の私はとても素直で明るい子だった。多少いたずらをしても父にはそれさえ愛しくて、全く叱る事ができなかった。どちらかと云うと躾に厳しかった母からは、それでは千晶の為にならないと文句を云われたけれど、それでも娘の云う事する事なんでも無条件に肯定してしまった。
 本当に仲のいい親子だった。 

「……そうですか」
 部屋で対面した崇之から、早々に私がここには来ない事を詫びられたけれど、父はそう云ってすぐに納得した。
「千晶が何に苦しんでいるか、よくわかっています。あの子は親思いのとても優しい子だから」
 食事はキャンセルしたけれど、父は崇之にどうしても話しておきたかった。
 本当は私は父を全く恨んでなどいなかった。大好きな父だから、そんなにも心から愛する人ができたのなら父の思い通りにしたらいいとずっと始めの段階で許容していた。でも、母が父を許さずに逝ってしまった事で、私はその宙に浮いた憎しみをそのまま継承しなければならないような錯覚に落ちいっていた。
 母の葬儀の日、私は雨の中に肩を落として佇む父の元に駆け寄って行きたかった。抱きついて、一緒に母の死を悼んで泣きたかった。けれどそれを許さなかったのは息を引き取ってもなお、私の心を支配しようとする母だった。自分が父を許してしまったら、父に笑いかけてしまったら、一人で寂しく死んでいった母を見捨てるようで哀れで堪らなかった。
 けれどそれと同時に、大好きな父を自分の頑なな拒絶で哀しませている事実がとても辛かった。
 そんな複雑な、自分自身でさえ掌握しきれない私の心を父はよく理解していた。
「私は千晶をとても大切に思っています。こんな私の云う事は信じてもらえないかもしれませんが、私は千晶の為なら何でも、金銭でも目でも手足でも命でも捨てる事は厭いません。私がそんな風に自分自身以上に大事だと思える人間は、この世で千晶だけです。だけど、それなのに、いつも傍にいたいと思ってしまうのは違う人なのです」
 崇之はただ黙って、父のその言葉を聞いた。
「崇之君。千晶を愛してくださって本当にありがとうございます。どうか千晶の事をよろしくお願いします」
 崇之の方が私をこの世に生み出してくれた父親にお礼を云いに来たのに、逆に深々と頭を下げられて恐縮する。
「大丈夫です。何があっても一生、千晶さんの傍にいて大切にします。どうぞ任せてください」
 崇之は父に安心して欲しくて、笑顔で、けれどきっぱりとそう云った。
 父は本当に嬉しくて、何度も頷いた。

 母が十歳の私を連れて家を出た日から、生活はどんどん荒んでいった。
 母はほとんど何もしなくなって、ただ一日中ぼんやりとしていた。それまで私は家事なんて食事の支度も掃除も洗濯も一切した事がなかったので、何をどうしていいのかわからずに最初はただおろおろとしていた。
 学校の事も、毎日母が付いてあれこれ世話を焼いてくれていたのに、急に一人で何もかも準備しなければならず、幼い私にはもう一日一日を過ごす事だけで精一杯だった。見様見真似で家事をやってはみたけれど全然うまくはいかず、母を一人にしておくと時々自分を探して寂しい声で呼ぶので、そのうち学校にもなかなか行けなくなった。
 そんな時、私はとうとう疲れと栄養不足からか、ひどい熱を出して倒れてしまった。丈夫になったとは云っても、月足らずで生まれた私はその頃はまだ同年代の子供よりも体が小さく、体力もなかった。
 布団に包まって苦しそうな息をする私を見て、母はパニックに陥った。生まれてから入院していた二か月の間、ずっと味わってきた、今この時にも愛しい娘が死んでしまうかもしれないというじわじわと追いつめられるような恐怖感を思い出していた。娘を一人で死なせたくないという母の愛と、自分が一人になりたくないというエゴが、陰鬱な母の精神をさらに混沌とさせた。
