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パッヘルベルのカノン
第12話 二人の音楽会
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校則を大幅に違反する丈にまで折ったスカートを履いたシリルは、思惑通り伊緒の目を自分の太ももに釘付けにさせることに成功した。シリルのスカートにすっかりどぎまぎさせられ心拍数も大いに上昇していた伊緒は、シリルの告白への返答を聞くや一転、おかしな声をあげて歓喜雀躍した(実際、本当に即興のダンスを踊っているかのようにシリルには見えた)。これで晴れて2人は恋人同士になった。人間とアンドロイド間で世界初のカップルである。しかしそれを知るものは世界中でもまだ誰もいない。
伊緒はシリルに一目惚れだったのか、だとすればどこに一目惚れしたのか、シリルにとっては強く興味をひかれる事だった。だが、このシリルの返答の場ではその回答は得られなかった。伊緒の恥ずかしがりようと動揺が尋常ではなかったからである。シリルがそのことについて伊緒から聞かされるのは、まだ当分先のことになる。
伊緒とシリルと言う若く、また世界でただ一組という極めて特殊なカップルにとっては重要な問題があった。2人の会える時間と場所には大きな制約があるということだ。校内の休み時間や昼休みか下校時か、たまに下校時にシリルの自宅へ行くか。その程度しかない。
だから2人はその限られた時間を大切にした。
学校が終わると2人は一緒に下校しシリルの家で過ごすようになっていった。シリルの、いや正確には矢木澤ミラの母、そして亡くなったミラ自身も旧世界のクラシック音楽が趣味で、シリルのW内のミラの感情プログラムやシリル自身のスキルスロット(※1)にもピアノとフルートとバイオリンとチェロとクラリネットと声楽のスキルがセットされている。学校から下校してシリルの家に着くと、シリルは伊緒にクラシック音楽を色々と聞かせてくれた。
実のところ伊緒の音楽の好みとしては、ルイス&ニックのテーマソングである"Rusty path(※2)"を歌っているバンド、"Agate crown(※3)”の様な少し激しい今風の曲が好きで、シリル、今は亡きミラ、その母のハルが好んでいる旧世界クラシックについては全くと言っていいほど興味がなかった。更に困ったことにひどい音痴な事もあって音楽表現全般に対して少し苦手意識もある。なので正直シリルの演奏に感ずる面もあまり多くはなく、ちょっとあくびが出そうになった時も実はあった。それでもシリルのすぐ傍に立って、或いはリビングのソファに座って、演奏をするシリルを眺めていると、それだけで心が洗われる気がした。伊緒と付き合うようになってからというもの、急速に感受性を高めつつあったシリルは時折夢中になって音楽を奏でる時があった。シリルはほとんど人間と変わらぬ満面の笑みで、音楽の楽しさがようやく分かったような気がする、と伊緒に感謝の言葉を口にした。そうやってシリルの演奏を聞くうちに伊緒は、旧世界クラシックもいいものかも知れないな、と次第にそう思うようになっていった。
そんなたった1人の聴衆の為だけに開かれている演奏会で、シリルはショパンの夜想曲第19番(※4)を弾いていた。宵闇に覆われた中、ほの明かりが差し込むかのように希望が見えるかと思いきや、再び夜の闇が静かに、そして美しく世を支配していく。伊緒にはそんな曲に聞こえた。伊緒もシリルもなぜかこの曲が好きだった。
その演奏会のさなか、シリルと矢木澤ミラの母、ハルが二人しかいない広くて豪奢なリビングに入って来た。ソファにいささか行儀悪く座ってシリルの美しい後ろ姿と曲を愛でていた伊緒は、慌てて投げ出した足と姿勢を正して起立し、母の機嫌を損ねないようにこやかにかつ礼儀正しく挨拶する。シリルの家族に嫌われてしまったら、人間同士の恋人や友達の場合よりも、二人が会える機会に大きな制約が生まれるおそれが高かったからだ。
母は伊緒に優しい笑顔を向け挨拶に応える。伊緒はちゃんと点数を稼げているようで胸をなで下ろす。
シリルの演奏が終わると、ハルはシリルが自身の演奏を聞かせているばかりだったことに言及した。
「シリルさん、聴かせるばかりじゃ島谷さんも退屈してしまうでしょう。連弾なんてどう?」
▼用語
※1 スキルスロット:
アンドロイドの機種により数は異なるが、複数のスキルスロットが実装されている。ここに各種の技能(スキル)をこなせるスキルチップを直接脳機能に挿す、またはインストールしたりする。これにより個性豊かな個体を実現することが可能となる。シリルには8つのスキルスロットが実装されている。
※2 Rusty path:
大人気刑事ドラマ「ルイス&ニック」のテーマソング。直訳すると「錆びた道」。ここでいう道とは「あるべき道」「生き方」「行く手」と言ったニュアンスも含む。
ほろ苦い結末を迎えることの多い本編にマッチした、パワフルな中にもどこか切なさを残す良曲。第23回アルギエバ賞受賞。
※3 Agate crown:
