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プロローグ1.ミラ
最後の笑顔
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矢木澤 紫苑 シリルは現時点で世界初にして唯一の基本的人権(※1)保有アンドロイドである。この機体について、人類もアンドロイドも強い関心を抱いていることは疑いようのない事実であろう。これはアンドロイド業界のみならず法曹界や政界もまた同様と言える。
特に我々にとっての最重要課題である今後の治安への影響について、アンドロイドが新たな懸念材料とならないように強く注視していく必要がある。
その基礎的な資料として、当該機体の製造された成り立ちを含め、その「人」となりを事細かに資料化していく事は矢木澤 紫苑 シリルを、そして人権を求めるアンドロイドを理解するのに必要不可欠であり、ひいては今後増加する可能性のある人権保有アンドロイドの抑制や統馭の一助になろう。
以下はその基礎的資料として収集された「素体C」、機体登録呼称矢木澤シリルのモデルとなった人物である矢木澤ミラについて、その遺伝上の父である旧軍備再編検討委員会顧問にして電機電子福祉局の矢木澤弦造局長に対し、機密保持を確約させ密かに聴取したものである。
◇ ◇ ◇
その日は、ミラのピアノの発表会だった。
穏やかな明かりがピアノのあるリビングを照らしていた。そこで最後の練習にいそしむ十五歳の一人娘の後姿を眺めながら私は不思議な気分だった。
「冷血漢」「氷点下の男」「液体窒素の血液」「氷れる蛇」
全ての人間から漏れなく人の心を持たぬと揶揄された自分が、こうして人間らしい心情を抱くとは自分自身でも思いもよらなかった。結婚ですらただの打算でしかなかったのに。間違いなく私はいま幸福だった。
ひと通り弾き終わったようで、手を止めたミラはこちらを振り返る。
「どう? お父さん?」
「ああ、上手くなった。聴く度に少しずつ進歩していたぞ。そして今日は完璧だ」
「ふふっ、良かった」
「それでこれは何て曲なんだ?」
ミラは一瞬きょとんとした顔になると突然笑って私の腕を何度も叩く。
「もう! 何度も言ったじゃない! 夜想曲! ショパンの夜想曲第十九番、作品番号72-1! もう。本当はあんまり興味ないのよねお父さん?」
「いやいや、違う。違うんだ、そんなことはない。最近忘れっぽくて…… 年を取ったからかな。すまん。
いや、しかしそのう……少し暗い曲のような気もしてな。もっと明るい曲に出来なかったのかい? ミラに相応しい感じの」
「まあ、お上手ですね、お父さん。ふふっ。でもこの曲は暗いけれど、とてもきれいで好きなの」
「そうか? なんだかまるで昏い何かに飲み込まれてしまうような曲で――」
「そう! そうなの! そこがとっても不思議な感じで好きなの。お父さんも好きな曲を弾いたらいいって言ってくれましたよね?」
「う、うむ……」
「ふふっ、ありがと。でもこの曲に同じ感想を抱いてくれていたなんて嬉しい。お父さん大好き」
「ああ、お父さんもミラが大好きだよ」
腕にしがみ付かれると、子供と言う存在への愛おしさがこみ上げてくる。このまま何不自由のない生活をさせてやりたい、愛情で満たされた人生を送らせてやりたい。幸せな家庭を作る後押しをしてやりたい。この笑顔を絶やさぬようにしてやりたい。そのためにならどんな労苦も厭わない。この時の私の目の光の温度は間違いなく氷点下ではなかった。
「さ、もう一回くらい練習できるかな」
するとハルがピアノのあるリビングにやってきた。
「車の調子が悪いの」
「どうした?」
「自動運行装置が――」
「またか! もうornis(※2)社の車は買わんぞ全くっ!」
