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心配になって来てはみたものの、どうしたらいいのか、正隆は戸惑っていた。
同情など求めていないと拒まれるかと思いきや、事態は予想以上に深刻なようだった。
記憶を頼りに辿り着いたアパート前。引っ越しはしていないようだが、インターホンを何度鳴らしても応答がない。
もう帰っていないのかと諦めかけたその時、部屋の奥から鈍く重い物音が聞こえてきた。
まさか、倒れたのではないか―――そう直感し、慌てて玄関のドアノブを握ると、扉は驚くほど簡単に開いた。
誰の手もかけられていないその扉が正隆を迎え入れた瞬間、甘く、誘うような香りがふわりと漏れ出した。
脳にじわじわと染み込むようなその香りは、部屋の奥から漂っている。
―――オメガのフェロモン。発情期に特有の、甘く優美な誘惑の匂い。
「なんだ……すごい、いい匂いだな」
通りすがりの男がふと立ち止まり、玄関の前に集まりだす。
玄関の鍵は開いたままで、このままでは正隆が立ち去った後、誰かが入り込むかもしれない。正隆は急いで玄関に足を踏み入れ、中から鍵を掛けた。
部屋の中を見渡すと、脱ぎ散らかされた靴が目に入る。
今日、光広が履いていた有名格安ブランドの赤い靴。
これを見た瞬間、ここが確かに光広の部屋であることが正隆に確信させた。
脳を深く刺激してくる香りは、まだ正隆が理性を保てるほどの濃さだが、発情期が始まる兆候がありありと感じ取れる。今のうちに出なければと、正隆は声を張り上げて光広を呼んだ。
部屋の奥からは何の反応もなく、物音だけがかすかに聞こえてくるばかり。
痺れを切らした正隆は、応答を待たずに部屋の奥へと進んだ。
狭く短い廊下を進み、部屋と廊下を隔てる扉を開けた瞬間、玄関や廊下以上に重く絡みつくような香りが正隆を包んだ。鼻と口を覆い、視線を巡らせると、ソファーのあたりに脱ぎ捨てられた衣類の山が見え、その中に丸まった光広の姿があった。
「おい! 大丈夫か!」
倒れたのか、自ら床に横たわったのかはわからない。どちらにせよ、正隆は助けが必要だと判断し、光広の体に触れずに声をかけ続けた。
「んん……」
微かに返事をする光広の声は、眠気に負けた子どものようで、緊急性はなさそうだった。
その反応に正隆は安堵しつつも、「おい、起きろ」と何度も声をかけた。
早く意識を戻させ、自分はこの部屋を出なければならない。玄関の鍵をかけるよう頼むつもりで何度も声をかけるが、光広はまだ夢の中にいるようなぼんやりとした反応を繰り返すだけだった。
光広の姿は、発情期前の「巣作り」そのものだった。
オメガが発情期に入る前に、好意を抱く相手の匂いを身近に集めようとする習性―――それが巣作りだ。
この衣類の山も、きっと鉄平のものだろう。なんと残酷な光景だろうか、と正隆の胸に怒りが湧いた。
自分は番を見つけて去りながら、婚約者だった光広を縛りつけるように残していった私物。
自分を忘れるなとでも言うように。
そんな鉄平への怒りがこみ上げる一方で、正隆は巣作りに励む光広にも憤りを感じた。
もう終わったはずの関係に未練を残し、その男の匂いをかき集めている姿に、なぜか無性に腹立たしい思いが湧いてくる。
「鉄平……?」
眠気に浮かされた光広が擦った目で口にした名前に、正隆の胸中にある冷たい感情が、静かに沸騰し始めた。
「そいつはもう、お前の婚約者でもなんでもないだろ」
正隆の吐き捨てるような言葉に、光広は思わず目を丸くした。寝ぼけていた思考が一気に覚めたようで、驚きと戸惑いがその顔に浮かぶ。
「なんであんたが居るんだよ」
不法侵入だ!と抗議するように指を指すが、正隆が事情を説明すると、光広は急に黙り込んだ。