 母はぐったりして足元も覚束ない私を車に乗せ、海へと走った。それは若かりし頃、将来の夫となる人とお見合いをして、結納を交わした老舗ホテルが傍に建つ海だった。十二歳も年上だった父は優しくて頼もしく、母は向かい合ってお茶を飲みながら、この生涯の伴侶との幸せな生活を頬を染めて夢見ていた。
 私は母に半ば引きずられるように腕を引かれながら砂浜を歩いた。どんより低く曇った空は重く冷たく、辺りには誰もいなかった。靴の中に容赦なくザリザリと砂が入り込み、熱に浮かされた足取りをますます重くもつれさせた。
 母の眼は自分を見る事はなく、荒れて高くぶつかり合う波間に注がれていた。母に強く握られた腕の痛みが、今にも途切れそうな混沌とした意識を辛うじてここに繋いでいた。
 不意に母は思い立ったように、海の方へと進み始めた。強く引っ張られながら、ぼんやりとこのまま死ぬのかなと、思った。子供の私にとって死は、その瞬間まで遠い別の世界の事象に過ぎなかった。
 けれど手を引かれ、とうとう両足が波に浸かると、その冷たさにびっくりして急激に現実に引き戻された。暗い海と母の狂気が恐ろしく、やっと一所懸命に抗う事を思い出した。掴まれていた腕を払いのけ、逆に母の手を持って必死で引っ張った。
「いや! お母さん! やだ、行かない」
 母は最初、ずっと従順だった娘が急に抗い始めた事が理解できないように、呆然と私を見た。
「お母さん。おうちに帰ろう? 一緒に帰ろう」
 母を気遣って、できるだけ優しく云った。母はそんな娘の懇願に涙を流し、両手で顔を覆った。
「でも、おうちに帰ってもお父さんはいないのよ。もうきっと、帰ってこない……」
「千晶がいるよ。ずっとお母さんの傍にいるから。大丈夫。私がお母さんを守るから」
 母の体にしがみつきながら、必死の思いで云った。そしてそう母に宣言する事で、自分自身にも云い聞かせていた。
 強くなろう。
 もう誰にも頼らない。自分が頑張って母を助けなければ、と。
 熱のせいだけでなく怖さと心細さで震えていたけれど、母の自分をきつく抱きしめる手に、強く誓った。


 遠い日に、小さな胸に決意したのと同じ砂浜で、私は同じ海を見ていた。ただ今日の空は青く澄んでいて、波もずっと静かで穏やかだった。
 人の気配に振り向くと崇之が立っていた。車にいなかった私を探してここまで来てくれた。優しく見つめる、いつもと変わらない穏やかなその表情に、自分でも驚くほど安心していた。
 そして今、私が心から欲しいと思う言葉を彼は間違える事なくちゃんと聞かせてくれる。
「大丈夫だよ。何も心配しなくていい。全部、ちゃんとわかっているから。俺もお義父さんも」
 涙がこぼれた。
 人に弱さを見せたら本当にそこからもっと弱くなってしまいそうで、人前で絶対に泣きたくないと思ってきたのに、どんどん涙が溢れて止まらなかった。崇之がハンカチを貸してくれたので俯いて拭いていたら、そのままそっと抱きしめられた。
「帰ろう」
 そう云ってくれた。
 私は崇之の胸に頷いた。
 

 思いっきり泣いたら、なんだかすごくすっきりしていた。父との関係がすっかり改善した訳ではないのだけど、崇之が会ってくれてよかったと思った。
 買い物をしてからマンションに帰り、一緒に夕食を作って食べた。二人とも自炊生活は長かったので、これからも家事で困る事はないだろう。
 交代でお風呂に入ってから二人でソファに座ってテレビを見ていたら、崇之が肩に手を回してきた。ずっと忙しかったから結婚生活六日目にして、やっと新婚っぽい雰囲気だなあと思う。
