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53.番外編・咲苗3

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 翌日はバイトが休みで僕は一日作曲に集中できた。同じ部屋では咲苗が僕と同じく暇を持て余してTVを観ながら大あくびをしていた。

「ねえお兄ちゃん」

 なんだかつまらなさそうな声で咲苗が言う。

「ん?」

「作曲ばっかしてるけどピアノは?」

 僕は咲苗の方を向いて右手の甲を差し出した。そこには白くて細い筋が刻まれていた。

「え? どうしたのそれ」

「離婚した前夫に襲われた妙子さんを庇った時にできた傷だ。これで僕はピアノが弾けなくなった」

「うそ……」

 目を丸くし驚きを隠せないといった表情の咲苗。

「そんなくそ面白くもない嘘をついてどうする。ほんとだ」

「それで今は作曲を」

「そうだ」

「ほんとに、ほんとに要領が悪いんだからっ」

 なぜか不貞腐れたような表情になる咲苗。

「昔からそうだったよね……」

「そうか?」

「そうだよっ」

 僕は咲苗を放置して作曲に専念した。咲苗はこちらに気を使ってかTVのボリュームを落とした。

どれくらい経ったろうか。作曲も一区切りついたので咲苗に声をかける。

「咲苗、暇だろ。どこか行こう」

「え? どこに」

「まずは昼めし。その後はノープランだ」

「行き当たりばったりかよ……」

「じゃ、ここで昼抜きでずっとTV観てろ。僕は行くぞ」

「待って、待ってよっ。あたしも行くっ」

 昼は地元のハンバーガーショップに入る。美味いし安いし品ぞろえも豊富なので人気だ。咲苗も一番人気商品の中華チキンバーガーを頬張りご機嫌になった。東京のチェーンより美味いと嬉しそうだ。でも僕はあえてベーコンエッグバーガー。
 腹がふくれ店を出たところで、妙子さんから遊園地があると聞いたことがあるのを思い出した。早速行ってみるが、冬季は閉園していた。
 怒った咲苗に散々罵られた僕は、今度は海洋センターを目指す。本来は研究施設だが、ちょっとした水族館ともいえる施設で、そこの魚を眺めて咲苗も少しは満足がいったようだった。最上階にある函館の海を一望できる展望ロビーに出る。珍しく太陽がさんさんと輝いて僕たちを照らしていた。

「わあ……」

 感嘆の声をあげ海を眺める咲苗。

「……」

 が、なぜか黙り込んでしまう。僕の方に顔を向けずに海を向いたまま僕に話しかける。

「……お兄ちゃん、いつ帰ってくるの」

 その咲苗のいつになく真剣な声に僕ははっとする。僕も真剣に答えた。

「判らない。僕自身が納得できるものを掴むまでだ」

 これまではただ音楽から逃げるだけだった。だけど今は違う。

「は? それってほんとにできるの。掴めるの?」

「ああ掴める。掴んでみせる」

「そか」

 咲苗は鼻をすすると笑顔で急に僕に抱きついてきた。

「あっおいやめろっ。人に見られたらどうするんだっ」

「平日の日中なんて誰も来やしないよっ」

 咲苗の肩に手をかけて引き剥がそうとすると咲苗が呟く。

「なんか変わった、お兄ちゃん」

「そうか?」

「うん」

 咲苗は僕を見上げてほほ笑んだ。

「ちょっとカッコよくなった」

「何言ってんだ。僕はいつだってカッコいいぞ」

 冗談めかして言うと、咲苗は僕から身体を離してあからさまな軽蔑の眼差しをこちらに送ってくる。

「そういうとこなんだよなあ」

「なんだって」

「なんでモテるのか不思議だよ」

「モテる?」

「そっ、お兄ちゃんモテモテじゃん」

「まさか」

「はああ」

 咲苗は大きな溜息を吐く。

「二人ともかわいそ」

「なんだって? 二人? どういうことだ?」

「わかんなかったならいいの。ほんと馬鹿兄貴。はあああ」

 咲苗はまたわざとらしい溜息を吐く。

 その後は寝具店に行き僕の虎の子のタンス預金で布団を買う。布団を敷いて確かめた後また冨久屋に行ったが、今日は飲み食いはそこそこにする。そのあと僕の部屋で妙子さんが具沢山の野菜スープを作ってくれた。三人で和やかに夜食を食べる。

