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内心の自由
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○日本国憲法
〔思想及び良心の自由〕
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
●自民党日本国憲法改正草案
(思想及び良心の自由)
第十九条 思想及び良心の自由は、保障する
あの頃のツキミとその両親は笑顔の絶えない家庭で、幸せそのものに見えた。
しかし、高校に入学する頃ツキミの母親は末期のガンだということがわかった。高額な医療費を払い続けられれば、助かる見込みはあったが、そんな金は無かった。
約一〇年前に国民皆保険制度が崩れ、人々は民間の医療保険に入らざるを得なかった。そこでは高額な先進医療は保険適用外とされ、それはとても一般家庭が支払える額ではなかった。ならばと標準的な治療を受けるものの、無情にも支払われる保険金の生涯上限は決まっていた。
病院にかかる費用は年々高騰を続けていたので、約二年後には上限が来てしまった。ツキミの父親はあらゆる私財を投げ売ってでも治療を続行しようと考えていた。そうはいっても尽くせる医療はすでに痛みを緩和することくらいしか出来なかったが、先んじてそれを拒んだのはツキミの母親自身だった。
ツキミの母親は独特な人だった。バイタリティに溢れ、自由や平等、公平、愛といったものを大切にするとても優しい人だった。そして何より『自分』というものを大事にしていた。
彼女は治療を切り上げると、すぐに生前葬を開いた。生前葬の招待は寛にも届いた。端書きに「フォーマルで来ること!」と書かれていたので、父のスーツを借りていったら仮装パーティだった。
マッチョなミイラに、セクシーなキョンシー、アイスホッケーの仮面を被った小さな女の子等々、様々な種類のお化けに扮した人々が既に一〇人以上集まって家の中をうろうろしていた。立食パーティー形式のようだった。
冬なのに玄関に大きなジャック・オー・ランタンの置物があった時点で何かおかしいなと思っていたが、その中にあって父親のスーツとは浮いているにも甚だしかった。
「何それ、七五三の仮装?」
そう聞いてきたのはツキミだった。後ろからかけられた声だけでわかった。面白がっている。これは共犯の線が濃厚だ。言い募ってやろうと後ろを向いて、寛は息を飲んだ。
真っ黒なヴェルベットのロングワンピースに、赤い大きなリボンを頭に着けて、手にはデッキブラシを持っている、そんなツキミが眼前にいた。
「もしかして、変?」
まじまじと見ていると、恥ずかしそうに服の裾をつまんで変なところがないか確認したりしている。その時チラリと見えた革の編み上げブーツもポイント高かった。劇中ではペタンコ靴だったし、ワンピースも膝丈くらいだったと思うから、少し成長したバージョンといったところだろうか。ある年代の人までは非常に馴染みの深い古いアニメ映画のヒロインにツキミは扮していた。確か、これも小学生の頃にここ、ツキミの家で観たのだった。
「何か言ってよ!」
肩を力いっぱい叩かれた。
「いってえ!」
寛はそこでピンと来た。ここまで恥ずかしがるとは、この仮装はツキミ自身の発案ではない。おばさんのものだろう。そう確信するとともに、寛はおばさんに深く感謝したのだった。
「あー、良く似合ってるよ。いや、マジで。黒は女を美しく見せるってホントだね」
「絶対面白がってるでしょ?」
「そんなことないって、一瞬見惚れた」
「ありがと」
ツキミは照れつつも、満足そうに、どこかホッとしたように笑った。
「今日は来てくれてありがとね」
「ああ、当然だよ。おばさんには世話になったしな」
彼女は数々の古き良き文化を教えてくれた。近年、ますます著しい文化的後退推進教育を思えばどんなに価値ある教育を施してくれていたのか。寛は最近になってそのことに気づき始めていた。
