オメガのホストはベータとして生きる

柴楽 松

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33)和司の気持ち

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 夜の冬の空から、雨がぽつぽつと降りだした。冷たい雨粒が、暗い街並みを静かに濡らし始める。歩いている人々も、慌ててタクシーに乗り込んだり、開いている店に駆け込んだりして、なんとか雨を避けようとしていた。しかし、やがて街にひと気はなくなり、静けさと共に冷気が一層強くなっていく。

 降り出してから、ほんの数分。空が急に泣き出したように、激しく雨が降り出した。地面に叩きつけられた雨の音が、街の静けさを破り、遠くまで響き渡る。

 雨足が強くなると同時に、タクシーを待つ人々が増え、なかなか空車が捕まらない。和司と梓は、どんどんと濡れていき、冷たいコートが身にしみていった。

 この冷たさが、かえって冷静にさせるのだろう。
梓は、和司と繋がれた自分の手をじっと見つめながら、足を止めた。

「すまない、寒い思いをさせているが、歩くしかない」

 和司が、雨に打たれながら、疲れた表情で謝る。どう見ても、梓が疲れていると察したようだ。

「やっぱり、ダメですよ」

 梓は俯き、震えるような声で、和司に言葉を返す。

「俺が言い出したことだけど、こんなことしてはいけない」

 婚約者がいる和司に冗談でも頼んだ自分の言葉、そしてその頼みに応じてしまった和司の行動に、梓は自分の甘さを感じていた。自分が和司に甘えている、そんな自分が許せない。

 そして、梓ははっきりと感じていた。自分は、和司を諦められない方向に進んでいることを。

 思いを伝えたその時から、和司に対する気持ちは変わらずに、むしろ深くなっていった。諦めようとしても、毎日思い出すのは和司と過ごした楽しい日々や、助けてくれたあの日々だ。入院中、取り調べと言いながら、何度も見舞いに来てくれた和司の姿が、梓の心に深く刻まれている。

 そして、唇が重なったあの甘い記憶も――あれだけは、どうしても忘れられなかった。もう一度、その感触を味わいたいと思ってしまう。けれど、それを望む自分が嫌になる。

「また、和司さんに触れたら、もう……本当に諦めきれなくなる」

 だからこそ、もう辞めよう。梓は自分にそう告げ、和司の手を自らの意思で解いた。

「ちゃんと帰りますから……無かったことにしましょう」

 梓は言い切り、和司を置いて歩き出した。だが、和司がその腕を強く引き寄せる。

「待て」

 和司の手が強く引いた。梓の足が止まった。

「ダメですって……本当にダメなんです!」

 振り向かない梓の肩が微かに震えている。寒さで震えているようにも見えるが、状況を読めば、梓が泣いていることに気づくだろう。雨なのか、涙なのか、区別がつかないほどに濡れた頬を、和司は冷たくなった手で優しく触れた。

