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17.不安
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午前中のバイトを終わらせると、僕は右手を怪我して以来初めて駅ピアノに行った。この右手を見て藍はなんと言うだろうか。僕は気が重かった。
「よ、久しぶりじゃん。忙しかったの?」
藍はいつも通り僕に明るく声をかけてくる。僕は「おお」とだけ答えた。右のポケットに入れた手をいつ見せようか僕は迷っていた。
「今日は何弾くの」
明るく無邪気な表情の藍。僕は覚悟を決め、渋々包帯でぐるぐる巻きの右手をポケットから出した。藍の息を呑む声が聞こえる。自分のことでもないのにみるみるうちに青ざめていく。
「どうしたのっ! ねえどうしたのこれっ!」
半ば叫ぶような声を発し藍は僕の右手を両手で掴んだ。
「あ、ああ、悪い奴に襲われた美女をかばって切られちゃってさ…… かっこいいだろ」
と冗談めかして言ってみたものの、予想を上回る藍の尋常ではない慌てぶりに僕は戸惑う。
「ねえ、大丈夫なの? これ」
僕以上に不安そうな藍の小さな声が駅構内に響く。
「医者はまあ大丈夫だろうって」
「まあ? 大丈夫だろう?」
つり上がってくる藍の目。
「それ信じてもいいの?」
何かにつけ楽天的でポジティブに見える藍がここまで僕の怪我にこだわるとは思わなかった。僕の方がむしろ冷静なくらいだ。その僕は冷静に藍に言う。
「これは僕の手の問題なんだから藍には関係ない。そうだろ?」
僕の手を両手で掴んだままの藍は、じっと僕の目を正面から見据えて呟いた。
「わかってない」
「えっ?」
僕はその藍の真剣な眼に驚いた。
「あたしの問題でもあるんだからっ」
「え、どうして」
藍は何も言わずぷいっと180度ターンして、ぱたぱたとピアノに駆け寄る。少しがたついたピアノ椅子に勢いよく座るといきなりラフマニノフの前奏曲 嬰ハ短調 《鐘》 Op.3-2 を弾いた。乱暴だった。藍らしい細やかで豊かな響きのない、乱暴で粗雑で単調な演奏だった。何かの怒りに駆られているのか、それとも何かを恐れているのか。荘厳な鐘の音がただの割れ鐘と化してしまっている。僕はそんなことを考えながらふくれっ面で演奏する藍を眺めていた。
演奏が終わった後も藍はどこかひどく機嫌が悪そうだった。そこで僕は藍が≪鐘≫を弾いたのなら同じラフマニノフでパガニーニの主題による狂詩曲 - 第18変奏でも弾いてやろうかと思い脚を踏み出し、立ち止まる。そうか、今僕は弾けないんだ。まだあと何日も僕はピアノが弾けないんだ。いまさらのようにそれを実感すると、僕の胸は押し潰されそうになる。
なぜか不機嫌な顔をした藍と僕は、ピアノから少し離れた場所で立ち尽くしていた。中学生くらいの複数の男女が短いチェルニーの8小節の練習曲、Op.821‐24を順番に弾いている。僕は何気ない風を装ってどこか虫の居所が悪そうな藍に声をかけた。
「どこ行く?」
「え?」
「昼」
「ああ、あたしはどこでも」
「活力亭行こうか」
「また?」
「どこでもいいんじゃなかったのかよ」
「あ、うん」
不運なことに活力亭は大行列で、それが僕たちをさらに不機嫌にさせる。
藍は珍しく五目ラーメンを頼み、僕はカレーの大盛りを頼んで左手にスプーンを持って不器用に食べる。藍が僕の怪我のことをあまりにも気にしているようなので、藍の気持ちを落ち着かせる何かいい言葉はないか考え込んだ。
「さっきも言ったけど大したことないって医者も言ってるんだしそんな心配するなって」
「うん……」
器に顔を沈めんばかりにして五目ラーメンを食べる藍。僕と目を合わそうともしない。何が不満なのか。
「大体、どうして藍がそんなに気にするんだよ」
「気にするよ……」
ちゅるちゅると元気なく麺をすする藍。
「奏輔と連弾できなくなるもん……」
藍は消え入るような声で何かを呟いた。
「なんだって?」
「なんでもないっ」
今度は大きな声を出すと、後はいつものようにずるずると行儀悪く麺をすするいつもの藍に戻った。不機嫌さは相変わらずだったが。この日はこれで解散したが、藍の不安そうな様子と僕を気遣うような眼がひどく落ち着かなかった。
今夜も冨久屋が店じまいしてから僕はすがちゃんと二人で帰る。いつもすまなそうにするすがちゃんと歩きながら色々な話をした。主にすがちゃんの前夫やすがちゃんの家族のことなど。
すがちゃんと僕に暴力をふるった前夫は未だ見つかっていない。すがちゃんには悪いが、すがちゃんのDV前夫がいつまでも見つからなければいいのに、と僕は思った。しかし、あの男のことを話す時のすがちゃんは少し震えているようで見ていられない。それを見て僕は自分の浅はかさを恥じ、僕のわがままな願望を頭の中で取り消した。
