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鷹花の二人編
第19話 千隼の答え
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早朝のことだった。
今日は一日にわか雨が続くでしょう、と気象予報士のお姉さんがブラウン管テレビの向こうで笑顔を見せていた。
さとみは、小さな体で大きなゴミ袋を抱えながら、指定のゴミ捨て場へと向かって歩みを進める。目と鼻の先、ほんの数メートルの距離なのに、途方もなく遠く感じた。突然、ざあっと音を立てて雨が降り出し、さとみを容赦なく打つ。
「もう……」
悪態をつこうとしたその瞬間、雨がぴたりと止んだ。不思議に思って上を見上げると、そこにはビニール傘をさした千隼が立っていた。
嬉しかった。思わず大声をあげてしまいそうだった。いや、抱きついたって良かった。だが、さとみは辛うじて平静を装う。
「あ、ありがと……」
さとみがまた重たいゴミ袋を持ち替えようとすると、それを千隼はひょいと取り上げ、無言で運んで捨てた。さとみは相合傘で千隼と並んで、何も言えずに千隼の行動をただ目で追うことしかできなかった。はっと我に返る。
「あ、あの、今お仕事の時間じゃ……」
「休んだ」
千隼の真剣な表情がさとみの胸を締め付け、決意に満ちた声が響く。
「どう…… して……」
さとみは声を震わせる。
「確かめなくてはいけないことがあったから」
「確かめる?」
「そう」
「確かめるって…… だってもう全然お店に来ないから…… 私……」
「一人でずっと考えてた。そしてやっぱり自分で確かめなくちゃいけないって、そう思った」
大きなビニール傘にすっぽり収まって、千隼はさとみを見下ろす。こうして間近で見上げると首が痛くなりそうだ。そんな緊張感のないことを考えるさとみ。さとみの中では日中に千隼と言葉を交わすだなんて、あのスーパー銭湯以外では、どこか現実味が無かった。千隼はさとみを見下ろして真剣な声で言葉を続ける。
「あたし……」
黙って次の言葉を待つさとみ。次の言葉が自分にとって吉か凶か見当もつかなかった。なのに、心の底のひび割れた何かが熱くなるのを感じる。
「人を好きになったことがなかったんだ」
「え……」
「だから判らなかった…… あたし……」
千隼は一瞬ためらったが、すぐに同じ言葉を繰り返す。
「あたし……」
まるで時間が止まったようだった。さとみはその場に凍り付いたまま微動だにできない。自分が何を期待し、何を恐れているのか、自分でも全く分からなかった。
「さとみが」
一瞬、傘に叩きつける雨音が激しさを増す。
「好きなんだ……」
激しく傘を叩く雨音よりも小さな心細そうな声だったが、それでもさとみの耳の奥にまで千隼の声は響いた。さとみは眼を剥いて千隼を見つめる。千隼の言葉が何度も頭の中で反響する。だがそれを理解することができない。さとみは息を止めて千隼を食い入るように見つめるしかなかった。
「気持ち悪かったらごめん。もうここには来ない。約束する。だけどあたしは自分の気持ちに決着をつけたいんだ。もう自分に嘘はつけない」
「好き…… 決着……?」
さとみの乾いた喉から、かろうじて切れ切れの単語が絞り出される。
「そう、好き。あたしはさとみが好き」
その瞬間、様々な想いと記憶が奔流となって、さとみの頭の中に押し寄せてくる。
初めて千隼を見た時の虚ろで頼りなげな、捨てられた子犬のような姿を見て、思わず母性をくすぐられたこと。初めて千隼を「ちーちゃん」と呼んだ時の戸惑った顔が可愛らしかったこと。時折見せる影、決して語らない過去に不安を感じたり、自分がまだまだ本当の意味で信頼されてないのかと悲しくなったこと。
同時に遥歌の顔がこれらの記憶に覆いかぶさってくる。自分のことを慕って控えめながら色々な相談事をしてくれたこと。なかなか単位をくれない教授に直談判に行ったと憤慨した時の顔。日本中世史について滔々と語る嬉しそうな表情。厨房を一緒に手伝ってくれた時、突然抱きつかれ、心臓が喉から飛び出るかと思ったこと。
判らない。何もかもが判らなかった。遥歌には婚約者ができ、もう自分の想いは絶対に、絶対に届かないのに、今でも夢に見るほど彼女のことが頭から離れない。なのに今感じるこの胸の高鳴りは何だ。自分にとっての特別が何なのか、もう判らない。
何かを言わなくては。だが、どうやって言葉を紡ぎ出せばいいのか。千隼の言葉は、あまりにも心の深い場所まで突き刺さり、足が小刻みに震える。
「……わからない」
さとみは自分に失望し絶望し、その一方で甘い希望も同時に芽生え始めていた。ああ、自分はどうしてこんなにも醜いのだろう。さとみは自分が憎くて仕方なかった。その瞬間、さとみは千隼から背を向け、雨の中を全速力で駆け出す。まるで千隼から逃げるように。そして自分自身からも逃げるように。千隼の声が背後から聞こえたが、もうさとみの耳には届かなかった。