「おばさんに挨拶したいな」
「うん」
ツキミは寛をエスコートするように、先立って部屋の奥にいる母の元に誘った。
寛はツキミの小さな背中を見て、今は気丈に振る舞ってはいるが、発覚直後の震えていた肩を思い出さずにはいられなかった。
あれから二年が経ち、家族の中でどう折り合いをつけて今に至ったのだろうか。なるべくそばにいられるよう努力はしたが、外からすべてが伺い知れるというものではなかった。
時折物思いに耽るツキミを見ては、己の無力さに嫌気が差すこともしばしばだった。
「やあ、寛君。よく来てくれたね」
そう声をかけてきたのはヴァンパイアの仮装をしたツキミの父親だった。
「おじさん。もちろんですよ」
そう言って、握手をして挨拶を交わす。握手をおじさんとするのは初めてだった。彼は寛の手を優しく包み込むように両手で握った。それだけで優しく、愛情に満ちた人なのだと改めて知れた。
おじさんとは時折イベント事の時に話す程度で、言葉少なな、大人しい印象の人だった。
見た目は元々痩身、色白の人だったがヴァンパイアの仮装でも隠しきれないクマができ、頬のコケてしまったその姿はこの約二年が彼にとってもどんなに辛いものであったかを物語っている。
「ハーイ、寛ちゃん」
友人たちに囲まれたおばさんが寛に気づいて、声をかけた。
彼女は安楽椅子に座っていた。椅子の脚が半円型になっている、重心をずらせば前後に揺れるタイプの椅子だった。
彼女もまたヴァンパイアの格好をしていた。夫婦で合わせたのだろう。仲の良さは健在のようで、なんだか寛は安心した。
「ども」
おばさんの調子は思ったより良さそうに見えた。血色は化粧の効果もあってか良さそうだし、穏やかに笑っている。いつものおばさんだった。
「ぷふっ、思ったとおり、これで分厚い眼鏡でもかけさせたらナイスカップルの誕生ね」
寛とツキミを見て、おばさんは笑った。
「もう!やめてよ、お母さん!」
「あはは、良いじゃない。ねえ、二人共、私のそばに来て」
おばさんの友人たちは寛たちに気を遣って、どいてくれた。
「いやー、驚きましたよ。着いたら仮装パーティなんですから」
「でしょう?ちょっとしたサプライズ」
そう言って、おばさんはいたずらっ子のように笑った。やはり親子だな、と寛は思った。
BGMが切り替わって、おばさんは言った。
「ああ、この曲好きなのよね」
それはオアシスの『リヴ・フォーエヴァー』だった。歌詞の内容はタイトルの通り永遠を生きる、ずっと生きていたいというものだったと記憶しているので、寛は内心どんな反応をして良いものかわからなかった。思わずツキミを見ると、寛と同じだったようで、悲しい顔をしていた。
おばさんはそれに気づいて慌てて言った。
「ああ、そういう意味じゃないよ。単純にずっとこの曲好きだったってだけ」
「そう」
ツキミが苦笑して、おばさんの手を握った。
「そうだよ。それにね、この曲は単に永遠に生きたいって言ってるだけじゃないと思うんだ。この歌が歌い継がれることによって、自分たちは永遠になる、そう言ってるんじゃないかと思う。シェイクスピアのあの有名な詩みたいなものだよ」
「君をこの夏にたとえてみようか、てやつ?」
ツキミが言う。
「そう、それ。そういうのって、良いよね。人は必ず死ぬけれど、人の記憶に残っていれば精神的な意味では生きていると言えるのかも知れないね」
「大丈夫ですよ。忘れられるキャラじゃないですから」
寛は冗談のような本音を言った。
「あら、寛ちゃん、言うようになったわねー、もうちょっと、こっちにいらっしゃい」
おばさんが手招きする。寛はそれに素直に応じた。座っているおばさんを挟んで、寛とツキミが両脇に侍る形になった。
「聞いたわよ」
「何をでしょう?」
「ツキミにプロポーズまがいのことしたそうね」
「お母さん!」
ツキミが口を挟む。