春の陽気だった私の心臓はたちまち真冬になった。
今からタクシーを呼んでも、時間に間に合うかどうかは怪しい。ならば手動で運転するしかあるまい。
「判った。俺が運転しよ――」
胸ポケットの総合携帯端末が鳴動する。つい舌打ちが出てしまう。八年以上も取得しなかった休暇を取ったというのに。こんな事なら電源を切って、ついでに家の電話の電話線までも抜いておけばよかった。
端末を取ってキッチンに向かう。完全に氷の目で氷った声で指示を出す。
その間ミラがもう一回同じ曲を弾いていた。きれいな曲、というのは間違いないが、とても不穏な何かを予感させる曲に、私は思わず眉根を寄せたのを覚えている。
どうやら出発の時間が来たようで、ハルがとミラが顔をのぞかせる。笑顔で身振り手振りで何かを伝えようとしてくる。どうやらハルが手動運転していくようだ。
私は頷いて通話口を指で塞ぎ
「後から行く」
とだけ伝えるとまた仕事の話に戻った。
二人がキッチンから引っ込んだ後、またひょい、とミラがキッチンに顔を出し笑顔でひらひらと私に手を振る。私もそれに応えて笑顔で手をひらひらと振る。そのままミラはぱたぱたと足音を立てて出て行った。
これが血の通ったミラの姿を見た最後だった。
そして私が笑顔を見せた最後にもなった。
この瞬間降雨予定表にないイレギュラーの激しい雨が突然降り出した。一張羅を濡らさないよう、きゃあきゃあとはしゃぐようにしながらミラとハルが車に乗るのが見えた。電話をしながらそれを眺めていた私はわけもなく嫌な感覚が湧き出していた。
その後のことはもう思い出したくない。いや、もう忘れた。
冷たい病院の壁や廊下。力ないCLEDの明かり。一向に進まない時計。
いや、むしろこのまま時間が進まなければいい。そうすれば医師から絶望的な宣告を聞かずに済むだろうから。
そうだ、私にはもう分っていた。いくら医師が処置をしたとておそらく、もう、娘は。
私は許さない。あの女を。絶対に。
◆六月八日十八時四十五分のニュース
―― 本日八時四十二分、第二十二幹線道路で死亡事故が発生しました。
犠牲者を助手席に乗せた乗用車は丁字路を手動運転で走行中、一時停止を怠り幹線道路に進入しようと右折。左から来たやはり手動の右折車が先入していましたが、それに気付かず右折を続けたとみられます。横転した直進車の左前部は衝撃で大破し、助手席に乗っていた中学生はレスキュー隊に救助されましたが七時間後に死亡が確認されました。運転手も全治二週間の重傷です。
双方の運転手は不慣れな手動運転で、当時イレギュラーの強雨で視界が悪かったことも事故原因のひとつだったようです。
この事故の検分により二二幹道は三時間にわたり車線規制が引かれ、その後二時間以上ノロノロ運転が続きました。
ただイレギュラー降雨という要因があったとは言え、やはり最大の事故原因は運転手の不注意によるものです。皆さんも手動運転には十分ご注意ください。またそれだけではなく、天候操作機能の低下については喫緊の課題と行政には認識していただきたいですね。――
◇ ◇ ◇
かようにして不慮の事故で早逝した一人娘矢木澤ミラの忘れ形見兼、ミラの母ハルの心疾患治療用アンドロイド兼、矢木澤弦造氏ら当時の軍備再編検討委員会の試験運用機として製造された。それが矢木澤シリル、素体Cである。
今後は、当該アンドロイドの同性パートナーである島谷伊緒医師からの聴取が必須である。しかし、政府への強い不信感が認められ、人権委員会での聴取についても対決姿勢を崩さず、他組織の要請に対しても非常に消極的、もしくはあからさまに非協力的である。
今後各方面での圧力も検討すべきかも知れない。
報告者
統合安全保障局 実動保安隊 第五大隊 調査官 主第三尉 S.M.
