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32)諦めの悪さ

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「本気で言っているのか?」

 和司は梓の言葉を受け、目を大きく見開き、驚きと疑念を混ぜた表情を浮かべた。

「はい。色々考えて、これが一番納得できると思うんです」

 梓は決意を固め、しっかりとした声でそう言った。しかし、その顔には、どこか深い悲しみが滲んでいるのを和司は見逃さなかった。

 オメガ男性が子宮を摘出した場合、繁殖機能は男性器に集中する可能性が高いという噂はある。それは、アルファ女性が去勢されることで、身体が妊娠機能を優先させるのと同じだと思われているからだ。
所詮それは都市伝説のような噂話であり、根拠のない話ではある。
だがそういう者同士が番になれば、双方の利益と損害が一致すると誰もが思うだろう。

しかし、それが梓の望む道だとは思えなかった。

 梓はベータとしての生き方を選んだ。それが、彼の中で一番納得のいく選択だった。
そして、何より和司を諦めることで、清武との別れも近づく。
そう、梓は考えていた。しかし、あと一歩で踏み切れない自分が、和司をじっと見つめた。

「それで、斎藤さんにお願いがあるんですが」
「なんだ?」
「あんな事件のこともあるし、オメガとしての思い出が、知らない人に抱かれた記憶で終わるのが嫌なんです」

 和司は、一瞬その言葉の意味が掴めなかった。何を言いたいのか、全く予想がつかなかったからだ。
次の第二回公判で、ちゃんとした判決が下されることを願っているのだろうと思いきや、それが梓の本心ではなかった。

「オメガとしては最後になると思うんですよ」
「……?」

 その一言に続けて、梓はゆっくりと告げた。

「一回でいいんで、俺のこと抱いてくれませんか?」

 和司の心臓が、はっと止まりそうになった。
まさか、そのような頼みが出てくるとは思いもしなかった。
梓の目には、何か痛みと決意が交錯しているのがわかった。

 梓は、婚約者がいる和司が、そのような頼みを受け入れることはないと、最初から分かっていた。
それでも、和司がどんな反応を示すかを見たかったのだ。
そして、自分自身が抱える矛盾を、和司の前でぶつけたかった。

「どうせ取ってしまうなら、最後の思い出にでもって感じでしたけど、無理ですよね」

 梓はそう言って、肩をすくめながら、軽く微笑んだ。だが、その微笑みは、どこか切なさと絶望が滲み出ていた。

「無理なら、今日はあの人たちと過ごすんで、斎藤さんは帰ってくださ……」

 だが、その言葉は途中で止まった。和司が、予想外にもその言葉を遮った。

「解った」

 その返事は、梓が思いもよらなかった答えだった。驚きと戸惑いが混じった表情で、梓は和司を見つめる。

「え?」

 和司は、冷静に見えて、その目には微かな動揺が隠しきれずに見えた。

「そうすれば、帰る約束をするし、諦めもつくんだろう?」

 和司の言葉は、冷たくもなく、温かくもなく、どこかしら諦めと覚悟が混じったものだった。

「……え?」

 梓はその返事に、さらに驚き、目を見開いた。自分の頼みがこんな形で返ってくるとは、想像もしていなかった。

「待ってください、冗談ですよ」
「冗談の割には、君が本気で辛そうに見えるが?」

 和司は冷静に答えながらも、その目には少しの迷いが見えた。

「君が決めた未来に、俺がどうこう言える立場ではない。しかし、一度協力することはできる」

 業務的な言葉だが、そこに少しの感情が滲んでいた。
和司が本当に答えを出したのか、それとも自分を試しているのか、梓はわからなかった。

「どうして……婚約してるじゃないですか……」
「……まだ婚約だ」

その言葉に、梓の中で何かが崩れた。断られると覚悟していた自分が、どうしていいかわからなくなり、俯いた。

「酷い男だと思うだろう。幻滅したか?」
「いえ……」

 梓は、自分が冗談で言った言葉が、思いもよらぬ方向に進んだことに戸惑いながらも、心の奥底で少し安堵を感じていた。

和司の手が、ふと梓の手に触れ、心臓が一瞬大きく跳ねる。

「俺も、なかなか諦めがつかないみたいでな」

「帰ろう」

 その言葉に、梓は無意識のうちに頷き、誘われるまま席を立った。
心の中で迷いが渦巻くが、足は自然と和司についていった。





「今日は帰ることにした。心配をかけてすまなかった」

 和司は、梓の手をぎゅっと握りしめたまま、三人の席に向かって歩み寄った。

「……ちょっと、脅しじゃないでしょうね?」

 悠里の眼差しが鋭く、和司を睨んだ。

「大丈夫です、悠里さん。僕、今日は帰ります」

 その言葉に、悠里は顔を真っ赤にして立ち上がりそうになったが、すぐに梓が間に入るようにして声をかけた。

「あずちん……」

 その呼びかけに、悠里はハッと息を呑んで止まる。目の前で、和司と手を繋いだまま、少し恥ずかしそうに俯く梓の姿が見えた。それは、まるで脅しなどではなく、二人の間で自然に交わされた合意の証だった。

「あずちん、それでいいの?」
「……うん」

「……あーそう。気を付けてね。何かあったらすぐに連絡してよ!殴り込みにいくから!」
「本当に、いつもすみません」

 悠里は気まずそうに顔を背け、でもどこか諦めたような顔をした。梓と和司が店を出る前に、何度か気をつけろと声をかけたが、その目には小さな悲しみが滲んでいた。

店を出ると、外はすっかり暗くなり、冷たい雨がひっそりと降り始めていた。

「……あれ?雨、降ってる?」

 雪見が窓の外を見て呟く。冬の冷たい空気に、降り積もるのは雪ではなく、湿った冷たい雨だった。

「ちょっとあの二人、傘あるのかな?大丈夫?」

 悠里は不安そうに目を凝らして、暗闇の中に消えていく二人の姿を探した。

「大丈夫だろ。俺たちが心配することじゃないって」
 
 佳充がスマートフォンで天気予報を検索しながら言い放った。

「あーあ。悠里、振られちゃったね」
「悠里は梓を気に入ってたもんなー」

 雪見と佳充がニヤニヤした表情を見せた。

「まあ、悠里はこのままでいいんだ」
「そうそう、まだ誰かのものになっちゃダメだよー」

「なにそれ!うっさいな!もー今日は飲み行くよ!」

 悠里は、薄っすらと目に涙を滲ませていた。
梓に好意を抱いていた悠里の、見事な玉砕であった。

「悠里の失恋記念だね!飲みに行こう!」
「賛成。いまからずっと雨マークだから宅飲みだな」
「えー?嫌だ!あなたたちの家なんか絶対イヤ!」

 佳充と雪見は、二人の家で飲みたくない悠里を気遣いつつ、タクシーの手配を始めた。

 店内に残されたのは、数人の客と、静かな空間。

まるで物語がひと段落したように、穏やかな空気が広がっていった。
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