「まぁまぁ、ツキミちゃん落ち着いて。さもないと、お父さんに聞こえちゃうよ?」
これを聞いて、ツキミは黙る外なかった。どうもおじさんは蚊帳の外らしい。当のおじさんは友人と談笑していた。それにしても母娘の間はいつの時代もホットラインが敷かれているようだ。
寛はツキミの方をちらりと見る。すると、全力で視線を外された。
「プロポーズ、と言いますとひょっとして自殺薬を交換した件でしょうか?」
「いかにも。あんたなかなかやるじゃない。しつこくツキミちゃんから浮いた話の一つや二つ無いのか聞いたところ、この案件が浮上したってわけよ」
「そうでしたか。それにしてもプロポーズと認識してくれていたとは」
「あら、違うのかしら」
「そのくらいの覚悟は勿論持ち合わせております。しかし、そうなると気になる点が一つ」
「何かしら?」
「返事は色よいものなのでしょうか?」
「なのでしょうかー?」
おばさんと寛はツキミを見た。ツキミは今にも呪い殺しそうな目つきで二人を睨んでいた。
「さて、おふざけはここまでにして」
おばさんは話題を変えた。
「二人に言って置きたいことがあったの」
そう言って、おばさんは二人の手を握った。
ツキミは慣れたものだったが、寛は驚いた。驚くほど弱々しい力だったからだ。指の細いことは枯れ枝のようで今にも折れそうだったし、肌の感触も骨と皮だけで張りがなかった。
寛は否応なしに死を連想してしまった。
そんな寛を見て、おばさんは優しく微笑んだ。
「私はこれからあと半日もしない内に自殺薬を飲む。それは自分の意思で飲むことを決めたから飲むの。そこには何の外圧もかかっていないと確信を持って言える。例えば政府が自殺薬を配ってなかったとしても、お金があったなら私はスイスにでも行って、やはり自殺薬を飲むことを選んでいたでしょう。なぜなら、絶えず苦痛が襲ってきて、しかもそれは治る見込みがないから。その苦痛と恐怖に侵されて、だんだんと自分が自分でなくなっていく感覚が理解るの。だから、まだ自分でいられる内に、自分で終わらすことに決めた」
静かに、迷いなくおばさんは言った。おばさんの肌をよくよく見てみると、ヴァンパイアの仮装による白塗りの下に脂汗が浮かんでいるのが見て取れた。あまりにも自然な態度に気づかなかったが、最期の時だから無理をして自然に振る舞っているのだと気づいた。思わず繋いだ手に力が入った。
そんなおばさんの姿をツキミは唇を噛み締めて聞いていた。
「私の両親は事故で亡くなったから、みんなにお別れを言える分私は幸せね。
何が自分にとって幸せか?それを考えられる内がギリギリ幸福ってことなんだと思う。ここまではツキミちゃんといっぱい話したね」
おばさんはツキミに笑顔を向ける。
ツキミはこの二年の色んなことが思い出されたのか泣きそうになってしまい、しゃがみこんでおばさんの腕に顔を埋めた。
「ああ、ごめんなさいね。私は悪い母親ね」
おばさんはツキミの頭を撫でて、キスをした。寛の脳裏に自分も同じように愛しみを込めてキスをしたことが思い出される。ツキミの頭はきっと熱くて、しかし、今は悲しみに溢れているのだろう。
ツキミは小さい子がするように、おばさんの腕の中でかぶりを振った。
「良いの。お母さんのこと大好きだから。だから、好きにさせてあげる」
ツキミはおばさんの腕に顔を埋めたまま言った。鼻水をすする音が漏れている。
「ありがとう」
おばさんはどこか寂しげに、しかしそれでも感謝を込めてそう言った。
「寛ちゃん、ツキミちゃん。だけど、私のようにもうどうにも助からないからという以外には、自殺薬を飲まないで欲しい。自分だけ特別扱いみたいで悪いけどね。私は政府がすべての国民に自殺薬を配布するのは今でも間違いだと思ってる。人間って、突発的に死にたくなってしまうこともあると思うから。その時に誰もが手軽に自殺薬を飲める状況ってやっぱり異常なの。大したことないって思っちゃう。