◆次回
18.音の美
2022年4月18日 21:00 公開予定
「よ、久しぶりじゃん。忙しかったの?」
藍はいつも通り僕に明るく声をかけてくる。僕は「おお」とだけ答えた。右のポケットに入れた手をいつ見せようか僕は迷っていた。
「今日は何弾くの」
明るく無邪気な表情の藍。僕は覚悟を決め、渋々包帯でぐるぐる巻きの右手をポケットから出した。藍の息を呑む声が聞こえる。自分のことでもないのにみるみるうちに青ざめていく。
「どうしたのっ! ねえどうしたのこれっ!」
半ば叫ぶような声を発し藍は僕の右手を両手で掴んだ。
「あ、ああ、悪い奴に襲われた美女をかばって切られちゃってさ…… かっこいいだろ」
と冗談めかして言ってみたものの、予想を上回る藍の尋常ではない慌てぶりに僕は戸惑う。
「ねえ、大丈夫なの? これ」
僕以上に不安そうな藍の小さな声が駅構内に響く。
「医者はまあ大丈夫だろうって」
「まあ? 大丈夫だろう?」
つり上がってくる藍の目。
「それ信じてもいいの?」
何かにつけ楽天的でポジティブに見える藍がここまで僕の怪我にこだわるとは思わなかった。僕の方がむしろ冷静なくらいだ。その僕は冷静に藍に言う。
「これは僕の手の問題なんだから藍には関係ない。そうだろ?」
僕の手を両手で掴んだままの藍は、じっと僕の目を正面から見据えて呟いた。
「わかってない」
「えっ?」
僕はその藍の真剣な眼に驚いた。
「あたしの問題でもあるんだからっ」
「え、どうして」
藍は何も言わずぷいっと180度ターンして、ぱたぱたとピアノに駆け寄る。少しがたついたピアノ椅子に勢いよく座るといきなりラフマニノフの前奏曲 嬰ハ短調 《鐘》 Op.3-2 を弾いた。乱暴だった。藍らしい細やかで豊かな響きのない、乱暴で粗雑で単調な演奏だった。何かの怒りに駆られているのか、それとも何かを恐れているのか。荘厳な鐘の音がただの割れ鐘と化してしまっている。僕はそんなことを考えながらふくれっ面で演奏する藍を眺めていた。
演奏が終わった後も藍はどこかひどく機嫌が悪そうだった。そこで僕は藍が≪鐘≫を弾いたのなら同じラフマニノフでパガニーニの主題による狂詩曲 - 第18変奏でも弾いてやろうかと思い脚を踏み出し、立ち止まる。そうか、今僕は弾けないんだ。まだあと何日も僕はピアノが弾けないんだ。いまさらのようにそれを実感すると、僕の胸は押し潰されそうになる。
なぜか不機嫌な顔をした藍と僕は、ピアノから少し離れた場所で立ち尽くしていた。中学生くらいの複数の男女が短いチェルニーの8小節の練習曲、Op.821‐24を順番に弾いている。僕は何気ない風を装ってどこか虫の居所が悪そうな藍に声をかけた。
「どこ行く?」
「え?」
「昼」
「ああ、あたしはどこでも」
「活力亭行こうか」
「また?」
「どこでもいいんじゃなかったのかよ」
「あ、うん」
不運なことに活力亭は大行列で、それが僕たちをさらに不機嫌にさせる。
藍は珍しく五目ラーメンを頼み、僕はカレーの大盛りを頼んで左手にスプーンを持って不器用に食べる。藍が僕の怪我のことをあまりにも気にしているようなので、藍の気持ちを落ち着かせる何かいい言葉はないか考え込んだ。
「さっきも言ったけど大したことないって医者も言ってるんだしそんな心配するなって」
「うん……」
器に顔を沈めんばかりにして五目ラーメンを食べる藍。僕と目を合わそうともしない。何が不満なのか。
「大体、どうして藍がそんなに気にするんだよ」
「気にするよ……」
ちゅるちゅると元気なく麺をすする藍。
「奏輔と連弾できなくなるもん……」
藍は消え入るような声で何かを呟いた。
「なんだって?」
「なんでもないっ」
今度は大きな声を出すと、後はいつものようにずるずると行儀悪く麺をすするいつもの藍に戻った。不機嫌さは相変わらずだったが。この日はこれで解散したが、藍の不安そうな様子と僕を気遣うような眼がひどく落ち着かなかった。
今夜も冨久屋が店じまいしてから僕はすがちゃんと二人で帰る。いつもすまなそうにするすがちゃんと歩きながら色々な話をした。主にすがちゃんの前夫やすがちゃんの家族のことなど。
すがちゃんと僕に暴力をふるった前夫は未だ見つかっていない。すがちゃんには悪いが、すがちゃんのDV前夫がいつまでも見つからなければいいのに、と僕は思った。しかし、あの男のことを話す時のすがちゃんは少し震えているようで見ていられない。それを見て僕は自分の浅はかさを恥じ、僕のわがままな願望を頭の中で取り消した。
◆次回
18.音の美
2022年4月18日 21:00 公開予定
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