憲法改正と自殺薬

会川 明

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縛られるべきは誰?-2

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 老人は少し目を閉じてから言った。



「それは処世術としてはそうでしょう。しかし、ここで本質的に問題なのは、敬語を使うとか使わないということではないのです」



 老人は身振りを交えて話した。



「あなたという人が中間にいます。後輩という人が下にいて、先輩という人が上にいます。階級社会ですね。なのに、後輩が自分を通り越して先輩に敬語を使わない。これに苛ついてしまう心情とは何なのでしょう?



 それは自分は規律を守っているのに、後輩は規律を守らないことに対する怒りではないでしょうか」



 それを言われて寛はハッとした。自分でも気付かない自分のことを照らされた気分だった。



「自分は規律を守っているのに下のものが守らないと、とてつもない不満が感じられてしまうのは階級がある故のことだと思われます。それはつまり、秩序が乱されたと感じるからであり、階級を守らなければいけないという意識があるからです。



 対等な個人がそれぞれ在る状態ならば、そんなことは気にもとめないでしょう。



 あなたは社会がうまく回らないのではないかとおっしゃいましたね。ここには個人的視点だけではなく、社会的視点が入り込むのです。



 先輩が後輩に対して直接不満を言うというのであれば、まだわかりやすい個人的軋轢ですが、中間にいる人が自分自身が無礼な口をきかれたわけでもないのに腹が立つのです。これは個人というよりもその集団の一員として、秩序を守ろうとする意識が無意識にでも働いているということでしょう。



 無意識ということは客観視とも違うものでしょう。しかし、社会的視点自体は悪いものではありません。これは恐らく人間が社会的動物であるがゆえに持っている能力です。その社会を存続させようという能力が個を超えてあるということなのかもしれません。



 問題なのは、その視点がみんなの『幸福』に資するものなのか?というところでしょう。



 しかし、残念ながら、ここにあっては秩序を守ること自体が重要視されています。秩序こそが日本の社会正義です」



 規律を守ろう、秩序のために。では、秩序を守るのは一体何のためで、誰のためなのか。



 寛は小学校に入りたての頃、繰り返し練習させられた整列を思い出した。前にならえ、なおれ、右向け右、意味もわからず繰り返し繰り返し練習させられた。少しでも列が乱れれば、教師は理不尽な怒りを子どもたちにぶつけた。



 まさに理不尽だった。当然だ。そこでは理など求めてはならぬということを教えていたし、世の中には意味はなくとも上のものには従わなければならないということを教えていたのだ。それは自らの幸福や自由意志よりも優先するものがあると教えていたのだ。それが階級社会というものだ。秩序というものだ、ということだろう。



「この社会は何のためにその規律や秩序を守るのかという本来最も重要な問いが決定的に欠けた社会です。



 規律を破り、秩序を壊そうとするものに対して取られる処置は取り込むか、排撃するかの二択です」



 寛は少なからずショックだった。ツキミとの会話でそういった階級めいたものにはなるべく意識的であろうとしていたはずなのに、いつの間にか取り込まれていたことに気付かされたからだ。



 部活にも入っていないので、特に親しい後輩がいるわけでもないが、もしも先輩に無礼な口をきいている後輩を見かけたら少し違和感のようなものを感じてしまうかも知れない。



 その違和感は突き詰めていけば、階級社会の秩序を乱すものであると無意識に認識しているということではないか。



 自由なようで知らず知らずに取り込まれているのかもしれない。反論が不気味にも自動的に浮かび上がって来たことを思い返し、寛は薄ら寒い心地がした。



「階級社会というのは強固です。なぜなら、社会正義が秩序であり、一人ひとりが規律を守ることが重要視される故に自己強化を続けますし、負の連鎖が続きます。



 先程の先輩後輩の例で言えば、先輩からの命令を聞く度に段々と慣れていき、理不尽な要求も飲むようになります。また、後輩間で命令を守っているかの相互監視すら始めます。それは秩序の強化を意味します。



