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母娘の氷解

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 その女はうつむいたまま唇を真一文字に結び眉間に皺を寄せ涙を浮かべて立っていた。
 璃子は泣きそうなその女の泣いた顔を知っている。
 水の中から引き上げられた時に一瞬見えたあの泣き顔だ。
 璃子は隣に座る玲子にしがみついて視界からその女を消した。玲子もそれに応えるように璃子を抱き締める。

「凪子姉さん、私、この子をすんなり渡さないわよ。あの時は私も若かったから育てさせてもらえなくても仕方ないと諦めた。姉さんがカタギの家に養女に出したいって言うから。でも結果はどうよ」
 凪子の目から涙がこぼれ落ちると同時に、凪子が膝をついた。
「今度こそこの子を手放したりしない。お願い、玲ちゃん、この子を返してください。お願いします」
 凪子は頭を床にこすりつけ時々か細い声を発して泣いている。

 いや…と璃子の口から小さな声が漏れた。
 凪子の声がピタリと止まりしばらく静寂に包まれる。
「水の中に入れられた…昨日のお風呂の残りの水の中…怖かった…」
 沈黙を破って璃子が絞り出すように口に出す。
 玲子の胸にしがみついて目を閉じていると今まで胸の奥底に沈められていた記憶がテレビを見ているようによみがえった。

「階段から落ちた…口の中が砂だらけになって地面に倒れてて、でもママは車で行っちゃうの…」
 璃子の瞳から涙が溢れる。が、声を出して泣きたいのに声が出ない。
 凪子は消え入りそうな高い声でごめんなさいと言って言葉にならない声を出して泣いている。

 玲子がしがみつく璃子を引きはがして両肩をつかんだ。
「璃子ちゃん、それだけ? もっと思い出すことはない?」
 ぎゅっと閉じた目をゆっくり開けると目の前に玲子の真剣な眼差しがあった。
「よく思い出して。お風呂の水の中に入れられる前のこと…どうして入れられたの?」
 玲子の瞳に涙が浮かび苦しそうに口で息をしている。

 昨日のお風呂の中に入れられる前…

「璃子ちゃんの好きな飲み物はココア。ママはいつも璃子ちゃんにココアを入れてくれたでしょ。璃子ちゃんもママのココアが大好き」

 ココア…

「カップにココアの粉をたっぷり入れてポットからお湯を注ぐと簡単に作れるの。知ってるでしょ?」

 ポット…

 玲子から語られる言葉が璃子の心の奥を揺さぶりかすかな映像をあぶり出す。

 そのポットは頭の上にあった。
 お湯を注ごうと椅子によじ登って…ポットの頭に手を付いた…
 璃子は目をぎゅっと閉じて熱い熱いと呟いた。

「そう、熱かったね。でもなんでそんなことしたの? ココアはママに入れてもらえばよかったのに」
「ママに…ココアを入れてあげたかったの。お仕事して眠ってたから…ママに…」
 玲子は璃子を抱き締めた。
「そうよ。璃子ちゃんは良い子ね」
 玲子は優しく璃子の頭を撫で、背中をさすった。

「ママはね璃子ちゃんを寝かせた後にお仕事に行ってたの。途中で起きた璃子ちゃんがママを追いかけてアパートの階段から落ちちゃった。璃子ちゃんは一人でお留守番するには小さすぎたの。だけどママは一人で育てるんだって頑張って…だからママが悪い。誰も頼らなかったママが一番悪い。周りから璃子ちゃんを虐待してるって思われたのもママのせいだから。ママが一番悪いの」

 璃子は玲子の胸の中で首を横に振っていた。
 顔を上げ玲子を見つめる澄んだ瞳から涙が溢れている。
「ママは悪くない…」
 玲子がゆっくり璃子を抱き締める手を緩めた。璃子が凪子を見ると両手で顔を覆い声を殺して泣いている。
 璃子は静かに凪子に歩み寄った。

「ママ…」
 璃子の声に凪子の肩がビクンと跳ねた。
「泣くときは大きな声を出さないと辛いよ」
 凪子が顔を上げると、そこに璃子の頭に刻み込まれた泣き顔があった。
「ママァ!」
 璃子は一瞬のうちに頭が真っ白になって思いっきり抱きついていた。
 感情の赴くままに力加減など気にすることもなく抱きつける。それは長い間忘れていた懐かしい感覚だった。
 璃子はただただ凪子の身体にしがみ付いて泣いた。
 呼応するかのように凪子の腕が痛いほど強く璃子の体を抱き締める。

「ママ、もうどこにもやらないで。私、良い子になるから…」
「悪いのはママ。璃子は良い子。ごめんなさい」
 二人は声を出して泣いていた。

「やっぱり負けちゃった」
 玲子がぽつんと呟くと、事の成り行きを黙して眺めていた大蔵が玲子を傍らに抱き寄せた。
「勝ち負けなんてあるもんか。子供が成長するまで…した後もみんなで手を掛け合うもんだ。そうやって人は人と繋がっていくもんだろう?」
 大蔵が満足そうに笑う。
「ほら、二人ともいつまでも泣いてないで。ココア入れるからみんなで飲みましょう」
 玲子が明るい声を響かせた。


終わり

最後まで読んでいただきありがとうございました。
心から感謝いたします。
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