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一夜の感情に流されて正隆と関係を持ってしまった――その後も、どうしてこうなってしまったのかと思うばかりだった。
「ほら、ちゃんと食えよ」
正隆はいつもの苦そうな顔で食後のコーヒーを飲んでから、光広の前にグリンピースたっぷりのサラダを突き出した。その顔を見ながら、苦いのが苦手なら素直に砂糖を入れればいいのに、と光広は思った。
ちらりと視線を落とすと、サラダには緑の野菜しか入っていない。彩りもなく、淡々と緑色だけが並ぶサラダを見つめて、ため息をついた。
以前は、できるだけ目立たず静かに暮らしていた光広の日常は、正隆と昼食を共にするようになってから一変した。学校内でも一目置かれるアルファである正隆に、毎日のように食堂へ引っ張られ、やむなく同席するようになってから、もう二か月が経とうとしている。おかげで、注目されるのは光広自身の望むところではないのに、自然と周囲の視線が集まるようになっていた。
「グリンピースは苦手なんだよな」
「好き嫌いばかりするから、いつまでもガリガリなんだ」
「別に、グリンピースがどう影響するってんだよ」
くだらない子供のようなやりとりだが、二人の間に漂う空気には、微妙に気を許し合う雰囲気があった。
正隆と行動を共にするようになって、光広が気づいたのは、彼が見た目とは裏腹にお節介なところがあるということだった。光広が面倒くさがって夕食を抜いたり節約をしすぎたりしていると知って以来、正隆は毎日のように自分で作った料理をタッパーに詰めて持ってくるか、光広のアパートで手料理を振る舞うようになっていた。むしろ、過保護な親以上に世話焼きで口うるさい。
「お前、言い返す前に、まず口にくっついた米粒を取れよな。まるでガキだな」
またも容赦なく言われて、思わずにらみ返す光広だったが、毎日お昼をご馳走してもらっている手前、強く出られずにいる。
学食の昼食代を自分で払おうとしても、先に食券を購入する正隆の機敏さにかなわない。代金を渡そうとすれば軽くはねのけられ、どうにも押しつけられないままなのだ。そのせいで弱みを握られたような居心地の悪さを感じる一方で、体調がすぐれなかった二か月前に比べ、規則的に食事を摂ることで体調も少しずつ回復してきている。減っていた体重も少し戻り、肌の色も健康的な血色を取り戻しつつあった。
正隆は栄養士を目指しているらしい。栄養が偏っていた光広の食生活に、適切な食材を選んで組み込んでくれているのも、その影響だろう。今日のサラダに嫌いなグリンピースが入っているのも、彼なりの気遣いに違いなかった。
「肉が食いたい」
「そのグリンピース、ちゃんと食べられたら焼肉に連れてってやるよ」
「あ、約束な!」
挑発するような正隆の表情に、どこか楽しげな色があった。
それはお気に入りのペットをからかっているかのような視線で、光広も慣れないうちに、少しずつ受け入れられるようになっていた。
光広は内心、初めてを奪われた責任感で正隆が傍にいてくれているのだろうと思っていた。
最初はお互いに利用し合う関係だと合意したはずなのに、正隆がふざけた態度を取りつつも、根は真面目で誠実な人間であることに気づき始めていた。正隆はただの都合のいい関係を求めているわけではない。それに気づいたとき、光広は自分のなかに芽生えた小さな戸惑いを持て余すようになった。
「光広!」
聞き慣れた声が食堂に響き、思わずその方向に顔を向ける。久しぶりに聞く鉄平の声に、光広は驚いた。
「なんだよ」
冷ややかな目でにらみ返すが、鉄平は一歩も引かず、光広の腕をつかんだ。
「お前、まさか……あいつと」
何を言いたいのか、その一言で理解できた。
「だから、何?」
「自暴自棄になっちゃダメだ!」
この男、何を言っているのか――呆れるように、光広はため息をつき、正隆と目を合わせた。
「君がそうさせたんだろ?」
二人の会話に割って入る正隆の声に、鉄平が鋭い目つきで睨み返す。
「あんた、悟さんを取られたからって、腹いせに光広に手を出すなよ!」