「最近、ヒートが安定しなくて……自分でもいつくるか分からなくて……すみません」
意外にも、光広は素直に謝り、申し訳なさそうな表情を見せた。
そのしおらしい姿に、正隆の中で何かがふっと揺れた。
きっとオメガのフェロモンに当てられているのだろう。
理性が少し緩んでいるに違いないと感じ、正隆は早くこの部屋から出るべきだと立ち上がろうとした。すると、光広も体を起こしたが、その痩せ細った姿が痛ましいほどだった。
初めて会った時にはもう少し健康的で、首元にも少し肉がついていたはずだ。
こんなに細く折れそうな身体ではなかった。精神的に参り、食事もろくに摂っていないのだろう。
リビングから見える台所は使われた形跡がなく、惣菜を買って食べた痕跡もない。
「食事はちゃんと摂った方がいい」
「え?」
「最近、体調が悪そうだ」
正隆に心配されることなど思いもしなかったのか、光広は驚いたような表情を浮かべ、ぽかんと口を開けている。
「あんたに心配されるようなことじゃない」
負けん気の強さか、光広は不調を隠そうとする。まるで噛みつくような表情だが、足元はふらつき、必死に踏ん張っているのがわかる。
「強がりもいいが、一人暮らしで倒れたら誰も気づかないぞ」
「うるさいな、母ちゃんみたいなこと言って……」
光広はそう言い返そうとしたが、突然ぐらりと視界が回った。
眩暈だと気づいた時にはもう遅く、身体がふわりと床に向かって倒れ込んでいく。
「おいっ!」
間一髪、正隆が光広を抱きかかえ、床に倒れるのを防いだ。
そのまま倒れていたら頭を打っていたかもしれない。
正隆は心臓が速く打つのを感じながら、眉間に皺を寄せて光広を見つめる。
「言わんこっちゃない」
不機嫌そうにも困ったようにも見える表情。無駄に整ったその顔は、街中ですれ違えば誰もが振り返るだろう。
長めに伸ばした前髪が少しその顔を隠している。
そんな彼に抱えられていることを、光広は意識してしまい、無意識に見惚れてしまった。正隆の深い息遣いが、微かに耳元に響く。
「すみません!今どけます!」
慌てて正隆の腕を振り払おうとするが、体に力が入らない。
「……まず、休め」
正隆が呆れたような声で告げると、光広は諦めたように力を抜いた。
けれど、正隆は早くこの場を離れなければならなかった。これ以上この香りを吸い込んでいたら、理性が崩れてしまいそうだったからだ。
今にも発情が本格的に始まりそうな、甘美な香り。
「いいか、俺が帰ったらすぐ鍵を閉めるんだ」
忠告を残して玄関に向かおうとするが、光広は玄関に向かう気配がない。それどころか、立ったままの姿勢で、ボロボロと涙を流している。
「は?どうした?」
感情が溢れ出した光広の姿を見て、冷静でいられるはずの正隆の心が揺れた。いったい何がいけなかったのか。自分の口調だろうか、それとも態度か。光広が泣こうが泣くまいが本来はどうでもいいはずなのに、その涙に正隆は戸惑い、どうすればいいのかわからずにいた。
オメガが発情期に近づくと情緒が不安定になると、何かで知識を得ていた。
実際、いつも隣にいた悟も発情期が近くなると些細なことで不機嫌になり、普段なら気にしないようなことでも落ち込みがちだった。
光広も同じだろうと気づいたが、どうすればいいのか頭を悩ませるばかりだった。
「親は来れないのか?」
「……」
「その状態で一人でいるのはきついだろう。親に連絡しろ」
最善の判断は親を呼ぶこと。それ以外に自分ができることはないと判断した正隆は、光広にスマートフォンを渡すよう促した。
「……」
黙ったままの光広を見ていると、親に迷惑をかけたくないという思いが伝わってくる。
深い溜息が正隆の口から漏れた。今日だけで何度目だろう。数えるのも馬鹿らしいほどの回数だ。