 今日、初めて崇之に泣き顔を見せてしまって、少し自分の立場が弱くなった気がした。一人でいる時はちゃんと自分だけで何でもできるって思えた。けれど崇之の広い胸にすっぽりと包み込まれるように抱きしめられると、自分がすごく小さくて弱い存在のような気持ちになる。
 いつまでも、ただそうやって守られていたいって思ってしまう。そういう意気地なしの自分が嫌で、崇之に引き寄せられると少しだけ哀しくなった。
「会社ではしかたないけど、家では千晶って呼んでいい?」
 と、訊かれた。
「うん。えっと、じゃあ」
「加瀬君って、千晶もすでに『加瀬』だからね」
 初めて名前を呼び捨てにされて、なんだか急にドキドキした。そう云えばろくに、というよりも完全に恋人関係を飛ばしていきなり結婚したので順番が滅茶苦茶だ。
「崇之」
 そう呼んでみると、崇之は返事をする代わりに頭をもっと抱き寄せて髪にキスをした。そのままゆっくりとソファに押し倒されて、首筋に口づけられる。崇之の手が体に触れた時に、一瞬躊躇してしまったのを彼は見逃さなかった。
「……嫌?」
「ううん。全然嫌じゃない」
 もちろん嫌じゃないけど、やっぱりするのか、と少し戸惑ってしまった。善し悪しは別にして男と女はセックスをすると、多少なりとも二人の距離感が変化してしまう。今の崇之との関係がとても心地よかったから、変わってしまいたくないと思ったのだ。
 でも結局の処、その後も崇之の態度は何も変わる事はなく、強いて云えば隙あらばいつでも、ぎゅっと抱きしめられるようになった。
 洗濯機を回す間とか、洗い物をしている間とかにぼんやりしていたら、通りすがりに行き成り後ろからがばっと抱きつかれてびっくりする。どうも元々そういうちょっとしたスキンシップが好きらしいけど、実際出会ってから二年半の間、戦略上、一切何も手出しできなかったので、その反動がここにきて出ているのかもしれない。
 休暇明けからも仕事は相変わらず忙しかったけれど、二人はうまくやっていた。
 一か月後に私が事故に遭い、これらのすべての記憶を失うまでは。


 発端は、崇之の担当顧問先の会社の税務調査で起きた事件だった。
 そこは設立三十年目の中堅建設業社で、主に土木工事関係の仕事を請け負っていた。現社長は二年前に先代である父親から社長職を引き継いだばかりで、今回初めての税務調査を受ける事になった。
 社長は学生の時にラグビーをしていたといういかにもごつい体つきで、血の気が多く、専務時代には社長である父親と意見の相違でよく喧嘩をしていた。一昨年の事業継承も、経営方針の違いからあまりにも諍いが多くなり、もうこれ以上は一緒に仕事ができないというので、仕方なく先代が早めに息子に事業を譲って引退したのだ。
 その日、崇之が朝からその会社の税務調査の立ち会いに行っているのは知っていた。管轄の税務署からのごくありふれた任意調査だったのだけれど、お昼前に佐藤チーフがいきなり監査課に飛び込んできて私を呼んだ。
「すぐ出るから、上着取ってきて」
 チーフのただならない様子に、私は机に広げていた資料を慌てて片付けて、ジャケットを持って廊下に出た。
「落ち着いて聞いて。これから病院に行く。どうやら顧問先で加瀬君が怪我をしたらしい」
 足早にエレベーターに向かいながら聞いたその言葉に、心臓が止まるかというくらい驚いた。
「大丈夫。命には別条ないって。それは確からしい。税務調査中に社長が怒って刃物を振り回して、それが当たったみたいなんだ」
「刃物って、……何処を怪我したんですか」
「いや、詳しい事はわからない。とにかく落ち着いて」
 チーフも突然の部下の怪我に到底冷静でいられず、「落ち着いて」を繰り返した。