正隆は冷静な表情を崩さず、言葉を返す。
「……悟を選んだのに、こいつを捨てられないような口ぶりに聞こえるが?」
「俺は……光広の親友だ」
いつの間にか、婚約者という関係から親友に変わっている。その事実に、光広は驚きと怒りを覚える。婚約破棄を正式に認めたわけでもないし、破棄したとしても親友になることを望んでなどいない。今の番を捨て、再び自分と向き合ってくれるかもしれないと、わずかに期待していた光広にとって、その言葉は冷酷だった。薄々覚悟していた結果だったが、それでも胸の奥から怒りが湧き上がる。
「親友だなんて、こいつは思っていない顔をしている」
今にも泣きだしそうな気持ちを抑え、光広は唇を噛みしめる。
「だからって、あんたには光広を任せられない。信用できないんだ」 「酷い言われようだな」
その時、ピリピリとした空気を和らげるように、後ろから悟が姿を現す。
「鉄平くん!」
「悟さん!」
その声に、鉄平は慌てて振り向き、冷たい雰囲気をまとっていた正隆も、ほっとしたように表情が和らいだ。
「無理はしないでくださいね」
「うん。でも、先生に話をしないといけないから」
悟の顔色は青白く、体調が思わしくないことが一目でわかる。学内でも二人の姿をほとんど見かけなくなっていたが、その原因が今、光広の目の前にある。
運命の番と出会い、付き合い始めて間もない二人。同棲を始めたこともあり、寝不足や体調不良に悩まされていることは容易に想像できた。
「悟、久しぶりに見たけど、ずいぶん顔色が悪いぞ」
「うん……ちょっとね」
悟の体調を心配するように、正隆はそっと彼の頬に手を添える。その優しい仕草に、光広の胸は鋭く痛んだ。
―――結局、誰も彼も、あの可憐なオメガを大切にしている。
悟の魅力は否応なく人を引きつけるものだった。透き通るような雪のように白い肌、潤んだ瞳、そしてその声は儚げで守ってやりたくなる。まるで雪の妖精、シマエナガのように愛らしい。その対照的な自分に、光広は改めて惨めさを感じずにはいられなかった。
小柄ではあっても、見た目も性格も悟とは何もかもが異なり、平凡すぎるとさえ思える自分。オメガという体を持っている以外、取り立てて誇れるものがない―――そんな思いが心の底から湧き上がってくる。
「悟さんに触らないでください」
光広が言い放つと、正隆が冷ややかに笑う。
「番になっても、随分余裕がないんだな」
「あなたの気持ちがまだ悟さんにあると知れば、気が気でいられませんよ」
まるで自分など存在しないかのように進んでいく会話。光広はうんざりした気持ちで席を立ち、食事も半端なまま片付けると、その場から立ち去ろうとした。
「おい、どこに行くんだ?」
光広が姿を消そうとしていることに一番先に気付いたのは正隆だった。
光広は気にかけることなく、その場を立ち去る。
「待てって!」
「あんたにはまだ話がある!」
正隆が光広を引き止めようとするが、鉄平がそれを阻んだ。光広はそんな二人のやり取りを横目にしながら、さらに惨めな気持ちに襲われる。彼らにとって、今一番重要なのは光広自身ではなく、互いの駆け引きだった。
足早に立ち去り、誰も追いかけてこないことに、胸の奥から悲しみがこみ上げてくる。
鉄平だけでなく、正隆が追ってくることをどこかで期待してしまっていた自分に気づき、虚しさがさらに募る。
――どうせお前は選ばれない存在。もう一人の自分が指を指し、嘲笑う。
光広は暗い表情で、次の講義がある教室へと向かった。周りを確認せずに廊下を曲がった瞬間、ふいにぶつかりそうになり、驚いたような声が耳に届いた。
「おっと」
「すみません!」
下ばかりを見ていた自分が悪いと、光広は顔を上げる。そこにいたのは見上げるほどの長身で、まるで軍人のように鍛え抜かれた体つきをした男。端正な顔立ちに金色の髪がよく映える、目を奪われるほど美しい青年だった。
二人の間に、説明のつかない磁力が走る。心臓が跳ね上がり、胸の奥に甘く鋭い電流が走る感覚に襲われる。
―――運命だ。
そう感じた瞬間、光広の身体は激しい欲望に支配され、呼吸が苦しくなる。溢れ出る欲が、理性の糸を切り裂こうとしていた。