沈黙に包まれた空間をどうにかしたくて視線を落とすと、光広の指に白金の指輪が光っているのが目に入った。
左手の薬指に、シンプルで上品なデザインが映えていた。
その輝きは、イミテーションやファッションリングではなく、婚約か結婚を示すものだと強く主張している。
「まだそんなものを身に着けているのか」
未練がましい指輪の存在が、正隆の心に暗い影を落とした。
「あんたには関係ない」
「あいつはもう他のオメガと番ったんだぞ。変えられない事実だ。お前ももう高校を卒業し、そろそろ社会人になる年齢だろうに、まだ感情のコントロールもできないのか」
光広が「関係ない」と言い放ち、聞く耳を持たない態度に苛立ちを覚えた正隆は、つい口から辛辣な言葉が溢れ出た。
「いつまでも引き摺って、ヒートが来るたびに相手の匂いを探し求めるつもりか?そんなことだから、相手もお前から離れられないんだ。わざと悲劇の主人公になって酔いたいだけじゃないのか?お前だけが辛いんじゃない。俺だってお前の婚約者のせいで大切な人を奪われたんだ。同情でもされたいのか?」
自分でも驚くほど酷いことを言ったと気づき、言い切った後に後悔の念が胸をよぎった。
「母さんと同じこと言うんだな、お前」
小姑のようだとでも言いたげな、光広の皮肉が返ってきた。
「うるさいんだよ!アルファはオメガと違って何人でも番えるんだ!鉄平は帰ってくる……俺たちは婚約してるんだ」
光広は手にある指輪をそっと包み込み、肩を震わせる。
「……お前……」
あまりにも不憫だった。確かにアルファは複数の番を持つことができる。
だが、最初に番った相手を一番に思うのが普通だ。遠い昔には、家庭の事情で二番目、三番目の番を持つことも許されていた時代があり、そうした時代では後から番になったオメガが辛い思いをすることも多かったという。
「馬鹿なのか、お前は。自らそんな道を選ぶなんて」
「親にも言われてるよ、馬鹿だって。でも仕方ないだろ!好きなんだから!」
感情が堰を切ったように溢れ出した光広の姿に、正隆は涙を誘われる気持ちになり、息が詰まった。自分もまたアルファとして、番を持ったオメガを手に入れることができないのだから。
「鉄平は絶対に帰ってくる。だから親は呼ばない」
きっと決意を込めて正隆を睨みつける光広の瞳に、負けたような気持ちが湧き上がる。
「バカバカしい」
心の声が漏れてしまった。
「うるさい!あんたが俺を忘れさせてくれるわけでもないくせに偉そうに……帰れ!」
ドンと押され、辛い気持ちを訴える震えた声が正隆の耳を刺す。
「俺の人生だ!帰れよ、俺を馬鹿にするな!」
泣くのを堪えながら押し出す光広のその声に、正隆は反発を感じながらも、助けを求めるような思いがこもっているのではないかとさえ思えてしまう。
「お前の人生かもしれないが、そんな苦しい選択をするお前を放っておけるほど俺も酷い人間じゃない」
押されながらも、正隆は振り返って光広を見た。
「なにをどうしようっていうんだよ」
「……」
正隆は、何をしようという具体的な考えなど持っていなかった。
「抱くのか?同情ならやめてくれ、気持ち悪い」
光広は煽るような態度を見せ、どうせ何もできないだろうと嘲笑うように言った。
「お前が言い出したんだ」
ぐっと引き寄せ、首筋に唇を寄せた正隆の行動に、光広は困惑した。
「……忘れるって言ったのは、お前だろ」
光広の目に怒りと困惑が交錯し、鋭い光を放つ。
少しでも気持ちが楽になるかと思って言葉を投げかけたが、光広は更に突っぱねる態度を見せるだけだった。
正隆は奥底に沈んでいた苛立ちが、沸き上がってくるのを感じる。
彼が振り払おうとする未練は、何を言っても無駄だというあきらめを正隆に感じさせた。
「だから無意味だ。帰れ」と突き放し気味に言うが、光広はさらに煽るように返す。
