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44.藍の想い・奏輔の当惑
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昨日一昨日に引き続き今日もバイトが少し長引いてしまった。ここ数日降った季節外れの雪に引き続きこんなしんしんとした寒の戻りの日は、冨久屋でじっくり飲み明かしたいところだったが、この時間では席が空いてるかどうかも怪しいだろう。僕は急いだ。急いで歩きながら、これ以上はもう藍と関わらない方がいいのだろうかと考えていた。僕と接触を持つことは藍にとってもう苦痛なだけだろうとも思った。そう思うと僕は無性に寂しかった。胸が苦しくなった。まるで生まれてから一度も経験したことがない恋をしているかのように。妙子さんの「恋をしたことがないのね」と言われたことを思い出す。まあいい、冨久屋で一人飲みながらこれからどうするかじっくり考えよう。
そんなことを考えながら冨久屋の戸を開けようとしたところ、ガラス戸を通してここでは絶対に見たくない存在を見てしまった。年齢二十歳で痩身、ロングヘアーのそいつはへべれけに酔っ払い店内の客に愛想を振りまきながら何かを楽しそうに喚いている。僕が見た中でも最悪の酩酊具合だ。なぜ、どうしてここに? 僕の中に沢山の?が生まれるが、あいつがこの店内で僕たちのことを暴露したらそれはもう途轍もない破壊力の爆弾になりかねない。すがちゃんなんか泣いてしまうくらいに。僕は慌てて店に飛び込んだ。
「やだもうずうっと待ってたんだよう奏輔え!」
目ざとく僕に気付いた藍が嘘くさいくらいに甘ったるい声を放って僕に全力で抱きつく。
「ぐうっ」
きつく締め付けられた僕は変な呻き声を吐いた。藍はものすっごく酒臭い。
藍の行動を目の当たりにした店内が一気に沸く。
「うおおお、想ちゃんやるねえ!」
「よっ、ご両人っ!」
同時に厨房で食器が割れる盛大な音がする。僕が驚いて藍の肩越しにそっちの方を見る。そこには皿を手から滑り落としたすがちゃんが呆然とこっちの方を見ている姿があった。
他に空いてる席もない僕は、藍の隣の一番隅っこの席に強制的に座らせられた。
「ど、どっ、どうしてここにっ?」
僕は喉から心臓が飛び出しそうだった。藍は僕の耳元に唇を寄せる。
「んふっ、昨日後つけてきた」
「なにいっ」
「すいませえん、このトマトのおひたしってゆうの下さあい」
「あっはっはいっ」
慌てふためきながら伝票をつけるすがちゃん。明らかに動揺している。それも激しく。店内の常連客はことの次第を楽しんでいるようで、すがちゃんと藍の両方を代わる代わる眺めている。
にやにや笑いをたたえた藍はすがちゃんの方をちらちら見ながら僕にくっついて耳元で囁く。
「ふうーん、あれが奏輔の、五つ年上で、バツイチでまだそこまで行っていない彼女?」
「だから何だっ」
「別に」
藍の隣はもう結構な歳の山崎さん。だがとにかく助兵衛で仕方ない人なのでとても心配だ。セクハラ発言どころかおさわりだって平然としかねない。僕は藍と席を変わる。
それでも山崎さんは僕越しに藍に話しかける。出来ればそれもブロックしたいくらいだ。
「でえ、どうゆう関係なのよお、お二人さん」
「こういう関係ですっ」
藍が僕の腕にしがみ付く。またどよめく店内。それと同時に今度は小皿が割れる音がした。音のした方を見ると、慌てて割れた小皿をかたそうとするすがちゃんがいた。僕は全力で藍の腕を振り払う。この間自分でも「悪かった」って言ってたじゃないか。
「たっ、ただのピアノ仲間です」
僕はきっぱりと言った。
「もう彼ってば固くて全然だめなんですよお」
それに反応して山崎さんが「固い」にまつわるとてつもなく下品な冗談を言った。藍は「やあだあ、もう何言ってるんですかエッチい」とか言って適当にいなしている。藍ってこんな人あしらいが上手だったのか?