 命には別条ないと云われたけれど切り傷と聞いて、最悪の事態が頭の中をぐるぐると駆け巡った。崇之が今、もしも自分の前からいなくなってしまったらと考えて、恐ろしくなって頭を左右に振った。
 会社の前に呼んであったタクシーに乗って、私達は崇之が運ばれたという病院へと向かった。
 

 処置室と書かれた部屋の中には、右の手首にシップを貼られた崇之がベッドの端に腰掛けていた。そしてその隣のベッドには、左肘にぐるぐると包帯を巻かれた田上君が崇之と目線を合わさずに座っていた。その捲り上げたシャツには所々、血が黒く染み付いている。
 情報が錯綜して、間違って伝わっていた。
 実際に刺されたのは崇之ではなく、田上君だった。
 事件の起きた会社の現担当は崇之だけど、一年前までは田上君が担当していた。今回の税務調査は過去三年分の資料を見るというので、前任の田上君も同席していたのだ。田上君の怪我は確かに命に係わるようなものではなく、左肘に三センチほどの浅い切り傷ができただけだった。包帯は大げさだったが、傷を縫わなかったので固定する為に巻かれていた。崇之のシップは、田上君に突き飛ばされた時に傍の机で打ったものだった。
 税務調査では反面調査により、新社長の外注費水増しや重機購入時の単価の改ざんによる早期経費算入の不正が見つかった。社長は税務署からの指摘よりも父親からひどくなじられた事に激高し、近くにあった果物ナイフを振り回して暴れて、つい田上君を刺してしまった、と云うのが真相だった。
 田上君はここに運ばれる途中も処置を受けている間も、とにかくずっと我慢していた。治療してくれた看護師がカルテを手に出ていって、やっと崇之と二人だけになった途端、ずっと抱え込んでいた強い感情が爆発した。
「……お前、ふざけんなよっ」
 開口一番、荒ぶる気持ちを抑えきれずにそう田上君は怒鳴った。時間が経っても、崇之に対する怒りはまったく収まらなかった。
 事が起こった時、本来は崇之が社長の一番近くにいた。彼が怒りに任せてナイフを手にした時、崇之はまったく逃げようともせずただ無防備に突っ立っていた。田上君にはそれが自殺行為に見えた。
 崇之が刺されると思った瞬間に、咄嗟に田上君は崇之を突き飛ばして庇った。実際には、もちろん崇之は新婚の妻を残して死んでもいいなんて思っていた訳ではなく、事態を冷静に判断した結果の作戦だった。
 社長の体格からして我を忘れた彼を力で押さえ込むのは到底無理だし、騒いで逃げ惑えば余計に興奮させてしまう。凶器は小さな果物ナイフだから、もし刺されても大した事はないだろう。むしろ自分が多少負傷でもすれば我に返るのではないか、という計算があった。
 現実に刺された人間は違ったけれど、後は思惑通り、ちゃちなナイフではスーツとシャツの生地を貫通するのが精いっぱいで腕は縫うまでもない軽傷で済み、社長は人を刺した手の感触で我に返り事態は急速に収まったのだ。
 だけど田上君には、自分が怪我でもすれば、という考え方をする崇之の自己犠牲精神が許せなかった。刺さり処が悪ければ、絶対に軽傷で済むという保証はないのだ。
「……なんでお前はいつもそうなんだよ」
 一度怒鳴った事で田上君は少し落ち着いて、声のターンを落とした。崇之はただ黙ったまま、何も云わなかった。
 この事態を廊下から見ていた私は、そこで気がついた。いつもと違う田上君らしくないセリフや行動や辛い声音に、その時、記憶を無くす前の私も知ってしまった。
 チーフと私は病院の一階でまず刑事に会って、刺されたのは崇之ではなく彼を庇った田上君だと聞いた。それも極軽傷だと。
 結婚してから一か月、相変わらず田上君からは無視されていたので気にはなっていたけれど、もうエレベーターで一緒になる事もなくそのままになっていた。教えられた処置室の前まで来た時、中から田上君の大きな声がしてつい立ち聞きをしてしまった。