「今更、怖気づいたか?」
挑戦的な光広の表情には、意地と誇りがにじみ出ていた。
正隆はその反応に、彼が思いのほか負けず嫌いな性格であることを改めて知る。それにしても、自分を売り込むようなこの態度にはあきれるばかりだ。
「お互い寂しい者同士ってわけか。じゃあ、せいぜい傷の舐め合いでもするか?ただし、絶対にお前を好きにはならないし、お前も俺を好きになるなよ」
強がりと自尊心でがんじがらめのような光広の姿を見て、正隆は皮肉を込めて、鼻で笑った。
「そうだな。寂しい気持ちを埋めるくらいの遊び感覚なら、タイプじゃないお前を抱けそうだ」
言葉だけが虚しく響き、相手をただ打ち負かすように、どちらも余裕の表情を浮かべているが、内心の葛藤を押し隠しているのは明らかだ。
軽口のように聞こえる言葉の裏に、本当にこの関係でいいのかという疑問が潜んでいた。
「おう、こいよ!」と、まるで喧嘩を売るかのような挑発に、正隆は口角を上げた。
「余裕なのも、今のうちだな」
正隆は、どうしようもない感情に突き動かされるように、光広の肩を引き寄せた。
近くで見ると、彼の瞳には微かな揺らぎが見て取れる。
意地を張っているが、その奥には拭えない不安と傷が潜んでいるように感じられた。
「本当に、それでいいんだな?」
囁くように問いかけたが、返ってくるのは冷たい視線だけ。
光広は強がって見せているが、正隆の手に伝わる肩の震えが、彼の本心を語っていた。
「……抱かれても、変わらないって言ってるんだろ?」
光広が、半ば挑発するように口を開いた。
その言葉には決意が見えるが、声の奥に滲む弱さは隠しきれていない。
正隆は、そのまま光広の顎を軽く持ち上げ、視線を合わせた。
彼がどんなに強がっても、内に抱える苦しみから逃れられないことが、その目から伝わってきたからだ。
「なら、覚悟しろよ」
そう言うと、正隆はゆっくりと光広の唇に触れた。
冷たい感触がわずかに震え、彼の固い表情が一瞬だけ崩れる。その瞬間に、二人の間にあった張り詰めた空気が、静かにほぐれ始めた気がした。
※※※
同情など求めていないと拒まれるかと思いきや、事態は予想以上に深刻なようだった。
記憶を頼りに辿り着いたアパート前。引っ越しはしていないようだが、インターホンを何度鳴らしても応答がない。
もう帰っていないのかと諦めかけたその時、部屋の奥から鈍く重い物音が聞こえてきた。
まさか、倒れたのではないか―――そう直感し、慌てて玄関のドアノブを握ると、扉は驚くほど簡単に開いた。
誰の手もかけられていないその扉が正隆を迎え入れた瞬間、甘く、誘うような香りがふわりと漏れ出した。
脳にじわじわと染み込むようなその香りは、部屋の奥から漂っている。
―――オメガのフェロモン。発情期に特有の、甘く優美な誘惑の匂い。
「なんだ……すごい、いい匂いだな」
通りすがりの男がふと立ち止まり、玄関の前に集まりだす。
玄関の鍵は開いたままで、このままでは正隆が立ち去った後、誰かが入り込むかもしれない。正隆は急いで玄関に足を踏み入れ、中から鍵を掛けた。
部屋の中を見渡すと、脱ぎ散らかされた靴が目に入る。
今日、光広が履いていた有名格安ブランドの赤い靴。
これを見た瞬間、ここが確かに光広の部屋であることが正隆に確信させた。
脳を深く刺激してくる香りは、まだ正隆が理性を保てるほどの濃さだが、発情期が始まる兆候がありありと感じ取れる。今のうちに出なければと、正隆は声を張り上げて光広を呼んだ。
部屋の奥からは何の反応もなく、物音だけがかすかに聞こえてくるばかり。
痺れを切らした正隆は、応答を待たずに部屋の奥へと進んだ。