とにかく強く目で訴えて藍には腕にしがみ付かないようにさせた。不満そうな顔をする藍だが、意外と素直に従ったので正直ほっとする。
藍が散々酒を注いだおかげでへべれけになった山崎さんが早々に退店すると今度は竹田さんがこっちにやってきた。
「いやこらまためんこいことお」
「ありがとうございますう」
竹田さんは店内によく響くような大声でしゃべる。
「いやでもさ、俺想ちゃんはもともと別に彼女がいるって聞いていたんだけど、これって一体どうなってんの?」
「彼女?」
僕と藍が同時に言う。
「そう」
竹田さんが言う「彼女」とはおそらくすがちゃん、妙子さんの事だ。僕はもうこれ以上妙子さんと藍のことで混ぜっ返されたくはなかった。
「いや、ちょっと竹田さんもうそれぐらいで勘弁してください。プライバシーの侵害ですよ本当に」
藍は嘘くさいくらいの真顔で自分を指さす。
「んっ?」
飲み込めない竹田さんに藍は笑顔で言った。
「私が・彼女・ですっ」
満面の笑みを湛えた藍の一言とともにまた盛大に皿が割れる音がした。多分魚の角皿だろう。僕は見ていられないやら申し訳ないやらですがちゃんの方に目を向けられない。深く頭を垂れた。気を取り直して事実を正しく伝えようとする。
「竹田さん。この人は僕のピアノ仲間でもあり、以前はピアノを教えてもいた人で、それ以上の関係は何も」
「やだあ、あの夜のことはもう忘れちゃったのー!」
今までで一番大きな複数の破壊音がする。藍がこの店に与える経済的損失は一体いかほどのものになるのだろうか。僕は憂うつになった。
盛り上がる竹田さんはじめ店内の人達は置いておいて、僕はすがちゃんによく聞こえるよう事実を伝えたかった。
「あの夜もこの夜もありません。僕は何もしていません」
「ええー、じゃあキ――」
しまった! キスはだめだ! 絶対アウトだレッドカードものだ。それどころか出場資格永久はく奪だ。僕は急いで藍の口を塞いだ。そのまま藍に額を寄せ囁く。
「お前本当は何しに来た。ただの冷やかしやからかいなんかじゃないだろう」
「ふふっ、さあなんでしょう。当ててみな」
口を塞がれた藍はいつものいたずらっぽい目で笑った。僕だってもうその笑顔には負けないからな。
しかしその後も藍のペースに飲まれっぱなしの僕は抵抗や抗弁する気力も失ってしまいそうだった。すがちゃんも順調に物的被害を増やしてゆく。
そうこうするうち竹田さんが僕の斜め後ろの藍を指さす。藍は僕に寄りかかって寝ていた。揺すっても頭を叩いても起きない。これは藍のアパートまで連れて行くしかないのか。僕は大きなため息をついた。寝ている藍の分までお会計をする。結構な損失だ。今日の帰りにすがちゃんにこのことを説明しておきたかったんだけれど。
「あの、明日ちゃんと話しますから……」
藍の腕を肩に担いだ僕がそう小さい声ですがちゃんに言うと、すがちゃんは少し不安そうな顔でうつむいたまま小さく頷いた。
店を出る時竹田さんが「おう、これからのフォローが大変だあなあ」と嬉しそうに僕に言う。僕は疲れ切った声で「そうですね」と言うしかなかった。まったく、一緒に面白おかしく話を広げておいて何を言ってるんだこの人は。
フラフラで気持ちよさそうな顔をしている藍の肩を担いで、北風に吹かれながら歩いていると、ぼそっと藍の声がした。
「いい人だったね」
「んっ? そうか、彼女のこと見てたのか?」
「お店のお客さんのこと」
「なんだ」
「公認なんだ」