「君……もしかして、オメガか?」
男の声は心地よく耳に響き、全身に「この男と番え」という命令が染み渡る。
心拍数は抑えがたいほど早まり、吐き気にも似た衝動に襲われる。立っているのがやっとの状態で、視界がぐらつき始める。
「君が……僕の運命なのか……」
その男が光広の頬に触れた瞬間、理性が音を立てて引き裂かれそうになる。
「おいっ!」
背後から、低くて落ち着いた正隆の声が響いた。聞き慣れたアルトの声が、ふとした安心をもたらすが、男から引き離された瞬間、光広は新たな寂しさを感じた。
「運命だ」
男が口を押さえながら呟く。その顔には、理性を保とうと必死に耐えている様子が浮かんでいる。
甘ったるい香りが辺りを包み、光広のオメガフェロモンに反応した者たちが周囲に集まり始める。
「おい、行くぞ!」
正隆は事態の危険を察し、光広の腕をつかむと、その場を後にした。
運命には抗えない。そう思っていた。
けれども、それを疑い、否定したこともあったのだ。出会ってすぐに知らない男と運命の番になった鉄平を、どこか心の奥で責めていたからだ。
だが、今は――その考えを反省するほかない。
光広は、出会って数秒の知らない男に対して、自分の意志とは無関係に本能で欲してしまった。今すぐ彼の手を取り、番になりたいとすら思った。
それも、一歩踏み出せば、襲いかかってしまう寸前まで追い詰められたのだ。
正隆が現れなければ、自ら誘惑し、うなじを差し出していたことだろう。
彼と繋がり、うなじを噛まれる――その想像をしただけで、身体が疼き、甘く痺れるような衝動が下腹部に集まっていく。
自分が彼の子を孕むことさえ、自然と望んでしまっていた。
運命と出会うと、こんなにも抗えないものだとは。いっそ恐怖さえ覚えた。
「お前、この前ヒートが終わったばかりじゃなかったのか?」
光広の手を強く握り、早足で帰路を進む正隆が、息を荒げて問いかけた。
「終わった……んだけど……」
過呼吸に近い荒い息遣いが、光広の意識をぼんやりとさせていく。
「じゃあ、どうしてこんなにフェロモンが強いんだ?」
いつも自制している正隆が、光広の放つオメガフェロモンに対して必死に欲望を押し殺している。その姿を見るのは、数えるほどしかなかった。自分に興味がないから理性を保とうとしているのだろう――そう思うと、虚しさが心を締めつける。
もしかしたら、運命に身を委ね、あの男と番になった方が楽かもしれない。
「あの人は、俺の……運命の番なんだ」
息を整えながら、光広はひと言だけ告げた。
正隆は驚いたように足を止めたが、すぐにアパートの玄関に目をやり、鍵を催促するだけだった。
「中に入って、鍵をかけて寝ろ」
玄関に押し込められ、バタンッと扉が大きな音を立てて閉ざされる。
「なんだよそれ……!」
焼けるように熱く、溺れそうなほど苦しいこの身体。
もうどうなってもいい。どうにかして、この熱を冷ましてほしい――そう思い、光広は再び玄関を勢いよく開けた。
「抱けよ、バカ!」
鍵をかけるまで立ち去らない正隆を予想していた光広は、飛びつくように彼に抱きついた。
「やめろ……!」
「やだ」
正隆の毛嫌いするような拒絶に、光広は子どものように駄々をこねる。
「優しくする自信がないんだ!」
正隆にガバッと突き放され、光広はその言葉の意味を理解するまで数秒を要した。
「……それだけの理由で?」
「”それだけ”じゃないだろ。お前の身体が大事なんだ」
正隆の拒絶が、思いがけない理由だったことに、光広は少しだけ安堵した。魅力がないからだと思い込んでいたからだ。
「今日は……今日は酷くてもいいんだ。あの運命の男が、怖い」
熱を帯びた瞳で見つめながら、光広が訴える。
正隆は、沈黙したまま光広を見つめ返した。その沈黙はたった数秒だったが、永遠のように感じられる。
「運命に逆らったら、後悔するぞ」
「俺の運命は……俺が決める」
そう言って光広が差し出した手を、正隆はためらいながらも、ゆっくりと握り返した。
「お前は、いつも……」
光広の純粋な瞳に呆れつつも、正隆の心が揺れ動く。