本当は私達の世代が止められたら良かったんだけど、ごめんなさいね。
でもその点で、寛ちゃん。感謝してる。ツキミちゃんは繊細で、優しくて、他人を尊重できる娘よ。でも、まだ弱いところがある。何かのきっかけで飲んでしまわないか、心配だった。でも、自殺薬を交換したって話を聞いて、安心したんだ。これできっと成長するに連れて、強くなる事ができる。めちゃくちゃな世の中だけど、ツキミは優しく生きられるって思えた。ありがとう」
そう言って、おばさんは寛に笑いかけた。
寛はその晴れやかな笑顔を見て、おばさんという一人の人間と今が別れの時なのだと痛感した。もうすぐ失われてしまうのだと。だから、クサくてもいいから、まっすぐに言うべきことを言わなければと思った。
「おばさん、俺もあなたに感謝してます。いろいろなことを教えてくれました。それに、何よりもツキミという素敵な人に会わせてくれました。あなたのことを忘れません。あなたはツキミの中に生きていますし、俺の中にもずっと生きています」
ありがとうございました、そう言葉を結ぼうとして、言葉が詰まった。それを言ってしまったら、もうお終いのような気がした。
寛は代わりに、椅子の横に跪いた。
「手を貸してください」
ツキミの頭に添えられていたおばさんの手を今度は寛から握った。今度は驚きも、死の連想も働かなかった。ただ、愛しみだけが募った。
「人は触れ合うと、色んなことを感じられるんだってことをツキミから教えてもらいました」
「あら、ハレンチ」
「バカ」
泣き顔のツキミに睨まれた。おばさんを挟んで、椅子のアームの高さで寛とツキミは向かい合った。なんだか本当に小さい頃に戻ったみたいだな、と寛は思った。懐かしい感覚が瞬くように心に浮かび、胸を締め付けた。
「私は幸せ者ね」
おばさんが何よりも優しい声音で言った。
「こんなに可愛い子達に愛されていたんだもの。寛ちゃん、ツキミちゃん、ありがとう。二人の幸せを願ってる」
それは、人生を愛すことが出来た者だけが出せる声音だった。
〔思想及び良心の自由〕
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
●自民党日本国憲法改正草案
(思想及び良心の自由)
第十九条 思想及び良心の自由は、保障する
あの頃のツキミとその両親は笑顔の絶えない家庭で、幸せそのものに見えた。
しかし、高校に入学する頃ツキミの母親は末期のガンだということがわかった。高額な医療費を払い続けられれば、助かる見込みはあったが、そんな金は無かった。
約一〇年前に国民皆保険制度が崩れ、人々は民間の医療保険に入らざるを得なかった。そこでは高額な先進医療は保険適用外とされ、それはとても一般家庭が支払える額ではなかった。ならばと標準的な治療を受けるものの、無情にも支払われる保険金の生涯上限は決まっていた。
病院にかかる費用は年々高騰を続けていたので、約二年後には上限が来てしまった。ツキミの父親はあらゆる私財を投げ売ってでも治療を続行しようと考えていた。そうはいっても尽くせる医療はすでに痛みを緩和することくらいしか出来なかったが、先んじてそれを拒んだのはツキミの母親自身だった。
ツキミの母親は独特な人だった。バイタリティに溢れ、自由や平等、公平、愛といったものを大切にするとても優しい人だった。そして何より『自分』というものを大事にしていた。
彼女は治療を切り上げると、すぐに生前葬を開いた。生前葬の招待は寛にも届いた。端書きに「フォーマルで来ること!」と書かれていたので、父のスーツを借りていったら仮装パーティだった。
マッチョなミイラに、セクシーなキョンシー、アイスホッケーの仮面を被った小さな女の子等々、様々な種類のお化けに扮した人々が既に一〇人以上集まって家の中をうろうろしていた。立食パーティー形式のようだった。
