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シリルの初恋

第8話 温もり

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 翌日から伊緒いおは大手を振ってシリルと下校できるようになった。学校内でもその噂で持ち切りとなる。
 伊緒は彩希と由花も下校に誘おうとするが、2人とも何かと理由をつけては断り続けた。
 逆にたまに2人から誘われて伊緒1人だけ遊びに行っても、伊緒の頭にシリルの顔や声がちらついてどうしても気が乗らない。伊緒は彩希や由花との3人だけではもう今まで通りに楽しめなくなっていた。いっそ4人で遊べればいいのに、と思ったが、寄り道を許されていないシリルを呼ぶこともなかなか難しい。そこで、彩希と由花にシリルを連れてきてもいいか提案してみたことがある。その結果に伊緒はひどく困惑した。彩希は見た事もない困り顔になるし、由花に至っては半泣きで怒り出す始末だった。3人でお昼を一緒にすることはこれまでも多かったが、これを機に2人とお昼をとることも少しずつ減っていった。結果、伊緒はお昼休みを1人で過ごすことが徐々に増えていった。伊緒は一番の友人だった2人との距離が次第に離れはじめた事に気付いた。

 2人の親友と疎遠になった今でも、伊緒としては胸のときめく毎日が続いていた。とは言えこのままの片想いを続けているのは辛い。もっとシリルに近づきたい気持ちはもちろん強かった。
 そんな5月も近いある日の下校中、伊緒は前から気になっていることをシリルに聞いてみた。

「お昼は何してるの? いない時も多いし。いるときはずっと椅子に座ってじっと動かないもんね。電力の節約?」

「教室で座っているときはそうね。必要のない活動を抑制しています。もっとも、バッテリーにはそれなりの余裕があるのよ。それ以外の時は図書館にいるの。様々な書物のデータを収集しています。感情プログラムにも有益ですので」

「本は好き?」

「うーん、そうですね、好きかと言われれば好き、な方と言っても良いわね」

 シリルは下校時なら伊緒と感情プログラムを使用した会話を少しはするようになっていた。それでも時折固くて妙な言葉遣いをする癖が抜けない。

「お弁当や学食でご飯食べたりしないの? 食べられるのに」

 シリルは少しあからさまで小さなため息をつくと答える。

「いいえ食べません。以前にお話ししましたよね。形の上では食べられますが単に口で咀嚼そしゃく嚥下えんげしパックに貯留するだけ。しかもそのパックはそのまま捨ててしまうのです。あらゆる面で無駄でしかないんだもの」

 伊緒もあからさまに残念で寂しそうな顔になる。

「そっか、そうだったよね。残念。あたし最近一人が多くなっちゃってさ。矢木澤さんとだったら楽しいかなって思ったんだ。ごめん変なこと聞いて」

「いいえ。島谷さんはお昼ごはんを一緒に食べたいの? 私と」

「そう、そうなんだ。でも食べられないんじゃ仕方ないよね」

 伊緒は叱られた子供のように、あからさまにしゅんとして下を向く。

「食べなくていいなら、例えば一緒にいるだけだったら可能ですよ」

 シリルは困った子供を慰めるような初めて見せる笑みを浮かべていた。

「え、ほんとに!」

 ぱっ、と子供のように顔を輝かせてシリルの方を向く伊緒。

「ですから大声はやめてって…… でもなぜ?」

 お昼休みを一緒に過ごすことの意義が分からないシリルはしかめっ面のまま素直に疑問をぶつけた。

「一緒にお昼すると楽しいよ」

 伊緒からシリルには上手く解析できない返事が返って来た。

「楽しい?」

 伊緒の答えを聞いてシリルは不思議そうな顔をする。

「うん、まぁ1人の方がいいって人も勿論いるし、実はあたしも最近までは1人だって全然何とも思わなかったんだけどね。矢木澤さんはお昼一人で座ってるだけで楽しい?」

 伊緒も不思議そうな顔でシリルを見つめる。

「楽しい?」

 シリルはまた同じ言葉を発し小首をかしげる。

「うん」

 シリルは感情プログラムの行動パターンにあわせ視線を少し上方に傾けてしばし考えた末答える

「いいえ、楽しいという感情には該当しません」

「じゃあ、一緒にお昼しようよ。楽しいかも。ま、まあ、楽しくないんだったら無理強いしないけどさ…… どう? おいでよ」

 伊緒は何気なく、本当に何気なくシリルの手を取った。アンドロイドは本来、その手を避ける動作をするようにプログラミングされている(※1)のだが、その手は動かず伊緒に握られるままであった。伊緒の手の温度を検知した瞬間、伊緒の手を避ける動作が停止してしまったのだ。それに合わせてゆっくりと歩みも止まる。不思議そうな顔をして伊緒もまた立ち止まる。

 温かい。

 その手の温度は36.2℃、何も特別な温度ではなく表面の形状にも特に異常なものはない。検知できる拍動も正常だ。だがその手の温かさと柔らかさにシリルの脳機能の中の何かが反応した。まるで春の陽だまりのような温かさだった。
 そして柔らかい。