「後悔しても知らないからな」
互いの手を離さぬまま、正隆は覚悟を決め、光広の部屋の中へと足を踏み入れた。
「ほら、ちゃんと食えよ」
正隆はいつもの苦そうな顔で食後のコーヒーを飲んでから、光広の前にグリンピースたっぷりのサラダを突き出した。その顔を見ながら、苦いのが苦手なら素直に砂糖を入れればいいのに、と光広は思った。
ちらりと視線を落とすと、サラダには緑の野菜しか入っていない。彩りもなく、淡々と緑色だけが並ぶサラダを見つめて、ため息をついた。
以前は、できるだけ目立たず静かに暮らしていた光広の日常は、正隆と昼食を共にするようになってから一変した。学校内でも一目置かれるアルファである正隆に、毎日のように食堂へ引っ張られ、やむなく同席するようになってから、もう二か月が経とうとしている。おかげで、注目されるのは光広自身の望むところではないのに、自然と周囲の視線が集まるようになっていた。
「グリンピースは苦手なんだよな」
「好き嫌いばかりするから、いつまでもガリガリなんだ」
「別に、グリンピースがどう影響するってんだよ」
くだらない子供のようなやりとりだが、二人の間に漂う空気には、微妙に気を許し合う雰囲気があった。
正隆と行動を共にするようになって、光広が気づいたのは、彼が見た目とは裏腹にお節介なところがあるということだった。光広が面倒くさがって夕食を抜いたり節約をしすぎたりしていると知って以来、正隆は毎日のように自分で作った料理をタッパーに詰めて持ってくるか、光広のアパートで手料理を振る舞うようになっていた。むしろ、過保護な親以上に世話焼きで口うるさい。
「お前、言い返す前に、まず口にくっついた米粒を取れよな。まるでガキだな」
またも容赦なく言われて、思わずにらみ返す光広だったが、毎日お昼をご馳走してもらっている手前、強く出られずにいる。
学食の昼食代を自分で払おうとしても、先に食券を購入する正隆の機敏さにかなわない。代金を渡そうとすれば軽くはねのけられ、どうにも押しつけられないままなのだ。そのせいで弱みを握られたような居心地の悪さを感じる一方で、体調がすぐれなかった二か月前に比べ、規則的に食事を摂ることで体調も少しずつ回復してきている。減っていた体重も少し戻り、肌の色も健康的な血色を取り戻しつつあった。
正隆は栄養士を目指しているらしい。栄養が偏っていた光広の食生活に、適切な食材を選んで組み込んでくれているのも、その影響だろう。今日のサラダに嫌いなグリンピースが入っているのも、彼なりの気遣いに違いなかった。
「肉が食いたい」
「そのグリンピース、ちゃんと食べられたら焼肉に連れてってやるよ」
「あ、約束な!」
挑発するような正隆の表情に、どこか楽しげな色があった。
それはお気に入りのペットをからかっているかのような視線で、光広も慣れないうちに、少しずつ受け入れられるようになっていた。
光広は内心、初めてを奪われた責任感で正隆が傍にいてくれているのだろうと思っていた。
最初はお互いに利用し合う関係だと合意したはずなのに、正隆がふざけた態度を取りつつも、根は真面目で誠実な人間であることに気づき始めていた。正隆はただの都合のいい関係を求めているわけではない。それに気づいたとき、光広は自分のなかに芽生えた小さな戸惑いを持て余すようになった。
「光広!」
聞き慣れた声が食堂に響き、思わずその方向に顔を向ける。久しぶりに聞く鉄平の声に、光広は驚いた。
「なんだよ」
冷ややかな目でにらみ返すが、鉄平は一歩も引かず、光広の腕をつかんだ。
「お前、まさか……あいつと」
何を言いたいのか、その一言で理解できた。
「だから、何?」
「自暴自棄になっちゃダメだ!」
この男、何を言っているのか――呆れるように、光広はため息をつき、正隆と目を合わせた。
「君がそうさせたんだろ?」
二人の会話に割って入る正隆の声に、鉄平が鋭い目つきで睨み返す。
「あんた、悟さんを取られたからって、腹いせに光広に手を出すなよ!」
正隆は冷静な表情を崩さず、言葉を返す。
「……悟を選んだのに、こいつを捨てられないような口ぶりに聞こえるが?」