「あたしも料理できたらいいなあ」

「じゃあ今度一緒に作る? 教えてあげる」

「えっほんとっ、いいんですか?」

 咲苗はすっかり妙子さんになついてしまったようだ。そういえばここに来てからの咲苗はすっかりトゲが無くなったと言うか丸くなったような感じがする。僕にも素直によく話しかけてくる。僕はこの咲苗の変化が嬉しかった。
 二人で妙子さんを部屋まで送った僕たちは帰宅した。新しい布団に咲苗を寝かせ、僕は自分の貧相な布団を取り戻した。

「ねえ」

 電気を消してから咲苗が楽し気な声を出す。

同衾どうきんならしないからな。何のために高い金払って布団を買ってやったと思ってるんだ」

「ちぇっ」

「ちぇっ、じゃないだろう全く」

「じゃ、また手」

「はいはい」

 僕は苛立ちながら手を差し出した。それをしっかり握る咲苗の手が温かい。

「お兄ちゃんこれからが大変だよ」

 咲苗は僕の手を握りながら言った。僕は咲苗の言っている意味が分からない。

「おい、そりゃどういう意味だ」

「…………」

 返答は返ってこない。また寝てしまったのかと思い咲苗の方を見ると、咲苗は僕をじっと見つめていた。

「二人を泣かせちゃだめだかんね」

 二人とは妙子さんと藍のことだろう。しかし、僕が二人を泣かすとはどういうことだろうか。

「泣かす?」

「あとは自分で考えなね」

 そう言うと咲苗は眼を閉じ、またあっという間に寝てしまった。なんだか僕は一人取り残された気分になってしまった。

 翌日の夕方、僕がバイトから帰ってくると、チラシの裏に書いた一枚の書置きを残し、咲苗はいなくなっていた。

≪バイバイ! うちに帰るね 会えてよかった 楽しかったよ 色々頑張って でも早く帰ってくるんだぞ!≫

同時に僕の虎の子のタンス預金もなくなっていた。僕は膝を突いてうなだれた。




月日は流れて――

僕たちの控室にドレスを着た咲苗が飛び込んでくる。

「藍ちゃんっ」

「どしたの?」

 ひどく緊張した面持ちの咲苗に対し余裕しゃくしゃくでせんべいをかじっている藍。ドレスにせんべいのかけらがこぼれるのも気にしない。

「ここのっ、ここのところがあたし不安でっ……」

 フルートと楽譜を持って青ざめている咲苗に、

「あー、じゃちょこっとやってみる?」

 と藍がバイオリンを持つ。タキシードを着た僕も黙って隅のアップライトピアノに指を置く。今日は武蔵川音大ホールで催される藍のリサイタルで、バッハの主よ人の望みの悦びよ、とシュテックメスト、メンデルスゾーンの「華麗なる幻想曲集」より 歌の翼による幻想曲Op.17-1、そして僕が作曲した曲「翡翠ひすいの風」をピアノ・バイオリン・フルートのアンサンブルで演奏する趣向があった。パートはピアノが僕、バイオリンが藍、フルートが咲苗だ。まだ音大生の咲苗はこの初の大舞台に泣き出さんばかりに緊張していた。咲苗が気になっているところを三人で演奏し確認する。それで咲苗もやっと少しは落ち着いたようだが、まだ少し不安そうだ。

「どう? まあざっとこんなもんよ。掴めた?」

「大丈夫、東京から僕のアパートまでたどり着いた大冒険に比べれば簡単なもんだ」

「そんなことないよお」

 僕と藍が笑っていると扉が開き案内係が顔を覗かせる。

「あ、みなさんこちらに集まっていらしたんですね。そろそろ始まりますのでご準備の方お願いいたします」

 僕たちは椅子から立ち上がり部屋を出る。入り組んだ通路を抜け、舞台袖に辿り着くと明るい照明が目の前の舞台を照らしているのが見える。

「よし、行こう」

 僕のかけ声に藍と咲苗が勢いよく答える。

「はいよっ」

「うんっ」

 僕たちは輝かしい照明目指し、揃って足を前に踏み出した。

                                 ― 了 ―

◆次回
54.ボツエピソード・藍の右手、僕の左手
あとがき
2022年5月24日 21:00 公開予定 
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