【次回】
第20話 志乃の審問
今日は一日にわか雨が続くでしょう、と気象予報士のお姉さんがブラウン管テレビの向こうで笑顔を見せていた。
さとみは、小さな体で大きなゴミ袋を抱えながら、指定のゴミ捨て場へと向かって歩みを進める。目と鼻の先、ほんの数メートルの距離なのに、途方もなく遠く感じた。突然、ざあっと音を立てて雨が降り出し、さとみを容赦なく打つ。
「もう……」
悪態をつこうとしたその瞬間、雨がぴたりと止んだ。不思議に思って上を見上げると、そこにはビニール傘をさした千隼が立っていた。
嬉しかった。思わず大声をあげてしまいそうだった。いや、抱きついたって良かった。だが、さとみは辛うじて平静を装う。
「あ、ありがと……」
さとみがまた重たいゴミ袋を持ち替えようとすると、それを千隼はひょいと取り上げ、無言で運んで捨てた。さとみは相合傘で千隼と並んで、何も言えずに千隼の行動をただ目で追うことしかできなかった。はっと我に返る。
「あ、あの、今お仕事の時間じゃ……」
「休んだ」
千隼の真剣な表情がさとみの胸を締め付け、決意に満ちた声が響く。
「どう…… して……」
さとみは声を震わせる。
「確かめなくてはいけないことがあったから」
「確かめる?」
「そう」
「確かめるって…… だってもう全然お店に来ないから…… 私……」
「一人でずっと考えてた。そしてやっぱり自分で確かめなくちゃいけないって、そう思った」
大きなビニール傘にすっぽり収まって、千隼はさとみを見下ろす。こうして間近で見上げると首が痛くなりそうだ。そんな緊張感のないことを考えるさとみ。さとみの中では日中に千隼と言葉を交わすだなんて、あのスーパー銭湯以外では、どこか現実味が無かった。千隼はさとみを見下ろして真剣な声で言葉を続ける。
「あたし……」
黙って次の言葉を待つさとみ。次の言葉が自分にとって吉か凶か見当もつかなかった。なのに、心の底のひび割れた何かが熱くなるのを感じる。
「人を好きになったことがなかったんだ」
「え……」
「だから判らなかった…… あたし……」
千隼は一瞬ためらったが、すぐに同じ言葉を繰り返す。
「あたし……」
まるで時間が止まったようだった。さとみはその場に凍り付いたまま微動だにできない。自分が何を期待し、何を恐れているのか、自分でも全く分からなかった。
「さとみが」
一瞬、傘に叩きつける雨音が激しさを増す。
「好きなんだ……」
激しく傘を叩く雨音よりも小さな心細そうな声だったが、それでもさとみの耳の奥にまで千隼の声は響いた。さとみは眼を剥いて千隼を見つめる。千隼の言葉が何度も頭の中で反響する。だがそれを理解することができない。さとみは息を止めて千隼を食い入るように見つめるしかなかった。
「気持ち悪かったらごめん。もうここには来ない。約束する。だけどあたしは自分の気持ちに決着をつけたいんだ。もう自分に嘘はつけない」
「好き…… 決着……?」
さとみの乾いた喉から、かろうじて切れ切れの単語が絞り出される。
「そう、好き。あたしはさとみが好き」
その瞬間、様々な想いと記憶が奔流となって、さとみの頭の中に押し寄せてくる。
初めて千隼を見た時の虚ろで頼りなげな、捨てられた子犬のような姿を見て、思わず母性をくすぐられたこと。初めて千隼を「ちーちゃん」と呼んだ時の戸惑った顔が可愛らしかったこと。時折見せる影、決して語らない過去に不安を感じたり、自分がまだまだ本当の意味で信頼されてないのかと悲しくなったこと。
同時に遥歌の顔がこれらの記憶に覆いかぶさってくる。自分のことを慕って控えめながら色々な相談事をしてくれたこと。なかなか単位をくれない教授に直談判に行ったと憤慨した時の顔。日本中世史について滔々と語る嬉しそうな表情。厨房を一緒に手伝ってくれた時、突然抱きつかれ、心臓が喉から飛び出るかと思ったこと。
判らない。何もかもが判らなかった。遥歌には婚約者ができ、もう自分の想いは絶対に、絶対に届かないのに、今でも夢に見るほど彼女のことが頭から離れない。なのに今感じるこの胸の高鳴りは何だ。自分にとっての特別が何なのか、もう判らない。
何かを言わなくては。だが、どうやって言葉を紡ぎ出せばいいのか。千隼の言葉は、あまりにも心の深い場所まで突き刺さり、足が小刻みに震える。
「……わからない」
さとみは自分に失望し絶望し、その一方で甘い希望も同時に芽生え始めていた。ああ、自分はどうしてこんなにも醜いのだろう。さとみは自分が憎くて仕方なかった。その瞬間、さとみは千隼から背を向け、雨の中を全速力で駆け出す。まるで千隼から逃げるように。そして自分自身からも逃げるように。千隼の声が背後から聞こえたが、もうさとみの耳には届かなかった。
【次回】
第20話 志乃の審問
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