「うんまあいつのまにかそんな感じになっちゃった」
「でもさ、いっぱいお皿割ってたねあの人」
「お前のせいなんだぞ少しは自覚しろ」
「はあい」
風に乗ってさらさらっと細かい雪が降り始める。どうりで寒いわけだ。細かい雪の結晶が藍の髪に降り注いでさらさらと滑り落ちていく。藍が小さな声で言う。
「……おしとやかで、しおらしくて、世話好きで、誰にでも優しくて、純粋で、ちょっと天然。おとなしくて気が弱そうに見える一方で芯が強いところもある。化粧っ気があまりなくて素朴で、一見地味なんだけど美人。あと胸がおっきい」
なんだ、あれだけの時間でよくそこまで観察していたな。僕は少し感心した。
「あのさあ」
呆れたような小馬鹿にしたような言葉を白い息とともに吐き出す藍。
「ん?」
「男って、どいつもこいつもこぞってそんな女ばっか好きになんだよねっ! ばっかじゃないのっ! ほんとばっかみたい! ははははっ!」
今日の北風のように冷たくて大きな声で笑う藍。
「……」
「それにくっらそ。陰キャ。友達できないよねあれじゃ」
吐き捨てる藍。
「なんだって」
「おまけに五つも年増でその上バツイチ? は? なさすぎるわ」
「おいお前それ以上言ったらいくらなんでも本気で怒るからな」
「怒ってるのこっちだっつーの。あー腹立つ、まじ腹立つ。」
歩道脇の根雪を思い切り蹴る藍。
「そんな年増に負けて。あたしの初恋奪われて。ほんとなんなんだよ…… なんなんだってんだよ……」
震え声を喉から絞り出す藍。大きな音を立てて鼻をすする。泣いているのか。
「しかも奏輔のピアニスト人生を潰した張本人でさ。あたしが一番憎んでる人間」
藍の目がすうっと細くなった。
「絶対許さない」
「いいんだ。僕はもう納得した上での――」
「あたしが納得してないんだよ!」
藍は振りほどくように僕から離れる。泥酔してたんじゃなかったのか?
「じゃあどうするって言うんだ…… 彼女はもう充分に苦しんでいる。苦しむ意味も必要もどこにもないっていうのに」
「は? 苦しむ? それで済むなら警察も裁判所もいらないって。詰め腹切れっての。それこそ奏輔みたいに人生潰されるくらいの怪我でもしてさ」
「やめろ!」
僕は藍の言葉に一瞬で血の気が引いた。
「どうしよっかなあ」
口元に指を当てて嗜虐的な微笑を浮かべる藍。
「お前おかしいぞ、どうかしてる」
そう言った僕の唇が震える。それは寒さから来るものではなかった。
「ん、自分でもそう思う」
と言いつつも涼しい顔をして薄っすら笑みすら浮かべている藍。
「ね、奏輔。取引しない?」
「取引? いまさら何の取引だ」
「あたし、あの女にもうちょっかい出すの止める」
「そうか、よかった。やっとわか――」
「代わりにこっち来て」
すっと僕の方に細くて長い手を差し伸べる藍。悲しげな瞳で僕を見つめる。
「ねえ、来て。来てよ、あたしんとこ…… あたし寂しいんだ……」
言葉通り寂しそうな顔をする藍。だが僕は藍の意に沿うわけにはいかないと思った。今までになく真剣な顔で藍に対峙する。
「行ってもいいが……」
「えっ?」
「そこに僕の心はないぞ」
真剣な顔の僕と寂しげな顔の藍がにらみ合う。藍がふと一瞬だけ泣きそうな顔をした。錯覚かと思えるほど一瞬だった。が、すぐに皮肉たっぷりの笑顔に変わる。
「わかってるよ、そんなこと。冗談冗談」
昨日から積もった薄い積雪を踏んで藍は無言で一人進む。僕はその後をついて行った。そして藍のアパートまでたどり着く。