冬なのに玄関に大きなジャック・オー・ランタンの置物があった時点で何かおかしいなと思っていたが、その中にあって父親のスーツとは浮いているにも甚だしかった。
「何それ、七五三の仮装?」
そう聞いてきたのはツキミだった。後ろからかけられた声だけでわかった。面白がっている。これは共犯の線が濃厚だ。言い募ってやろうと後ろを向いて、寛は息を飲んだ。
真っ黒なヴェルベットのロングワンピースに、赤い大きなリボンを頭に着けて、手にはデッキブラシを持っている、そんなツキミが眼前にいた。
「もしかして、変?」
まじまじと見ていると、恥ずかしそうに服の裾をつまんで変なところがないか確認したりしている。その時チラリと見えた革の編み上げブーツもポイント高かった。劇中ではペタンコ靴だったし、ワンピースも膝丈くらいだったと思うから、少し成長したバージョンといったところだろうか。ある年代の人までは非常に馴染みの深い古いアニメ映画のヒロインにツキミは扮していた。確か、これも小学生の頃にここ、ツキミの家で観たのだった。
「何か言ってよ!」
肩を力いっぱい叩かれた。
「いってえ!」
寛はそこでピンと来た。ここまで恥ずかしがるとは、この仮装はツキミ自身の発案ではない。おばさんのものだろう。そう確信するとともに、寛はおばさんに深く感謝したのだった。
「あー、良く似合ってるよ。いや、マジで。黒は女を美しく見せるってホントだね」
「絶対面白がってるでしょ?」
「そんなことないって、一瞬見惚れた」
「ありがと」
ツキミは照れつつも、満足そうに、どこかホッとしたように笑った。
「今日は来てくれてありがとね」
「ああ、当然だよ。おばさんには世話になったしな」
彼女は数々の古き良き文化を教えてくれた。近年、ますます著しい文化的後退推進教育を思えばどんなに価値ある教育を施してくれていたのか。寛は最近になってそのことに気づき始めていた。
「おばさんに挨拶したいな」
「うん」
ツキミは寛をエスコートするように、先立って部屋の奥にいる母の元に誘った。
寛はツキミの小さな背中を見て、今は気丈に振る舞ってはいるが、発覚直後の震えていた肩を思い出さずにはいられなかった。
あれから二年が経ち、家族の中でどう折り合いをつけて今に至ったのだろうか。なるべくそばにいられるよう努力はしたが、外からすべてが伺い知れるというものではなかった。
時折物思いに耽るツキミを見ては、己の無力さに嫌気が差すこともしばしばだった。
「やあ、寛君。よく来てくれたね」
そう声をかけてきたのはヴァンパイアの仮装をしたツキミの父親だった。
「おじさん。もちろんですよ」
そう言って、握手をして挨拶を交わす。握手をおじさんとするのは初めてだった。彼は寛の手を優しく包み込むように両手で握った。それだけで優しく、愛情に満ちた人なのだと改めて知れた。
おじさんとは時折イベント事の時に話す程度で、言葉少なな、大人しい印象の人だった。
見た目は元々痩身、色白の人だったがヴァンパイアの仮装でも隠しきれないクマができ、頬のコケてしまったその姿はこの約二年が彼にとってもどんなに辛いものであったかを物語っている。
「ハーイ、寛ちゃん」
友人たちに囲まれたおばさんが寛に気づいて、声をかけた。
彼女は安楽椅子に座っていた。椅子の脚が半円型になっている、重心をずらせば前後に揺れるタイプの椅子だった。
彼女もまたヴァンパイアの格好をしていた。夫婦で合わせたのだろう。仲の良さは健在のようで、なんだか寛は安心した。
「ども」
おばさんの調子は思ったより良さそうに見えた。血色は化粧の効果もあってか良さそうだし、穏やかに笑っている。いつものおばさんだった。
「ぷふっ、思ったとおり、これで分厚い眼鏡でもかけさせたらナイスカップルの誕生ね」
寛とツキミを見て、おばさんは笑った。
「もう!やめてよ、お母さん!」
「あはは、良いじゃない。ねえ、二人共、私のそばに来て」
おばさんの友人たちは寛たちに気を遣って、どいてくれた。