狭く短い廊下を進み、部屋と廊下を隔てる扉を開けた瞬間、玄関や廊下以上に重く絡みつくような香りが正隆を包んだ。鼻と口を覆い、視線を巡らせると、ソファーのあたりに脱ぎ捨てられた衣類の山が見え、その中に丸まった光広の姿があった。
「おい! 大丈夫か!」
倒れたのか、自ら床に横たわったのかはわからない。どちらにせよ、正隆は助けが必要だと判断し、光広の体に触れずに声をかけ続けた。
「んん……」
微かに返事をする光広の声は、眠気に負けた子どものようで、緊急性はなさそうだった。
その反応に正隆は安堵しつつも、「おい、起きろ」と何度も声をかけた。
早く意識を戻させ、自分はこの部屋を出なければならない。玄関の鍵をかけるよう頼むつもりで何度も声をかけるが、光広はまだ夢の中にいるようなぼんやりとした反応を繰り返すだけだった。
光広の姿は、発情期前の「巣作り」そのものだった。
オメガが発情期に入る前に、好意を抱く相手の匂いを身近に集めようとする習性―――それが巣作りだ。
この衣類の山も、きっと鉄平のものだろう。なんと残酷な光景だろうか、と正隆の胸に怒りが湧いた。
自分は番を見つけて去りながら、婚約者だった光広を縛りつけるように残していった私物。
自分を忘れるなとでも言うように。
そんな鉄平への怒りがこみ上げる一方で、正隆は巣作りに励む光広にも憤りを感じた。
もう終わったはずの関係に未練を残し、その男の匂いをかき集めている姿に、なぜか無性に腹立たしい思いが湧いてくる。
「鉄平……?」
眠気に浮かされた光広が擦った目で口にした名前に、正隆の胸中にある冷たい感情が、静かに沸騰し始めた。
「そいつはもう、お前の婚約者でもなんでもないだろ」
正隆の吐き捨てるような言葉に、光広は思わず目を丸くした。寝ぼけていた思考が一気に覚めたようで、驚きと戸惑いがその顔に浮かぶ。
「なんであんたが居るんだよ」
不法侵入だ!と抗議するように指を指すが、正隆が事情を説明すると、光広は急に黙り込んだ。
「最近、ヒートが安定しなくて……自分でもいつくるか分からなくて……すみません」
意外にも、光広は素直に謝り、申し訳なさそうな表情を見せた。
そのしおらしい姿に、正隆の中で何かがふっと揺れた。
きっとオメガのフェロモンに当てられているのだろう。
理性が少し緩んでいるに違いないと感じ、正隆は早くこの部屋から出るべきだと立ち上がろうとした。すると、光広も体を起こしたが、その痩せ細った姿が痛ましいほどだった。
初めて会った時にはもう少し健康的で、首元にも少し肉がついていたはずだ。
こんなに細く折れそうな身体ではなかった。精神的に参り、食事もろくに摂っていないのだろう。
リビングから見える台所は使われた形跡がなく、惣菜を買って食べた痕跡もない。
「食事はちゃんと摂った方がいい」
「え?」
「最近、体調が悪そうだ」
正隆に心配されることなど思いもしなかったのか、光広は驚いたような表情を浮かべ、ぽかんと口を開けている。
「あんたに心配されるようなことじゃない」
負けん気の強さか、光広は不調を隠そうとする。まるで噛みつくような表情だが、足元はふらつき、必死に踏ん張っているのがわかる。
「強がりもいいが、一人暮らしで倒れたら誰も気づかないぞ」
「うるさいな、母ちゃんみたいなこと言って……」
光広はそう言い返そうとしたが、突然ぐらりと視界が回った。
眩暈だと気づいた時にはもう遅く、身体がふわりと床に向かって倒れ込んでいく。
「おいっ!」
間一髪、正隆が光広を抱きかかえ、床に倒れるのを防いだ。
そのまま倒れていたら頭を打っていたかもしれない。
正隆は心臓が速く打つのを感じながら、眉間に皺を寄せて光広を見つめる。
「言わんこっちゃない」
不機嫌そうにも困ったようにも見える表情。無駄に整ったその顔は、街中ですれ違えば誰もが振り返るだろう。
