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鷹花の二人編
第13話 動揺するさとみ
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「ほら、これも食べなさいよ。どうせあんた、ろくに肴も頼まないんだから」
志乃がヘしこの乗った皿を千隼に差し出す。それを一切れとって口に入れると、塩辛さとまろやかな発酵の風味が広がり、体にしみ込んだ。しっとりとした味わいに心のどこかが少しだけほころぶ。
「あ、これ、おいしい」
「でしょ。酒の肴にはぴったり」
千隼は頷いた。言葉少なに酒と肴を味わいながら、ふと思う。こんな風にさとみ以外の誰かと静かに酒を酌み交わすのはいつ以来だろう。志乃とはそれほど深く関わっていないが、今日のようなこの空気は悪くない、と千隼は感じていた。
二人でぬる燗と安い焼酎のお湯割りを口に運ぶ。その時の千隼は珍しく、さとみ以外に微笑みを見せていたかもしれない。
「あら、二人で何を楽しそうにしてるの?」
ふと、手が空いたさとみが声をかけてきた。千隼と志乃のやりとりを見て、さとみは嬉しそうに笑顔を浮かべる。千隼はその笑顔をじっと見つめた。いつものように明るく、忙しさを忘れている瞬間の顔。だが、その中にどこか寂しさの影が見え隠れしていることに気づいていた。さとみは時折、店内を見回してそんな表情をみせることがあった。まるで誰かを探しているかのように。
その一瞬、志乃の顔が曇る。彼女は何かを探るようにさとみを見つめ、しかしすぐに軽い調子でからかった。
「ねえ、さとみ。最近なんかいい話ないの?」
「そうねえ、おかげさまで最近売り上げが随分といいの!」
若干はしゃぎ気味に答えるさとみを見て、志乃はしらけた顔をする。千隼も心の中で志乃に賛同していたが、口に出すことはなかった。
「あー、そういうのではなくてね、さとみさん」
「ん?」
「もっと色気のある話はないのかってことよ」
「色気のある話……?」
「なんか、いい人とかさ」
その一言で、さとみの表情が一変した。笑顔が凍りつき、一瞬、目が虚ろになる。意識が遠くへ飛んでいくような顔に、千隼は戸惑いを隠せなかった。
「いい人なんて……いないよ。いるわけないじゃない。もう、からかわないで」
さとみは、そう言うと、ぎこちなく笑いながらカウンターを乱暴に拭く。けれど、その笑顔の裏には、隠しきれない苦悩の影があることを、千隼も志乃もはっきりと感じ取った。
「なんだ、つまんないの」
志乃は探るような目でさとみを見つめる。千隼も、さとみの顔をじっと見たまま、心の中に広がる不安を抑えられなかった。
「ところで志乃の方こそいい話はないの? ほら、お付き合いしてる人とか、そうでなくても好きな人とか」
話を逸らすさとみに、志乃はお猪口をぐいっとあおり、重いため息をついた。
「そりゃね、私だって好きな人くらいいますよっ」
「えっ、知らなかった! 誰誰?」
突然の告白に、さとみの顔がぱっと輝く。さっきまでの様子とは雲泥の差だ。だがその無邪気な反応に、志乃の心に少し苦味が走る。千隼がすかさず、さとみをたしなめる。
「さとみ、食いつき過ぎだって」
千隼は苦笑しながら、少しだけ志乃の方をうかがう。
「……ったく、人の気も知らないで、呑気なもんだー」
赤くなった顔でそっぽを向き、吐き捨てるように言う志乃。その声にはどこか寂しさが滲んでいた。
「なんですって? せっかくお手伝いしてあげようと思ったのにっ」
さとみが少しむっとして声を上げる。だがその言葉に、志乃の胸はさらに苦しくなった。
「さとみ、だから食いつき過ぎ……」
千隼が再び、やんわりとたしなめたが、志乃の顔には一瞬、隠しきれない切なさが浮かんだ。
志乃が帰る時、千隼に何か言いたそうに一瞬だけ目を向けたが、すぐにいつもの軽い表情に戻って手を振ると、店を後にした。
その後、千隼とさとみだけが残る。だが、さとみの表情は、また元に戻ってしまった。宙をさ迷う虚ろな目、そしてどこか遠くに意識が行っているような空気が漂い、千隼はどう声をかけていいか分からなくなってしまう。
二人の会話は自然と少なくなった。さとみの沈黙が重くのしかかり、その場の空気がどこか気まずい。二人の間にぽつりぽつりと言葉は交わされたが、それはどこかしら空虚なものだった。
最後に、さとみが握ったおにぎりとみそ汁が静かに並べられる。二人は黙々と食べた。けれど、さとみの表情は硬いままだった。
千隼が店を出る時、さとみはうつむいたまま、小さな声でつぶやいた。
「私、だめなやつなんです」
その言葉が、千隼の心に重くのしかかった。虚ろな目のさとみを前に、千隼はしばし考えた。唐突な一言。さとみはこの言葉にどんな返答を期待しているのだろうか? それとも、これは彼女の心の底から漏れた独り言なのだろうか。
やがて、千隼は静かに言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「それでも、さとみはさとみだから」
さとみは驚いて千隼を見上げた。千隼は優しく微笑んでいた。
「だから、それでいいと思うよ」
千隼のその言葉に、さとみは何も言わずにまたうつむいたが、その肩がほんの少しだけ緩んだのを、千隼は感じ取った。千隼は静かに店を出る。
▼用語
※ へしこ:
塩漬けにしたサバなどの青魚を、ぬか漬けにして一年以上漬け込んだ発酵食品。福井、石川、京都などの伝統食。軽く火であぶって食べるのが一般的だが、新鮮なものは生食もできる。うまみが強く味わい深く塩味が強い。