「いやー、驚きましたよ。着いたら仮装パーティなんですから」
「でしょう?ちょっとしたサプライズ」
そう言って、おばさんはいたずらっ子のように笑った。やはり親子だな、と寛は思った。
BGMが切り替わって、おばさんは言った。
「ああ、この曲好きなのよね」
それはオアシスの『リヴ・フォーエヴァー』だった。歌詞の内容はタイトルの通り永遠を生きる、ずっと生きていたいというものだったと記憶しているので、寛は内心どんな反応をして良いものかわからなかった。思わずツキミを見ると、寛と同じだったようで、悲しい顔をしていた。
おばさんはそれに気づいて慌てて言った。
「ああ、そういう意味じゃないよ。単純にずっとこの曲好きだったってだけ」
「そう」
ツキミが苦笑して、おばさんの手を握った。
「そうだよ。それにね、この曲は単に永遠に生きたいって言ってるだけじゃないと思うんだ。この歌が歌い継がれることによって、自分たちは永遠になる、そう言ってるんじゃないかと思う。シェイクスピアのあの有名な詩みたいなものだよ」
「君をこの夏にたとえてみようか、てやつ?」
ツキミが言う。
「そう、それ。そういうのって、良いよね。人は必ず死ぬけれど、人の記憶に残っていれば精神的な意味では生きていると言えるのかも知れないね」
「大丈夫ですよ。忘れられるキャラじゃないですから」
寛は冗談のような本音を言った。
「あら、寛ちゃん、言うようになったわねー、もうちょっと、こっちにいらっしゃい」
おばさんが手招きする。寛はそれに素直に応じた。座っているおばさんを挟んで、寛とツキミが両脇に侍る形になった。
「聞いたわよ」
「何をでしょう?」
「ツキミにプロポーズまがいのことしたそうね」
「お母さん!」
ツキミが口を挟む。
「まぁまぁ、ツキミちゃん落ち着いて。さもないと、お父さんに聞こえちゃうよ?」
これを聞いて、ツキミは黙る外なかった。どうもおじさんは蚊帳の外らしい。当のおじさんは友人と談笑していた。それにしても母娘の間はいつの時代もホットラインが敷かれているようだ。
寛はツキミの方をちらりと見る。すると、全力で視線を外された。
「プロポーズ、と言いますとひょっとして自殺薬を交換した件でしょうか?」
「いかにも。あんたなかなかやるじゃない。しつこくツキミちゃんから浮いた話の一つや二つ無いのか聞いたところ、この案件が浮上したってわけよ」
「そうでしたか。それにしてもプロポーズと認識してくれていたとは」
「あら、違うのかしら」
「そのくらいの覚悟は勿論持ち合わせております。しかし、そうなると気になる点が一つ」
「何かしら?」
「返事は色よいものなのでしょうか?」
「なのでしょうかー?」
おばさんと寛はツキミを見た。ツキミは今にも呪い殺しそうな目つきで二人を睨んでいた。
「さて、おふざけはここまでにして」
おばさんは話題を変えた。
「二人に言って置きたいことがあったの」
そう言って、おばさんは二人の手を握った。
ツキミは慣れたものだったが、寛は驚いた。驚くほど弱々しい力だったからだ。指の細いことは枯れ枝のようで今にも折れそうだったし、肌の感触も骨と皮だけで張りがなかった。
寛は否応なしに死を連想してしまった。
そんな寛を見て、おばさんは優しく微笑んだ。
「私はこれからあと半日もしない内に自殺薬を飲む。それは自分の意思で飲むことを決めたから飲むの。そこには何の外圧もかかっていないと確信を持って言える。例えば政府が自殺薬を配ってなかったとしても、お金があったなら私はスイスにでも行って、やはり自殺薬を飲むことを選んでいたでしょう。なぜなら、絶えず苦痛が襲ってきて、しかもそれは治る見込みがないから。その苦痛と恐怖に侵されて、だんだんと自分が自分でなくなっていく感覚が理解るの。だから、まだ自分でいられる内に、自分で終わらすことに決めた」