長めに伸ばした前髪が少しその顔を隠している。
そんな彼に抱えられていることを、光広は意識してしまい、無意識に見惚れてしまった。正隆の深い息遣いが、微かに耳元に響く。
「すみません!今どけます!」
慌てて正隆の腕を振り払おうとするが、体に力が入らない。
「……まず、休め」
正隆が呆れたような声で告げると、光広は諦めたように力を抜いた。
けれど、正隆は早くこの場を離れなければならなかった。これ以上この香りを吸い込んでいたら、理性が崩れてしまいそうだったからだ。
今にも発情が本格的に始まりそうな、甘美な香り。
「いいか、俺が帰ったらすぐ鍵を閉めるんだ」
忠告を残して玄関に向かおうとするが、光広は玄関に向かう気配がない。それどころか、立ったままの姿勢で、ボロボロと涙を流している。
「は?どうした?」
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光広も同じだろうと気づいたが、どうすればいいのか頭を悩ませるばかりだった。
「親は来れないのか?」
「……」
「その状態で一人でいるのはきついだろう。親に連絡しろ」
最善の判断は親を呼ぶこと。それ以外に自分ができることはないと判断した正隆は、光広にスマートフォンを渡すよう促した。
「……」
黙ったままの光広を見ていると、親に迷惑をかけたくないという思いが伝わってくる。
深い溜息が正隆の口から漏れた。今日だけで何度目だろう。数えるのも馬鹿らしいほどの回数だ。
沈黙に包まれた空間をどうにかしたくて視線を落とすと、光広の指に白金の指輪が光っているのが目に入った。
左手の薬指に、シンプルで上品なデザインが映えていた。
その輝きは、イミテーションやファッションリングではなく、婚約か結婚を示すものだと強く主張している。
「まだそんなものを身に着けているのか」
未練がましい指輪の存在が、正隆の心に暗い影を落とした。
「あんたには関係ない」
「あいつはもう他のオメガと番ったんだぞ。変えられない事実だ。お前ももう高校を卒業し、そろそろ社会人になる年齢だろうに、まだ感情のコントロールもできないのか」
光広が「関係ない」と言い放ち、聞く耳を持たない態度に苛立ちを覚えた正隆は、つい口から辛辣な言葉が溢れ出た。
「いつまでも引き摺って、ヒートが来るたびに相手の匂いを探し求めるつもりか?そんなことだから、相手もお前から離れられないんだ。わざと悲劇の主人公になって酔いたいだけじゃないのか?お前だけが辛いんじゃない。俺だってお前の婚約者のせいで大切な人を奪われたんだ。同情でもされたいのか?」
自分でも驚くほど酷いことを言ったと気づき、言い切った後に後悔の念が胸をよぎった。
「母さんと同じこと言うんだな、お前」
小姑のようだとでも言いたげな、光広の皮肉が返ってきた。
「うるさいんだよ!アルファはオメガと違って何人でも番えるんだ!鉄平は帰ってくる……俺たちは婚約してるんだ」
光広は手にある指輪をそっと包み込み、肩を震わせる。
「……お前……」
あまりにも不憫だった。確かにアルファは複数の番を持つことができる。
だが、最初に番った相手を一番に思うのが普通だ。遠い昔には、家庭の事情で二番目、三番目の番を持つことも許されていた時代があり、そうした時代では後から番になったオメガが辛い思いをすることも多かったという。
「馬鹿なのか、お前は。自らそんな道を選ぶなんて」
「親にも言われてるよ、馬鹿だって。でも仕方ないだろ!好きなんだから!」
感情が堰を切ったように溢れ出した光広の姿に、正隆は涙を誘われる気持ちになり、息が詰まった。自分もまたアルファとして、番を持ったオメガを手に入れることができないのだから。
「鉄平は絶対に帰ってくる。だから親は呼ばない」