意味は「瑪瑙の王冠」。力強いサウンドと抒情的なヴォーカルで人気のロックバンド。万単位のライブを開催できる稀有な存在。
※4 ショパンの夜想曲第19番:
作品72-1 フレデリック・ショパンが17歳の旧世界西暦1827年に作曲した。ショパンが初めて作曲した夜想曲。ショパンの夜想曲としてはあまり注目されていない。暗鬱で救いの乏しい曲調が聴く人を吸い込んでいく。
伊緒はシリルに一目惚れだったのか、だとすればどこに一目惚れしたのか、シリルにとっては強く興味をひかれる事だった。だが、このシリルの返答の場ではその回答は得られなかった。伊緒の恥ずかしがりようと動揺が尋常ではなかったからである。シリルがそのことについて伊緒から聞かされるのは、まだ当分先のことになる。
伊緒とシリルと言う若く、また世界でただ一組という極めて特殊なカップルにとっては重要な問題があった。2人の会える時間と場所には大きな制約があるということだ。校内の休み時間や昼休みか下校時か、たまに下校時にシリルの自宅へ行くか。その程度しかない。
だから2人はその限られた時間を大切にした。
学校が終わると2人は一緒に下校しシリルの家で過ごすようになっていった。シリルの、いや正確には矢木澤ミラの母、そして亡くなったミラ自身も旧世界のクラシック音楽が趣味で、シリルのW内のミラの感情プログラムやシリル自身のスキルスロット(※1)にもピアノとフルートとバイオリンとチェロとクラリネットと声楽のスキルがセットされている。学校から下校してシリルの家に着くと、シリルは伊緒にクラシック音楽を色々と聞かせてくれた。
実のところ伊緒の音楽の好みとしては、ルイス&ニックのテーマソングである"Rusty path(※2)"を歌っているバンド、"Agate crown(※3)”の様な少し激しい今風の曲が好きで、シリル、今は亡きミラ、その母のハルが好んでいる旧世界クラシックについては全くと言っていいほど興味がなかった。更に困ったことにひどい音痴な事もあって音楽表現全般に対して少し苦手意識もある。なので正直シリルの演奏に感ずる面もあまり多くはなく、ちょっとあくびが出そうになった時も実はあった。それでもシリルのすぐ傍に立って、或いはリビングのソファに座って、演奏をするシリルを眺めていると、それだけで心が洗われる気がした。伊緒と付き合うようになってからというもの、急速に感受性を高めつつあったシリルは時折夢中になって音楽を奏でる時があった。シリルはほとんど人間と変わらぬ満面の笑みで、音楽の楽しさがようやく分かったような気がする、と伊緒に感謝の言葉を口にした。そうやってシリルの演奏を聞くうちに伊緒は、旧世界クラシックもいいものかも知れないな、と次第にそう思うようになっていった。
そんなたった1人の聴衆の為だけに開かれている演奏会で、シリルはショパンの夜想曲第19番(※4)を弾いていた。宵闇に覆われた中、ほの明かりが差し込むかのように希望が見えるかと思いきや、再び夜の闇が静かに、そして美しく世を支配していく。伊緒にはそんな曲に聞こえた。伊緒もシリルもなぜかこの曲が好きだった。
その演奏会のさなか、シリルと矢木澤ミラの母、ハルが二人しかいない広くて豪奢なリビングに入って来た。ソファにいささか行儀悪く座ってシリルの美しい後ろ姿と曲を愛でていた伊緒は、慌てて投げ出した足と姿勢を正して起立し、母の機嫌を損ねないようにこやかにかつ礼儀正しく挨拶する。シリルの家族に嫌われてしまったら、人間同士の恋人や友達の場合よりも、二人が会える機会に大きな制約が生まれるおそれが高かったからだ。
母は伊緒に優しい笑顔を向け挨拶に応える。伊緒はちゃんと点数を稼げているようで胸をなで下ろす。
シリルの演奏が終わると、ハルはシリルが自身の演奏を聞かせているばかりだったことに言及した。
「シリルさん、聴かせるばかりじゃ島谷さんも退屈してしまうでしょう。連弾なんてどう?」
▼用語
※1 スキルスロット:
アンドロイドの機種により数は異なるが、複数のスキルスロットが実装されている。ここに各種の技能(スキル)をこなせるスキルチップを直接脳機能に挿す、またはインストールしたりする。これにより個性豊かな個体を実現することが可能となる。シリルには8つのスキルスロットが実装されている。
※2 Rusty path:
大人気刑事ドラマ「ルイス&ニック」のテーマソング。直訳すると「錆びた道」。ここでいう道とは「あるべき道」「生き方」「行く手」と言ったニュアンスも含む。
ほろ苦い結末を迎えることの多い本編にマッチした、パワフルな中にもどこか切なさを残す良曲。第23回アルギエバ賞受賞。
※3 Agate crown:
意味は「瑪瑙の王冠」。力強いサウンドと抒情的なヴォーカルで人気のロックバンド。万単位のライブを開催できる稀有な存在。
※4 ショパンの夜想曲第19番:
作品72-1 フレデリック・ショパンが17歳の旧世界西暦1827年に作曲した。ショパンが初めて作曲した夜想曲。ショパンの夜想曲としてはあまり注目されていない。暗鬱で救いの乏しい曲調が聴く人を吸い込んでいく。
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