「俺は……光広の親友だ」
いつの間にか、婚約者という関係から親友に変わっている。その事実に、光広は驚きと怒りを覚える。婚約破棄を正式に認めたわけでもないし、破棄したとしても親友になることを望んでなどいない。今の番を捨て、再び自分と向き合ってくれるかもしれないと、わずかに期待していた光広にとって、その言葉は冷酷だった。薄々覚悟していた結果だったが、それでも胸の奥から怒りが湧き上がる。
「親友だなんて、こいつは思っていない顔をしている」
今にも泣きだしそうな気持ちを抑え、光広は唇を噛みしめる。
「だからって、あんたには光広を任せられない。信用できないんだ」 「酷い言われようだな」
その時、ピリピリとした空気を和らげるように、後ろから悟が姿を現す。
「鉄平くん!」
「悟さん!」
その声に、鉄平は慌てて振り向き、冷たい雰囲気をまとっていた正隆も、ほっとしたように表情が和らいだ。
「無理はしないでくださいね」
「うん。でも、先生に話をしないといけないから」
悟の顔色は青白く、体調が思わしくないことが一目でわかる。学内でも二人の姿をほとんど見かけなくなっていたが、その原因が今、光広の目の前にある。
運命の番と出会い、付き合い始めて間もない二人。同棲を始めたこともあり、寝不足や体調不良に悩まされていることは容易に想像できた。
「悟、久しぶりに見たけど、ずいぶん顔色が悪いぞ」
「うん……ちょっとね」
悟の体調を心配するように、正隆はそっと彼の頬に手を添える。その優しい仕草に、光広の胸は鋭く痛んだ。
―――結局、誰も彼も、あの可憐なオメガを大切にしている。
悟の魅力は否応なく人を引きつけるものだった。透き通るような雪のように白い肌、潤んだ瞳、そしてその声は儚げで守ってやりたくなる。まるで雪の妖精、シマエナガのように愛らしい。その対照的な自分に、光広は改めて惨めさを感じずにはいられなかった。
小柄ではあっても、見た目も性格も悟とは何もかもが異なり、平凡すぎるとさえ思える自分。オメガという体を持っている以外、取り立てて誇れるものがない―――そんな思いが心の底から湧き上がってくる。
「悟さんに触らないでください」
光広が言い放つと、正隆が冷ややかに笑う。
「番になっても、随分余裕がないんだな」
「あなたの気持ちがまだ悟さんにあると知れば、気が気でいられませんよ」
まるで自分など存在しないかのように進んでいく会話。光広はうんざりした気持ちで席を立ち、食事も半端なまま片付けると、その場から立ち去ろうとした。
「おい、どこに行くんだ?」
光広が姿を消そうとしていることに一番先に気付いたのは正隆だった。
光広は気にかけることなく、その場を立ち去る。
「待てって!」
「あんたにはまだ話がある!」
正隆が光広を引き止めようとするが、鉄平がそれを阻んだ。光広はそんな二人のやり取りを横目にしながら、さらに惨めな気持ちに襲われる。彼らにとって、今一番重要なのは光広自身ではなく、互いの駆け引きだった。
足早に立ち去り、誰も追いかけてこないことに、胸の奥から悲しみがこみ上げてくる。
鉄平だけでなく、正隆が追ってくることをどこかで期待してしまっていた自分に気づき、虚しさがさらに募る。
――どうせお前は選ばれない存在。もう一人の自分が指を指し、嘲笑う。
光広は暗い表情で、次の講義がある教室へと向かった。周りを確認せずに廊下を曲がった瞬間、ふいにぶつかりそうになり、驚いたような声が耳に届いた。
「おっと」
「すみません!」
下ばかりを見ていた自分が悪いと、光広は顔を上げる。そこにいたのは見上げるほどの長身で、まるで軍人のように鍛え抜かれた体つきをした男。端正な顔立ちに金色の髪がよく映える、目を奪われるほど美しい青年だった。
二人の間に、説明のつかない磁力が走る。心臓が跳ね上がり、胸の奥に甘く鋭い電流が走る感覚に襲われる。
―――運命だ。
そう感じた瞬間、光広の身体は激しい欲望に支配され、呼吸が苦しくなる。溢れ出る欲が、理性の糸を切り裂こうとしていた。
「君……もしかして、オメガか?」
男の声は心地よく耳に響き、全身に「この男と番え」という命令が染み渡る。