▼用語
※1 基本的人権:
人間が人間として当然に保有している権利。思想・信教の自由。参政権。生存権。この世界においても永久に絶対不可侵の権利である。
※2 ornis社:
域内車輛大手生産メーカーのひとつ。ほとんどの車種を生産している。ギリシャ語で「鳥」を意味する。その名の通り旧世界の原始的な鳥がエンブレムになっている。英語に直すと"omen”
特に我々にとっての最重要課題である今後の治安への影響について、アンドロイドが新たな懸念材料とならないように強く注視していく必要がある。
その基礎的な資料として、当該機体の製造された成り立ちを含め、その「人」となりを事細かに資料化していく事は矢木澤 紫苑 シリルを、そして人権を求めるアンドロイドを理解するのに必要不可欠であり、ひいては今後増加する可能性のある人権保有アンドロイドの抑制や統馭の一助になろう。
以下はその基礎的資料として収集された「素体C」、機体登録呼称矢木澤シリルのモデルとなった人物である矢木澤ミラについて、その遺伝上の父である旧軍備再編検討委員会顧問にして電機電子福祉局の矢木澤弦造局長に対し、機密保持を確約させ密かに聴取したものである。
◇ ◇ ◇
その日は、ミラのピアノの発表会だった。
穏やかな明かりがピアノのあるリビングを照らしていた。そこで最後の練習にいそしむ十五歳の一人娘の後姿を眺めながら私は不思議な気分だった。
「冷血漢」「氷点下の男」「液体窒素の血液」「氷れる蛇」
全ての人間から漏れなく人の心を持たぬと揶揄された自分が、こうして人間らしい心情を抱くとは自分自身でも思いもよらなかった。結婚ですらただの打算でしかなかったのに。間違いなく私はいま幸福だった。
ひと通り弾き終わったようで、手を止めたミラはこちらを振り返る。
「どう? お父さん?」
「ああ、上手くなった。聴く度に少しずつ進歩していたぞ。そして今日は完璧だ」
「ふふっ、良かった」
「それでこれは何て曲なんだ?」
ミラは一瞬きょとんとした顔になると突然笑って私の腕を何度も叩く。
「もう! 何度も言ったじゃない! 夜想曲! ショパンの夜想曲第十九番、作品番号72-1! もう。本当はあんまり興味ないのよねお父さん?」
「いやいや、違う。違うんだ、そんなことはない。最近忘れっぽくて…… 年を取ったからかな。すまん。
いや、しかしそのう……少し暗い曲のような気もしてな。もっと明るい曲に出来なかったのかい? ミラに相応しい感じの」
「まあ、お上手ですね、お父さん。ふふっ。でもこの曲は暗いけれど、とてもきれいで好きなの」
「そうか? なんだかまるで昏い何かに飲み込まれてしまうような曲で――」
「そう! そうなの! そこがとっても不思議な感じで好きなの。お父さんも好きな曲を弾いたらいいって言ってくれましたよね?」
「う、うむ……」
「ふふっ、ありがと。でもこの曲に同じ感想を抱いてくれていたなんて嬉しい。お父さん大好き」
「ああ、お父さんもミラが大好きだよ」
腕にしがみ付かれると、子供と言う存在への愛おしさがこみ上げてくる。このまま何不自由のない生活をさせてやりたい、愛情で満たされた人生を送らせてやりたい。幸せな家庭を作る後押しをしてやりたい。この笑顔を絶やさぬようにしてやりたい。そのためにならどんな労苦も厭わない。この時の私の目の光の温度は間違いなく氷点下ではなかった。
「さ、もう一回くらい練習できるかな」
するとハルがピアノのあるリビングにやってきた。
「車の調子が悪いの」
「どうした?」
「自動運行装置が――」
「またか! もうornis(※2)社の車は買わんぞ全くっ!」
春の陽気だった私の心臓はたちまち真冬になった。
今からタクシーを呼んでも、時間に間に合うかどうかは怪しい。ならば手動で運転するしかあるまい。
「判った。俺が運転しよ――」
胸ポケットの総合携帯端末が鳴動する。つい舌打ちが出てしまう。八年以上も取得しなかった休暇を取ったというのに。こんな事なら電源を切って、ついでに家の電話の電話線までも抜いておけばよかった。
