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第1章 土佐の以蔵

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その後、里江は夕食の準備に戻り、義平と半平太は二人きりで話すといってどこかへ出かけてしまった。
 今日の夕餉には味噌汁があるのか、土間から味噌の香ばしい匂いが漂ってくる。


「なぁ、兄やん、」


 畳の上に足を投げ出しぼんやり天井を見ていると、啓吉に服の裾を引っ張られた。


「兄やん、おらんくなってしまうん? あの、たけちって人のところにいってしまうん?」


 啓吉は大きな瞳を潤ませて以蔵を見上げている。まだ六つの啓吉は、道場に通うというものが具体的にどういうものなのかわかっていないのだろう。

 物心ついたときからずっと以蔵の後をついて歩いていた啓吉にとって、兄がいなくなるかもしれないことに恐怖を感じているのかもしれない。

 以蔵は啓吉の方を向き、その柔らかな頬を両手で包んだ。じっと見つめた啓吉の眼もとは、ほんのり赤く腫れている。


「兄やんはおらんくならんよ。ただ、昼間ちょっと家を留守にするだけじゃ。朝や夕方は家におるし、寝るのだって啓と一緒じゃ」
「ほん、と? 嘘じゃ、なか……?」


 啓吉はしゃくりあげながら以蔵に聞く。その姿がなんとも愛おしくて、以蔵は啓吉を抱きしめた。


「…おん。嘘じゃなかよ。やき、なくな、なくな」


 以蔵はぽんぽんと優しく啓吉の背中を叩く。啓吉も以蔵の背中に手を回して、しがみつくように抱き着いた。


「なんか、兄やんが遠くに行ってしまうようなきがするんじゃ。わしが思い切り手を伸ばしても、届かんような、そんな場所に」


 まるでこの場につなぎとめるかのように、啓吉は以蔵を抱く腕に力を込めた。

 以蔵には感じ取れない恐怖を、この弟は感じているのかもしれない。妖力もないに等しい弟だが、齢六、七の子供だ。妖力とは関係ない、子供の直感というやつが働いているのだろう。

 肩をふるふる震わせる啓吉を以蔵はやさしくなだめ続けた。声こそ堪えているものの、以蔵の肩は次第にじんわりと温かい涙で濡れていく。

 剣の道に入ること。それまでの貧しい農民や郷士の生活を続けるとはちがった人生を歩むことになる。その可能性も、以蔵はしっかりと分かっていた。

 今日手合わせをして分かった。自分はきっと、普通の道には進めない。木刀が、手になじみすぎた。
 あの吸い付くような感覚。一度握れば、離れがたい、もっと振るいたいというような欲望に駆られてくる。
 以蔵の体内に流れる鬼の血がそうさせるのか。祖先の母は鬼の中でもずいぶん上の立場の上の者だったらしい。この心に眠る闘争心と戦いへの渇望は彼女の血が尾の身体に流れるせいか。

 世の中も、平和とは言い切れない。

 幕府に反対する勢力が、各地で活動を始めている。剣を使える者が駆り出されないわけがない。
 いずれにせよ、いつかこの温もりを手放さなけれなならないときが来るかもしれない。

 そんな日が訪れないようにと、以蔵は祈るように地位さあ温もりをより強く、抱きしめた。
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