心拍数は抑えがたいほど早まり、吐き気にも似た衝動に襲われる。立っているのがやっとの状態で、視界がぐらつき始める。
「君が……僕の運命なのか……」
その男が光広の頬に触れた瞬間、理性が音を立てて引き裂かれそうになる。
「おいっ!」
背後から、低くて落ち着いた正隆の声が響いた。聞き慣れたアルトの声が、ふとした安心をもたらすが、男から引き離された瞬間、光広は新たな寂しさを感じた。
「運命だ」
男が口を押さえながら呟く。その顔には、理性を保とうと必死に耐えている様子が浮かんでいる。
甘ったるい香りが辺りを包み、光広のオメガフェロモンに反応した者たちが周囲に集まり始める。
「おい、行くぞ!」
正隆は事態の危険を察し、光広の腕をつかむと、その場を後にした。
運命には抗えない。そう思っていた。
けれども、それを疑い、否定したこともあったのだ。出会ってすぐに知らない男と運命の番になった鉄平を、どこか心の奥で責めていたからだ。
だが、今は――その考えを反省するほかない。
光広は、出会って数秒の知らない男に対して、自分の意志とは無関係に本能で欲してしまった。今すぐ彼の手を取り、番になりたいとすら思った。
それも、一歩踏み出せば、襲いかかってしまう寸前まで追い詰められたのだ。
正隆が現れなければ、自ら誘惑し、うなじを差し出していたことだろう。
彼と繋がり、うなじを噛まれる――その想像をしただけで、身体が疼き、甘く痺れるような衝動が下腹部に集まっていく。
自分が彼の子を孕むことさえ、自然と望んでしまっていた。
運命と出会うと、こんなにも抗えないものだとは。いっそ恐怖さえ覚えた。
「お前、この前ヒートが終わったばかりじゃなかったのか?」
光広の手を強く握り、早足で帰路を進む正隆が、息を荒げて問いかけた。
「終わった……んだけど……」
過呼吸に近い荒い息遣いが、光広の意識をぼんやりとさせていく。
「じゃあ、どうしてこんなにフェロモンが強いんだ?」
いつも自制している正隆が、光広の放つオメガフェロモンに対して必死に欲望を押し殺している。その姿を見るのは、数えるほどしかなかった。自分に興味がないから理性を保とうとしているのだろう――そう思うと、虚しさが心を締めつける。
もしかしたら、運命に身を委ね、あの男と番になった方が楽かもしれない。
「あの人は、俺の……運命の番なんだ」
息を整えながら、光広はひと言だけ告げた。
正隆は驚いたように足を止めたが、すぐにアパートの玄関に目をやり、鍵を催促するだけだった。
「中に入って、鍵をかけて寝ろ」
玄関に押し込められ、バタンッと扉が大きな音を立てて閉ざされる。
「なんだよそれ……!」
焼けるように熱く、溺れそうなほど苦しいこの身体。
もうどうなってもいい。どうにかして、この熱を冷ましてほしい――そう思い、光広は再び玄関を勢いよく開けた。
「抱けよ、バカ!」
鍵をかけるまで立ち去らない正隆を予想していた光広は、飛びつくように彼に抱きついた。
「やめろ……!」
「やだ」
正隆の毛嫌いするような拒絶に、光広は子どものように駄々をこねる。
「優しくする自信がないんだ!」
正隆にガバッと突き放され、光広はその言葉の意味を理解するまで数秒を要した。
「……それだけの理由で?」
「”それだけ”じゃないだろ。お前の身体が大事なんだ」
正隆の拒絶が、思いがけない理由だったことに、光広は少しだけ安堵した。魅力がないからだと思い込んでいたからだ。
「今日は……今日は酷くてもいいんだ。あの運命の男が、怖い」
熱を帯びた瞳で見つめながら、光広が訴える。
正隆は、沈黙したまま光広を見つめ返した。その沈黙はたった数秒だったが、永遠のように感じられる。
「運命に逆らったら、後悔するぞ」
「俺の運命は……俺が決める」
そう言って光広が差し出した手を、正隆はためらいながらも、ゆっくりと握り返した。
「お前は、いつも……」
光広の純粋な瞳に呆れつつも、正隆の心が揺れ動く。
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