「はい、お疲れさまでしたあ。今日はこれで。お見送りありがと。あ、それともどお? あたしんちで飲む?」
「いや、遠慮する」
「ん、そうだよね普通。あたしも本気で奏輔押し倒しちゃいそうでヤバいからやめとく。それじゃね」
藍は全く酔っていない様子で自分の部屋に入って行った。
僕は特大の溜息を吐くと歩いて自分の部屋まで帰った。
しかしこれで終わりではなかった。
◆次回
45.妙子と藍
2022年5月15日 10:00 公開予定
そんなことを考えながら冨久屋の戸を開けようとしたところ、ガラス戸を通してここでは絶対に見たくない存在を見てしまった。年齢二十歳で痩身、ロングヘアーのそいつはへべれけに酔っ払い店内の客に愛想を振りまきながら何かを楽しそうに喚いている。僕が見た中でも最悪の酩酊具合だ。なぜ、どうしてここに? 僕の中に沢山の?が生まれるが、あいつがこの店内で僕たちのことを暴露したらそれはもう途轍もない破壊力の爆弾になりかねない。すがちゃんなんか泣いてしまうくらいに。僕は慌てて店に飛び込んだ。
「やだもうずうっと待ってたんだよう奏輔え!」
目ざとく僕に気付いた藍が嘘くさいくらいに甘ったるい声を放って僕に全力で抱きつく。
「ぐうっ」
きつく締め付けられた僕は変な呻き声を吐いた。藍はものすっごく酒臭い。
藍の行動を目の当たりにした店内が一気に沸く。
「うおおお、想ちゃんやるねえ!」
「よっ、ご両人っ!」
同時に厨房で食器が割れる盛大な音がする。僕が驚いて藍の肩越しにそっちの方を見る。そこには皿を手から滑り落としたすがちゃんが呆然とこっちの方を見ている姿があった。
他に空いてる席もない僕は、藍の隣の一番隅っこの席に強制的に座らせられた。
「ど、どっ、どうしてここにっ?」
僕は喉から心臓が飛び出しそうだった。藍は僕の耳元に唇を寄せる。
「んふっ、昨日後つけてきた」
「なにいっ」
「すいませえん、このトマトのおひたしってゆうの下さあい」
「あっはっはいっ」
慌てふためきながら伝票をつけるすがちゃん。明らかに動揺している。それも激しく。店内の常連客はことの次第を楽しんでいるようで、すがちゃんと藍の両方を代わる代わる眺めている。
にやにや笑いをたたえた藍はすがちゃんの方をちらちら見ながら僕にくっついて耳元で囁く。
「ふうーん、あれが奏輔の、五つ年上で、バツイチでまだそこまで行っていない彼女?」
「だから何だっ」
「別に」
藍の隣はもう結構な歳の山崎さん。だがとにかく助兵衛で仕方ない人なのでとても心配だ。セクハラ発言どころかおさわりだって平然としかねない。僕は藍と席を変わる。
それでも山崎さんは僕越しに藍に話しかける。出来ればそれもブロックしたいくらいだ。
「でえ、どうゆう関係なのよお、お二人さん」
「こういう関係ですっ」
藍が僕の腕にしがみ付く。またどよめく店内。それと同時に今度は小皿が割れる音がした。音のした方を見ると、慌てて割れた小皿をかたそうとするすがちゃんがいた。僕は全力で藍の腕を振り払う。この間自分でも「悪かった」って言ってたじゃないか。
「たっ、ただのピアノ仲間です」
僕はきっぱりと言った。
「もう彼ってば固くて全然だめなんですよお」
それに反応して山崎さんが「固い」にまつわるとてつもなく下品な冗談を言った。藍は「やあだあ、もう何言ってるんですかエッチい」とか言って適当にいなしている。藍ってこんな人あしらいが上手だったのか?