「柔らかい」

 これまで見た事のない不思議な表情でシリルが呟く。

「へっ?」

 予想していない言葉に伊緒は意表を突かれ、いつものように素っ頓狂な声が出た。

「人間の手の表面は、温かくて柔らかいのね」

 伊緒の方を向いてその眼を正面から見つめ、何かとてつもない大発見をしたようなかつ何かに照れたような表情を見せるシリル。

「うん! 温かい。柔らかい。これが人の温もり」

 伊緒はなぜかうれしくなって笑顔になる。もう少し強く握る。何だかとっても大切なものをシリルに知ってもらえた気がした。
「……温もり ……人の」

 自分たちの重なる手を見つめるシリルの表情に微かな笑みが浮かんでいた事に伊緒もシリル本人も気づいていなかった。無論プログラム上ここで笑顔は生まれないのが仕様だ。
 暗闇に閉ざされ何もないシリルの内世界に一筋の光明が差す。シリルの脳機能の中で目には見えない何かが、何か大きな変化が起き始めていた。

◇◇◇◇◇◇

「さ、お昼お昼ー。 矢木澤さんも一緒に来る?」

 翌日の昼休み。シリルの左前方の席に座っていた伊緒がどたばたとシリルの席までやってきた。教室内全体にに奇妙な雰囲気が充満し、生徒全員の好奇心と興味が一人と一機に集中する。伊緒はそれを無視して昨日と変わらずシリルの手を握る。今日もシリルは手を振り解こうとはしない。強制的に働くはずの手を振り解くプログラム(※1)をシリルの中の何かが無視した。本来なら全くあり得ない反応である。シリルにはこの伊緒の手の温もりと優しい柔らかさが心地よかった。この人間との物理的接触を心地よいと思う気持ちは出荷時にセットされた感情でも、ユーザーのオーダーによりチューニングされた感情でもない、本来なら生まれ得る感情ではない。生まれてはいけない忌避的感情である。この心地よさはどこから生まれたのか。そしてなぜ自分はこうした場合に動くと言われる強制停止機能(※1)が働かないのか。今のシリルはそれを解析するよりもこの伊緒の手がもたらす歓びに浸っていたかった。校内で被っているシリルの無感情で冷たい仮面もつい剥がれ、その声も少し穏やかなものになっていた。

「ええ。行きましょ」

「ありがと! 嬉しいなあ」

 教室内の全生徒が向ける驚愕の視線をものともせずシリルは伊緒に手を引かれるようにして美術室に向かう。手を引かれるのが嬉しい。やや俯き加減で手を引かれるシリルは少し赤面していた。一方で伊緒とシリルがいなくなった教室では蜂の巣をつついたような騒動となっていた。

 校庭の第二美術室前は日当たりが良い。のっぽで緑色をした野球部のネットから近いが、球拾いの部員すらそうそう来ないので雑草が伸び放題。そういったわけで日当たりが良くても虫が多くあまり生徒が寄り付かない場所だった。鍵もかかっておらず、昼でも美術部員の来ない第二美術室側から、少し立て付けの悪い古臭い樹脂サッシをガラガラと開ければ、すぐモルタルの緩やかな段々が並ぶ。そばには楠の日陰もある。座って雑談したり食事するのにはうってつけだ。

 この日以来伊緒とシリルはここで他愛のないおしゃべりをしながら伊緒だけが自分で作ったお弁当を食べるようになった。伊緒のお弁当は同じ年の女の子にしては少し大きめかも知れない。シリルはそんな伊緒とお弁当をいつも興味深く見つめていた。
 シリルも一度だけ伊緒のお弁当の玉子焼きを食べてみたことはあるのだが、なぜかそれきりお弁当を食べることはなかった。
 その日から毎日、お昼休みになると伊緒はシリルに色々な話を聞かせた。お弁当を食べたり作ったりすること。好きなお弁当のおかずや学食のメニューの事。どんな友達とお昼休みを過ごすのかがとても大事な生徒がたくさんいる事。伊緒は最近ここや教室で一人でお昼を食べることが多く、それがちょっと寂しかった事。自分の家族や友達についての事。どれもこれもシリルのデーターベースにはない話ばかりで、シリルは昼休みを楽しみにするようになっていった。
 伊緒がシリルと昼休みを一緒に過ごせて夢のようだと言うと、それを大げさに感じたシリルはくすっと笑った。校内でもここならシリルも人目をはばからず普通に感情を表すことができる。
 一方、教室でただ座っていたり図書館で本を読むより、ここで伊緒と話をしていた方がずっといいとシリルが言った時は少し涙ぐみそうなほど伊緒は感激した。


▼用語
※1 「アンドロイドは本来、その手を避ける動作をするようにプログラミングされ
     ている」
   「強制的に働くはずの手を振り解くプログラム」
   「こうした場合に動くと言われる強制停止機能」:
 人間とアンドロイドの身体的接触は忌避的行為とされている。にアンドロイドが利用されることを防ぐためである。忌避的行為を行うアンドロイドは脳機能がバグに汚染されているかもしくは欠陥品や違法改造品であるとみなされ、内蔵されたプログラムによりその場で脳機能を強制的に停止させられる。
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