 さらに後輩たちはその強化された秩序でもって、自分たちより下のものに当たります。その下のもの達はさらに下のものに当たるでしょう」



 寛は野球部のクラスメイトを思い出した。一年のときは上級生を殴りたいほど憎んでいたが、いざ自分が上級生になると喜々として下級生をいじめているのである。なんでそんなことするのかと聞いたら、少し考えて、『だって、俺達もされてきたんだから、やんなきゃ損じゃん』と言っていた。



 また、先輩からの理不尽な仕打ちに耐えかねて辞めていった同級生を平然と負け犬扱いするのである。確かに内部的結束は強まっているのかもしれない。しかし、同時に排外的でもあった。



「階級社会においては秩序こそが社会正義である。



 このことは非常に重大な問題をはらんでいますが、一旦置いておきましょう。



 代わりに階級社会との対比として公共というものを考えてみましょう。公共とは何でしょう?」



 寛は聞かれて困った。公共という授業はあるが、その内容は国家のことや納税のこと、家族のことを形式的に触れているだけで改めて公共とはなにかを問われるとよくわからなかった。



「う~ん、何でしょう?公益とは違いますもんねえ」



「そうですね。それは正反対のものでしょう。しかし、日本人にとっては同じようなものとなってしまっている感はありますね。だから、それは非常に鋭い指摘のように思えます」



「そうですか」



「はい。公共とは辞書的に、公のものとして共有することと定義しましょう。ここでの公とは国家ではなく社会です。社会とは人間が集団で生活している共同体だとしましょう。



 例えば原初的な社会を想像してみます。もし男女二人だけならば、公共などいらないかもしれません。ただお互いを見て、お互いの幸せを望めば良いのですから。



 しかし、そこにもう一人、二人と段々と人が増えていったとしましょう。そうすると段々複雑になってきます。あっちを立たせれば、こっちが立たずということも出てくるでしょう。



 そうした時に必要なのが公共という意識です。基本的に人間は幸福を目指すものですから、それに見合った共通基盤、社会正義が育まれていくはずです。まだ法のようなカッチリしたものではないでしょう。それはおそらく自由や平等といった原則的で抽象的なものです。共同体の中の人々はより幸福になるため、公共について議論を重ねます。そうすることでよりその社会に適した形になったり、強固になったりするものです。また、自分たちのものであるという意識が生まれ、大切に尊重するようになるでしょう。いずれにせよ、時代や場所、人々によって幸福は異なるでしょうから常に話し合うことが重要なのです。そうすることによって、自分は社会の一員であるという積極的な公共意識も生まれるのではないでしょうか。



 公共の本質とは『みんなの幸せを願う心』だと言えるでしょう。幸福とは公共の大原則です。そしてそこから自由や平等などの原則も派生していきます。



 これはあくまでも理想的なお話ではありますが、考える上でのヒントになるはずです」



 人々は幸福を基本的に求める。それはそうだろうと寛は思った。今だって金が欲しいとみんな喘いでいるのは幸福になりたいからだ。



「日本の階級社会と比べてみてどうでしょう?」



 寛は考えた。いや、考えるまでもなかった。感じるままに口から吐き出した。



「全然違いますね。自由や平等、公平は『他人に迷惑をかけるな』に読み替えられているのではないでしょうか。これでは大原則であるはずのみんなの幸福がありません。一部の人々にしか幸福と言えるだけの自由や平等は買えないのではないでしょうか」



 老人は頷いた。



「そのとおりだと思います。しかし、実はそれは今に始まったことではありません。改憲のだいぶ前から少しずつ始まっていました」



「そんなに前から始まっていたなら、どうにか出来たのではないですか?」



「わかりません。経済面から見て、ちっぽけな島国に異常なまでの富が集まっていたから豊かな時代があっただけで、ただ実力通りに貧しくなればこんなものだという議論も成り立つとは思います。



 しかし、確実に一つ言えることは、多くの人が日本は経済的にも精神的にも貧しくなっているという事実に真正面から向き合うことはありませんでした」



「どうしたんですか?」
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