とにかく強く目で訴えて藍には腕にしがみ付かないようにさせた。不満そうな顔をする藍だが、意外と素直に従ったので正直ほっとする。
藍が散々酒を注いだおかげでへべれけになった山崎さんが早々に退店すると今度は竹田さんがこっちにやってきた。
「いやこらまためんこいことお」
「ありがとうございますう」
竹田さんは店内によく響くような大声でしゃべる。
「いやでもさ、俺想ちゃんはもともと別に彼女がいるって聞いていたんだけど、これって一体どうなってんの?」
「彼女?」
僕と藍が同時に言う。
「そう」
竹田さんが言う「彼女」とはおそらくすがちゃん、妙子さんの事だ。僕はもうこれ以上妙子さんと藍のことで混ぜっ返されたくはなかった。
「いや、ちょっと竹田さんもうそれぐらいで勘弁してください。プライバシーの侵害ですよ本当に」
藍は嘘くさいくらいの真顔で自分を指さす。
「んっ?」
飲み込めない竹田さんに藍は笑顔で言った。
「私が・彼女・ですっ」
満面の笑みを湛えた藍の一言とともにまた盛大に皿が割れる音がした。多分魚の角皿だろう。僕は見ていられないやら申し訳ないやらですがちゃんの方に目を向けられない。深く頭を垂れた。気を取り直して事実を正しく伝えようとする。
「竹田さん。この人は僕のピアノ仲間でもあり、以前はピアノを教えてもいた人で、それ以上の関係は何も」
「やだあ、あの夜のことはもう忘れちゃったのー!」
今までで一番大きな複数の破壊音がする。藍がこの店に与える経済的損失は一体いかほどのものになるのだろうか。僕は憂うつになった。
盛り上がる竹田さんはじめ店内の人達は置いておいて、僕はすがちゃんによく聞こえるよう事実を伝えたかった。
「あの夜もこの夜もありません。僕は何もしていません」
「ええー、じゃあキ――」
しまった! キスはだめだ! 絶対アウトだレッドカードものだ。それどころか出場資格永久はく奪だ。僕は急いで藍の口を塞いだ。そのまま藍に額を寄せ囁く。
「お前本当は何しに来た。ただの冷やかしやからかいなんかじゃないだろう」
「ふふっ、さあなんでしょう。当ててみな」
口を塞がれた藍はいつものいたずらっぽい目で笑った。僕だってもうその笑顔には負けないからな。
しかしその後も藍のペースに飲まれっぱなしの僕は抵抗や抗弁する気力も失ってしまいそうだった。すがちゃんも順調に物的被害を増やしてゆく。
そうこうするうち竹田さんが僕の斜め後ろの藍を指さす。藍は僕に寄りかかって寝ていた。揺すっても頭を叩いても起きない。これは藍のアパートまで連れて行くしかないのか。僕は大きなため息をついた。寝ている藍の分までお会計をする。結構な損失だ。今日の帰りにすがちゃんにこのことを説明しておきたかったんだけれど。
「あの、明日ちゃんと話しますから……」
藍の腕を肩に担いだ僕がそう小さい声ですがちゃんに言うと、すがちゃんは少し不安そうな顔でうつむいたまま小さく頷いた。
店を出る時竹田さんが「おう、これからのフォローが大変だあなあ」と嬉しそうに僕に言う。僕は疲れ切った声で「そうですね」と言うしかなかった。まったく、一緒に面白おかしく話を広げておいて何を言ってるんだこの人は。
フラフラで気持ちよさそうな顔をしている藍の肩を担いで、北風に吹かれながら歩いていると、ぼそっと藍の声がした。
「いい人だったね」
「んっ? そうか、彼女のこと見てたのか?」
「お店のお客さんのこと」
「なんだ」
「公認なんだ」
「うんまあいつのまにかそんな感じになっちゃった」
「でもさ、いっぱいお皿割ってたねあの人」
「お前のせいなんだぞ少しは自覚しろ」
「はあい」
風に乗ってさらさらっと細かい雪が降り始める。どうりで寒いわけだ。細かい雪の結晶が藍の髪に降り注いでさらさらと滑り落ちていく。藍が小さな声で言う。