端末を取ってキッチンに向かう。完全に氷の目で氷った声で指示を出す。
その間ミラがもう一回同じ曲を弾いていた。きれいな曲、というのは間違いないが、とても不穏な何かを予感させる曲に、私は思わず眉根を寄せたのを覚えている。
どうやら出発の時間が来たようで、ハルがとミラが顔をのぞかせる。笑顔で身振り手振りで何かを伝えようとしてくる。どうやらハルが手動運転していくようだ。
私は頷いて通話口を指で塞ぎ
「後から行く」
とだけ伝えるとまた仕事の話に戻った。
二人がキッチンから引っ込んだ後、またひょい、とミラがキッチンに顔を出し笑顔でひらひらと私に手を振る。私もそれに応えて笑顔で手をひらひらと振る。そのままミラはぱたぱたと足音を立てて出て行った。
これが血の通ったミラの姿を見た最後だった。
そして私が笑顔を見せた最後にもなった。
この瞬間降雨予定表にないイレギュラーの激しい雨が突然降り出した。一張羅を濡らさないよう、きゃあきゃあとはしゃぐようにしながらミラとハルが車に乗るのが見えた。電話をしながらそれを眺めていた私はわけもなく嫌な感覚が湧き出していた。
その後のことはもう思い出したくない。いや、もう忘れた。
冷たい病院の壁や廊下。力ないCLEDの明かり。一向に進まない時計。
いや、むしろこのまま時間が進まなければいい。そうすれば医師から絶望的な宣告を聞かずに済むだろうから。
そうだ、私にはもう分っていた。いくら医師が処置をしたとておそらく、もう、娘は。
私は許さない。あの女を。絶対に。
◆六月八日十八時四十五分のニュース
―― 本日八時四十二分、第二十二幹線道路で死亡事故が発生しました。
犠牲者を助手席に乗せた乗用車は丁字路を手動運転で走行中、一時停止を怠り幹線道路に進入しようと右折。左から来たやはり手動の右折車が先入していましたが、それに気付かず右折を続けたとみられます。横転した直進車の左前部は衝撃で大破し、助手席に乗っていた中学生はレスキュー隊に救助されましたが七時間後に死亡が確認されました。運転手も全治二週間の重傷です。
双方の運転手は不慣れな手動運転で、当時イレギュラーの強雨で視界が悪かったことも事故原因のひとつだったようです。
この事故の検分により二二幹道は三時間にわたり車線規制が引かれ、その後二時間以上ノロノロ運転が続きました。
ただイレギュラー降雨という要因があったとは言え、やはり最大の事故原因は運転手の不注意によるものです。皆さんも手動運転には十分ご注意ください。またそれだけではなく、天候操作機能の低下については喫緊の課題と行政には認識していただきたいですね。――
◇ ◇ ◇
かようにして不慮の事故で早逝した一人娘矢木澤ミラの忘れ形見兼、ミラの母ハルの心疾患治療用アンドロイド兼、矢木澤弦造氏ら当時の軍備再編検討委員会の試験運用機として製造された。それが矢木澤シリル、素体Cである。
今後は、当該アンドロイドの同性パートナーである島谷伊緒医師からの聴取が必須である。しかし、政府への強い不信感が認められ、人権委員会での聴取についても対決姿勢を崩さず、他組織の要請に対しても非常に消極的、もしくはあからさまに非協力的である。
今後各方面での圧力も検討すべきかも知れない。
報告者
統合安全保障局 実動保安隊 第五大隊 調査官 主第三尉 S.M.
▼用語
※1 基本的人権:
人間が人間として当然に保有している権利。思想・信教の自由。参政権。生存権。この世界においても永久に絶対不可侵の権利である。
※2 ornis社:
域内車輛大手生産メーカーのひとつ。ほとんどの車種を生産している。ギリシャ語で「鳥」を意味する。その名の通り旧世界の原始的な鳥がエンブレムになっている。英語に直すと"omen”
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