静かに、迷いなくおばさんは言った。おばさんの肌をよくよく見てみると、ヴァンパイアの仮装による白塗りの下に脂汗が浮かんでいるのが見て取れた。あまりにも自然な態度に気づかなかったが、最期の時だから無理をして自然に振る舞っているのだと気づいた。思わず繋いだ手に力が入った。
そんなおばさんの姿をツキミは唇を噛み締めて聞いていた。
「私の両親は事故で亡くなったから、みんなにお別れを言える分私は幸せね。
何が自分にとって幸せか?それを考えられる内がギリギリ幸福ってことなんだと思う。ここまではツキミちゃんといっぱい話したね」
おばさんはツキミに笑顔を向ける。
ツキミはこの二年の色んなことが思い出されたのか泣きそうになってしまい、しゃがみこんでおばさんの腕に顔を埋めた。
「ああ、ごめんなさいね。私は悪い母親ね」
おばさんはツキミの頭を撫でて、キスをした。寛の脳裏に自分も同じように愛しみを込めてキスをしたことが思い出される。ツキミの頭はきっと熱くて、しかし、今は悲しみに溢れているのだろう。
ツキミは小さい子がするように、おばさんの腕の中でかぶりを振った。
「良いの。お母さんのこと大好きだから。だから、好きにさせてあげる」
ツキミはおばさんの腕に顔を埋めたまま言った。鼻水をすする音が漏れている。
「ありがとう」
おばさんはどこか寂しげに、しかしそれでも感謝を込めてそう言った。
「寛ちゃん、ツキミちゃん。だけど、私のようにもうどうにも助からないからという以外には、自殺薬を飲まないで欲しい。自分だけ特別扱いみたいで悪いけどね。私は政府がすべての国民に自殺薬を配布するのは今でも間違いだと思ってる。人間って、突発的に死にたくなってしまうこともあると思うから。その時に誰もが手軽に自殺薬を飲める状況ってやっぱり異常なの。大したことないって思っちゃう。
本当は私達の世代が止められたら良かったんだけど、ごめんなさいね。
でもその点で、寛ちゃん。感謝してる。ツキミちゃんは繊細で、優しくて、他人を尊重できる娘よ。でも、まだ弱いところがある。何かのきっかけで飲んでしまわないか、心配だった。でも、自殺薬を交換したって話を聞いて、安心したんだ。これできっと成長するに連れて、強くなる事ができる。めちゃくちゃな世の中だけど、ツキミは優しく生きられるって思えた。ありがとう」
そう言って、おばさんは寛に笑いかけた。
寛はその晴れやかな笑顔を見て、おばさんという一人の人間と今が別れの時なのだと痛感した。もうすぐ失われてしまうのだと。だから、クサくてもいいから、まっすぐに言うべきことを言わなければと思った。
「おばさん、俺もあなたに感謝してます。いろいろなことを教えてくれました。それに、何よりもツキミという素敵な人に会わせてくれました。あなたのことを忘れません。あなたはツキミの中に生きていますし、俺の中にもずっと生きています」
ありがとうございました、そう言葉を結ぼうとして、言葉が詰まった。それを言ってしまったら、もうお終いのような気がした。
寛は代わりに、椅子の横に跪いた。
「手を貸してください」
ツキミの頭に添えられていたおばさんの手を今度は寛から握った。今度は驚きも、死の連想も働かなかった。ただ、愛しみだけが募った。
「人は触れ合うと、色んなことを感じられるんだってことをツキミから教えてもらいました」
「あら、ハレンチ」
「バカ」
泣き顔のツキミに睨まれた。おばさんを挟んで、椅子のアームの高さで寛とツキミは向かい合った。なんだか本当に小さい頃に戻ったみたいだな、と寛は思った。懐かしい感覚が瞬くように心に浮かび、胸を締め付けた。
「私は幸せ者ね」
おばさんが何よりも優しい声音で言った。
「こんなに可愛い子達に愛されていたんだもの。寛ちゃん、ツキミちゃん、ありがとう。二人の幸せを願ってる」
それは、人生を愛すことが出来た者だけが出せる声音だった。
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