「……おしとやかで、しおらしくて、世話好きで、誰にでも優しくて、純粋で、ちょっと天然。おとなしくて気が弱そうに見える一方で芯が強いところもある。化粧っ気があまりなくて素朴で、一見地味なんだけど美人。あと胸がおっきい」
なんだ、あれだけの時間でよくそこまで観察していたな。僕は少し感心した。
「あのさあ」
呆れたような小馬鹿にしたような言葉を白い息とともに吐き出す藍。
「ん?」
「男って、どいつもこいつもこぞってそんな女ばっか好きになんだよねっ! ばっかじゃないのっ! ほんとばっかみたい! ははははっ!」
今日の北風のように冷たくて大きな声で笑う藍。
「……」
「それにくっらそ。陰キャ。友達できないよねあれじゃ」
吐き捨てる藍。
「なんだって」
「おまけに五つも年増でその上バツイチ? は? なさすぎるわ」
「おいお前それ以上言ったらいくらなんでも本気で怒るからな」
「怒ってるのこっちだっつーの。あー腹立つ、まじ腹立つ。」
歩道脇の根雪を思い切り蹴る藍。
「そんな年増に負けて。あたしの初恋奪われて。ほんとなんなんだよ…… なんなんだってんだよ……」
震え声を喉から絞り出す藍。大きな音を立てて鼻をすする。泣いているのか。
「しかも奏輔のピアニスト人生を潰した張本人でさ。あたしが一番憎んでる人間」
藍の目がすうっと細くなった。
「絶対許さない」
「いいんだ。僕はもう納得した上での――」
「あたしが納得してないんだよ!」
藍は振りほどくように僕から離れる。泥酔してたんじゃなかったのか?
「じゃあどうするって言うんだ…… 彼女はもう充分に苦しんでいる。苦しむ意味も必要もどこにもないっていうのに」
「は? 苦しむ? それで済むなら警察も裁判所もいらないって。詰め腹切れっての。それこそ奏輔みたいに人生潰されるくらいの怪我でもしてさ」
「やめろ!」
僕は藍の言葉に一瞬で血の気が引いた。
「どうしよっかなあ」
口元に指を当てて嗜虐的な微笑を浮かべる藍。
「お前おかしいぞ、どうかしてる」
そう言った僕の唇が震える。それは寒さから来るものではなかった。
「ん、自分でもそう思う」
と言いつつも涼しい顔をして薄っすら笑みすら浮かべている藍。
「ね、奏輔。取引しない?」
「取引? いまさら何の取引だ」
「あたし、あの女にもうちょっかい出すの止める」
「そうか、よかった。やっとわか――」
「代わりにこっち来て」
すっと僕の方に細くて長い手を差し伸べる藍。悲しげな瞳で僕を見つめる。
「ねえ、来て。来てよ、あたしんとこ…… あたし寂しいんだ……」
言葉通り寂しそうな顔をする藍。だが僕は藍の意に沿うわけにはいかないと思った。今までになく真剣な顔で藍に対峙する。
「行ってもいいが……」
「えっ?」
「そこに僕の心はないぞ」
真剣な顔の僕と寂しげな顔の藍がにらみ合う。藍がふと一瞬だけ泣きそうな顔をした。錯覚かと思えるほど一瞬だった。が、すぐに皮肉たっぷりの笑顔に変わる。
「わかってるよ、そんなこと。冗談冗談」
昨日から積もった薄い積雪を踏んで藍は無言で一人進む。僕はその後をついて行った。そして藍のアパートまでたどり着く。
「はい、お疲れさまでしたあ。今日はこれで。お見送りありがと。あ、それともどお? あたしんちで飲む?」
「いや、遠慮する」
「ん、そうだよね普通。あたしも本気で奏輔押し倒しちゃいそうでヤバいからやめとく。それじゃね」
藍は全く酔っていない様子で自分の部屋に入って行った。
僕は特大の溜息を吐くと歩いて自分の部屋まで帰った。
しかしこれで終わりではなかった。
◆次回
45.妙子と藍
2022年5月15日 10:00 公開予定
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