きっと決意を込めて正隆を睨みつける光広の瞳に、負けたような気持ちが湧き上がる。
「バカバカしい」
心の声が漏れてしまった。
「うるさい!あんたが俺を忘れさせてくれるわけでもないくせに偉そうに……帰れ!」
ドンと押され、辛い気持ちを訴える震えた声が正隆の耳を刺す。
「俺の人生だ!帰れよ、俺を馬鹿にするな!」
泣くのを堪えながら押し出す光広のその声に、正隆は反発を感じながらも、助けを求めるような思いがこもっているのではないかとさえ思えてしまう。
「お前の人生かもしれないが、そんな苦しい選択をするお前を放っておけるほど俺も酷い人間じゃない」
押されながらも、正隆は振り返って光広を見た。
「なにをどうしようっていうんだよ」
「……」
正隆は、何をしようという具体的な考えなど持っていなかった。
「抱くのか?同情ならやめてくれ、気持ち悪い」
光広は煽るような態度を見せ、どうせ何もできないだろうと嘲笑うように言った。
「お前が言い出したんだ」
ぐっと引き寄せ、首筋に唇を寄せた正隆の行動に、光広は困惑した。
「……忘れるって言ったのは、お前だろ」
光広の目に怒りと困惑が交錯し、鋭い光を放つ。
少しでも気持ちが楽になるかと思って言葉を投げかけたが、光広は更に突っぱねる態度を見せるだけだった。
正隆は奥底に沈んでいた苛立ちが、沸き上がってくるのを感じる。
彼が振り払おうとする未練は、何を言っても無駄だというあきらめを正隆に感じさせた。
「だから無意味だ。帰れ」と突き放し気味に言うが、光広はさらに煽るように返す。
「今更、怖気づいたか?」
挑戦的な光広の表情には、意地と誇りがにじみ出ていた。
正隆はその反応に、彼が思いのほか負けず嫌いな性格であることを改めて知る。それにしても、自分を売り込むようなこの態度にはあきれるばかりだ。
「お互い寂しい者同士ってわけか。じゃあ、せいぜい傷の舐め合いでもするか?ただし、絶対にお前を好きにはならないし、お前も俺を好きになるなよ」
強がりと自尊心でがんじがらめのような光広の姿を見て、正隆は皮肉を込めて、鼻で笑った。
「そうだな。寂しい気持ちを埋めるくらいの遊び感覚なら、タイプじゃないお前を抱けそうだ」
言葉だけが虚しく響き、相手をただ打ち負かすように、どちらも余裕の表情を浮かべているが、内心の葛藤を押し隠しているのは明らかだ。
軽口のように聞こえる言葉の裏に、本当にこの関係でいいのかという疑問が潜んでいた。
「おう、こいよ!」と、まるで喧嘩を売るかのような挑発に、正隆は口角を上げた。
「余裕なのも、今のうちだな」
正隆は、どうしようもない感情に突き動かされるように、光広の肩を引き寄せた。
近くで見ると、彼の瞳には微かな揺らぎが見て取れる。
意地を張っているが、その奥には拭えない不安と傷が潜んでいるように感じられた。
「本当に、それでいいんだな?」
囁くように問いかけたが、返ってくるのは冷たい視線だけ。
光広は強がって見せているが、正隆の手に伝わる肩の震えが、彼の本心を語っていた。
「……抱かれても、変わらないって言ってるんだろ?」
光広が、半ば挑発するように口を開いた。
その言葉には決意が見えるが、声の奥に滲む弱さは隠しきれていない。
正隆は、そのまま光広の顎を軽く持ち上げ、視線を合わせた。
彼がどんなに強がっても、内に抱える苦しみから逃れられないことが、その目から伝わってきたからだ。
「なら、覚悟しろよ」
そう言うと、正隆はゆっくりと光広の唇に触れた。
冷たい感触がわずかに震え、彼の固い表情が一瞬だけ崩れる。その瞬間に、二人の間にあった張り詰めた空気が、静かにほぐれ始めた気がした。
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