【次回】
第14話 すべての元凶
志乃がヘしこの乗った皿を千隼に差し出す。それを一切れとって口に入れると、塩辛さとまろやかな発酵の風味が広がり、体にしみ込んだ。しっとりとした味わいに心のどこかが少しだけほころぶ。
「あ、これ、おいしい」
「でしょ。酒の肴にはぴったり」
千隼は頷いた。言葉少なに酒と肴を味わいながら、ふと思う。こんな風にさとみ以外の誰かと静かに酒を酌み交わすのはいつ以来だろう。志乃とはそれほど深く関わっていないが、今日のようなこの空気は悪くない、と千隼は感じていた。
二人でぬる燗と安い焼酎のお湯割りを口に運ぶ。その時の千隼は珍しく、さとみ以外に微笑みを見せていたかもしれない。
「あら、二人で何を楽しそうにしてるの?」
ふと、手が空いたさとみが声をかけてきた。千隼と志乃のやりとりを見て、さとみは嬉しそうに笑顔を浮かべる。千隼はその笑顔をじっと見つめた。いつものように明るく、忙しさを忘れている瞬間の顔。だが、その中にどこか寂しさの影が見え隠れしていることに気づいていた。さとみは時折、店内を見回してそんな表情をみせることがあった。まるで誰かを探しているかのように。
その一瞬、志乃の顔が曇る。彼女は何かを探るようにさとみを見つめ、しかしすぐに軽い調子でからかった。
「ねえ、さとみ。最近なんかいい話ないの?」
「そうねえ、おかげさまで最近売り上げが随分といいの!」
若干はしゃぎ気味に答えるさとみを見て、志乃はしらけた顔をする。千隼も心の中で志乃に賛同していたが、口に出すことはなかった。
「あー、そういうのではなくてね、さとみさん」
「ん?」
「もっと色気のある話はないのかってことよ」
「色気のある話……?」
「なんか、いい人とかさ」
その一言で、さとみの表情が一変した。笑顔が凍りつき、一瞬、目が虚ろになる。意識が遠くへ飛んでいくような顔に、千隼は戸惑いを隠せなかった。
「いい人なんて……いないよ。いるわけないじゃない。もう、からかわないで」
さとみは、そう言うと、ぎこちなく笑いながらカウンターを乱暴に拭く。けれど、その笑顔の裏には、隠しきれない苦悩の影があることを、千隼も志乃もはっきりと感じ取った。
「なんだ、つまんないの」
志乃は探るような目でさとみを見つめる。千隼も、さとみの顔をじっと見たまま、心の中に広がる不安を抑えられなかった。
「ところで志乃の方こそいい話はないの? ほら、お付き合いしてる人とか、そうでなくても好きな人とか」
話を逸らすさとみに、志乃はお猪口をぐいっとあおり、重いため息をついた。
「そりゃね、私だって好きな人くらいいますよっ」
「えっ、知らなかった! 誰誰?」
突然の告白に、さとみの顔がぱっと輝く。さっきまでの様子とは雲泥の差だ。だがその無邪気な反応に、志乃の心に少し苦味が走る。千隼がすかさず、さとみをたしなめる。
「さとみ、食いつき過ぎだって」
千隼は苦笑しながら、少しだけ志乃の方をうかがう。
「……ったく、人の気も知らないで、呑気なもんだー」
赤くなった顔でそっぽを向き、吐き捨てるように言う志乃。その声にはどこか寂しさが滲んでいた。
「なんですって? せっかくお手伝いしてあげようと思ったのにっ」
さとみが少しむっとして声を上げる。だがその言葉に、志乃の胸はさらに苦しくなった。
「さとみ、だから食いつき過ぎ……」
千隼が再び、やんわりとたしなめたが、志乃の顔には一瞬、隠しきれない切なさが浮かんだ。
志乃が帰る時、千隼に何か言いたそうに一瞬だけ目を向けたが、すぐにいつもの軽い表情に戻って手を振ると、店を後にした。
その後、千隼とさとみだけが残る。だが、さとみの表情は、また元に戻ってしまった。宙をさ迷う虚ろな目、そしてどこか遠くに意識が行っているような空気が漂い、千隼はどう声をかけていいか分からなくなってしまう。
二人の会話は自然と少なくなった。さとみの沈黙が重くのしかかり、その場の空気がどこか気まずい。二人の間にぽつりぽつりと言葉は交わされたが、それはどこかしら空虚なものだった。
最後に、さとみが握ったおにぎりとみそ汁が静かに並べられる。二人は黙々と食べた。けれど、さとみの表情は硬いままだった。
千隼が店を出る時、さとみはうつむいたまま、小さな声でつぶやいた。
「私、だめなやつなんです」
その言葉が、千隼の心に重くのしかかった。虚ろな目のさとみを前に、千隼はしばし考えた。唐突な一言。さとみはこの言葉にどんな返答を期待しているのだろうか? それとも、これは彼女の心の底から漏れた独り言なのだろうか。
やがて、千隼は静かに言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「それでも、さとみはさとみだから」
さとみは驚いて千隼を見上げた。千隼は優しく微笑んでいた。
「だから、それでいいと思うよ」
千隼のその言葉に、さとみは何も言わずにまたうつむいたが、その肩がほんの少しだけ緩んだのを、千隼は感じ取った。千隼は静かに店を出る。
▼用語
※ へしこ:
塩漬けにしたサバなどの青魚を、ぬか漬けにして一年以上漬け込んだ発酵食品。福井、石川、京都などの伝統食。軽く火であぶって食べるのが一般的だが、新鮮なものは生食もできる。うまみが強く味わい深く塩味が強い。
【次回】
第14話 すべての元凶
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