「諦めなくても、いいんじゃないか」

 和司の言葉に、梓は一瞬理解ができなかった。何を言っているのか、全く見当がつかず、困惑して振り向く。

「俺も諦めが悪いようで……だから、村上くんの頼みに漬け込んだんだ」

 和司の手が、梓の頬を優しくなぞり、そのまま梓の唇に触れる。

「君とキスしたこと、俺は忘れられないでいる」

 和司の声は甘く、低く響いた。その声に包まれるように、梓の心は揺れ動く。

「俺もケジメをつけないとな……ちゃんと相手には話すから」

 少しずつ、梓の思考が和司の言葉に追いついていく。しかし、それが本当に和司の気持ちなのか、自分の思い込みではないかと、梓は不安になる。

「君のことが好きだよ」

 和司が、まっすぐに梓に言い切る。その言葉に、梓の心が震える。和司の目に宿る真剣な気持ちを感じ、梓は次の言葉を待つ。

「だから、諦めないで、俺と一緒になってほしい」

 その瞬間、梓は夢を見ているような気分になった。現実が信じられないほど、まるで幻想の中にいるような気がした。

「うそ……」
「嘘じゃない」
「どうして……いつから……」

 混乱する梓を見て、和司は迷わず自分の気持ちを伝えることを決めた。

「君が中学生の頃、一目惚れして……その後、同じマンションに住み始めた時に見かけた時かな……」

 正確な年数や日付などは覚えていないと和司は笑いながら言う。だが、その真摯な気持ちに、梓はどんどん引き込まれていく。

「俺は、君に二回恋をしているよ」

 恥ずかしそうに、けれどまっすぐに、和司は梓に告げた。

 和司は、梓が弟の清武に好意を抱いていることを知り、それでも自分の気持ちを必死に抑えてきたことを告げた。そして、婚約をしたのも、梓を諦めるためだったと、ようやくその本当の理由を口にした。その上で、行方不明になった時の不安や、事件の加害者に対する怒りが今でも収まらないことも伝えた。

 梓の衣類と壊れたスマートフォンが川岸に落ちていたことを調査の際に知らされた。そこから話が続く。

 川岸での一週間の捜索で、梓の遺体が見つからなかったことに、和司は一瞬の安堵と共に深い不安を感じた。
その後、さらに続いた一ヶ月近い捜索で、情報が一切見つからないことに焦り、心が次第に乱れていった。
仕事も手につかず、ただただ不安で仕方なかった。
そして、梓が生きて発見された時、その喜びは言葉では表せないほどのものだった。

 和司は、梓が信じてくれていない様子を見て、細かくその気持ちを伝えなければならないと思った。

 梓は、和司の言葉を同情だと思い込んでいたのか、疑いの目で和司を見つめている。だからこそ、和司は自分の気持ちを、より詳細に伝えることにした。

「発見され、入院した際、君が恐怖を感じていなかったことに気づいた時、俺はすごく安心した。そして、そこで自分の気持ちがはっきりと分かったんだ。でも、それと同時に、ひとつ不安もあった。君が、これまで清武だけを見ていたのに、急に俺に好意を抱いてくれたことが、恐怖から生まれた錯覚なんじゃないかって。それが怖くて、俺は君から離れるべきだと思ったんだ」

 和司はそう告げながら、自己嫌悪に似た感情を抱えていた。

「あの時は、すまなかった」

 反省し、無意識にそう言葉にしてしまう和司。彼の顔には、自分がどれだけ迷っていたかが色濃く浮かんでいた。

「君が捨て台詞を残して家を出たと聞いた時、あの事件を思い出して、すごく不安で仕方なかったんだ。無事に見つかったとき、どうしようもなく抱きしめたくなったよ」

 梓に頼まれたことで、心が揺れ動き、そして今もなお自分のことを好きでいてくれると知って、和司はほっとしていた。

「俺が君を好きだという気持ちは、気持ちの錯覚なんかじゃない。今では、いや、今も確かに思っているよ。君が好きだ」

 和司は、もう一度、梓に触れたくて仕方がない自分を正直に告げた。

「不謹慎だが……あの事件で、君への気持ちが、改めて本当に強いものだと気づいた」

 普段、言葉にすることを得意としない和司が、精一杯の気持ちを梓に伝えていた。その言葉に込められた想いは、真剣そのものであった。

 和司のまっすぐな告白に、梓は顔を真っ赤に染め、言葉を失って和司を見つめていた。その視線には、すべての答えが込められていた。

 お互いに、もう答えは決まっていた。

「おいで……」

 和司がその言葉を告げると、梓はその腕に引き寄せられ、身体を寄せて、和司の唇に自分の唇を重ねた。
梓は、冷え切った身体を温めるように、和司の手に優しく触れ、抱きしめられる。

「斎藤さん……」

 梓は、和司の背中に腕を回し、その瞬間が自分の答えだと感じていた。

 二人は、甘く温かな気持ちに満たされ、深く唇を重ねていた。まるで冬の寒ささえも忘れるかのように、二人だけの熱い空間が広がっていった。

 その時、外の雨はますます強く降り続け、二人の熱を冷まそうとしているかのようだった。
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