 そしてわかったのだ。
 何故、田上君は崇之の代わりに刺されたのか。
 何故、田上君が執拗に自分に冷たく当たるのか。
 でも気付いたからといって、なら自分が田上君に対してどうすればいいのか余計わからなくなった。
「千晶?」
 半開きのドアの前に立ったままの私に、崇之が気付いて声をかけた。中に入るのを躊躇していたら、立ちあがって崇之がここまで歩いてきた。シャツの袖を元に戻していたので、外見上はどこもなんともないように見えた。聞いてはいたけれど、実際に崇之の無事な姿を見てとても安心した。
「びっくりさせたね。ごめん」
 それでも私はひどく動揺したせいでまだ少し震えていたかもしれない。崇之が謝ってくれたので頷いた。
「田上君は……」
 田上君を見ると、彼も顔を上げてこちらを見た。崇之も肩越しに田上君の方を振り向いた。三人の視線が交錯する。
 その時、廊下から刑事と佐藤チーフがやってきて場の均衡が崩れた。これからここで簡単に調書を取ったら、今日は帰っていいという事だった。
「奥さんが来られているから、加瀬さんを先にしましょうか」
 刑事と崇之が処置室に入り、私と田上君と佐藤チーフが廊下に残った。チーフはシャツに付いた血の跡を見て田上君の怪我をしきりに心配していたけれど、痕さえ殆ど残らない程度だと説明されてやっと安心したようだった。
 チーフは携帯電話を取り出しながら、座っていた長椅子から立ち上がった。
「会社にちょっと連絡してくる。千晶君は終わったら、今日はもうそのまま加瀬君と帰っていいからね」
 院内は携帯電話禁止だから、おそらく一度降りて病院の中庭まで行かなくてはならないだろう。チーフが行ってしまって、計らずも田上君と二人だけになった。
「佐藤さん」
 社内の誰もが「千晶さん」と呼ぶ中で、田上君だけはずっと頑なに私の事をこう呼んでいた。
「話、したいんだけど」
 隣に座る私を見ずに、前を向いたまま淡々と云った。
「過去の事とか、……加瀬の事とか」
「うん」
 やっぱり田上君とは一度ちゃんと話さなきゃいけないと思った。
「外は落ち着かないから、俺ん家で。来る?」
「わかった」
 真剣な面持ちで頷く私の事を、真面目で律儀な処は学生時代と同じだ、と田上君は今更ながらそう再認識していた。


 そして翌日。
 仕事を早めに切り上げて、私は田上君のマンションに行った。
 風が強かった。工事の為にマンションの外壁に掛けられたいくつものグレーの養生シートが、バタバタと大きな音を辺りに響かせていた。
 指定されたマンションの敷地内の駐車場に車を停め、エントランスへと歩きながら腕時計を見たら約束より三十分も早く着いてしまっていた。田上君もいつもより早く退社していたけれど、もうすでに在宅しているかは分からない。
 私は立ち止まって携帯電話を取り出す。コール三回目で田上君が出た。
 それから後はもう、すべての事が数秒の間に一度に起こった。突然遠く頭上から、鉄骨同士のぶつかり合う鈍い不協和音が響いた。思わず見上げるといくつもの長い鉄柱が、己の重量を持て余しながらばらばらと降ってくるのが見えた。
「千晶!」
 名前を呼ばれ、視線を移すと崇之が必死でこちらに駆け寄る姿がスローモーションのように瞳に映った。
 思考が止まる。暗転する。
 すべてはここで途切れた。
 そうして私はこれまでの人生の記憶の全部を失ったのだった。
                                        続く
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