怪盗&

まめ

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怪盗&と羊の足の鏡

相棒になる

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 洗脳兵器を使えばどうなるか。人は自分が自分の意思で生きていると思っている。それが――そうではなかったら?
「羊の足」のある構成員は任務を忠実にこなす自分を誇りに思っている。自分を拾ってくれた「羊の足」の人間に恩があった。その人物を裏切るなど彼には考えられない。

 ――しかし。

「どうした、何故、裏切る、おい――」

 男は気絶させた恩人を見下ろして、自分の行為に疑問を抱かなかった。何故ならそれは彼の意思だから。まぎれもなく彼の意思だと彼は信じ込んでいる。

 そのようにして、今、「羊の足」の本拠地は混乱に陥っている。アンドの潜入によって、思考が捻じ曲げられて、ほとんど全員が自分の意思だと信じて「羊の足」に反する行為をしている。

 前後の文脈をまるで無視した世界が構築されていた。世界を思い通りにしてしまえる力。彼が「世界が滅べばよい」と思えば、人類は例外なく自分の望みだと信じて、安らかに眠りにつくだろう。
現状の混乱では死人も重傷者も出ていない。それが不思議なほどの力、手を握る必要も、本来の力を使おうとするのなら、彼には必要ない。

 アンドは何にも妨げられることがない。エレベーターが開いた。セキュリティが多重にかかった全てが、「羊の足」の人間自身の手で解除されている。

「フィクサーさ――」

 彼は言葉を失った。

 床も壁も天井までも鏡の部屋の真ん中で、フィクサーが身を抱くようにして倒れている。頭を抱えて、髪をかき乱したのか、いつもゆるく結わえている髪が解けていた。身体は小刻みに震えている。その顔にいつものせせら笑いはなく、目は虚空を見て瞬きもない。呼気が漏れる音すらひび割れるほどに、喉がかれている。

 泣いたことなど見たことがないフィクサー。その頬には泣きつくして乾いた涙の跡があった。
幾度も気絶と覚醒を強制的に繰り返され、苛まれ続け、ぼろ雑巾のようなありさまになった彼がそこに転がっている。

 アンドは黙り込んで立ち尽くしていた。

 不意に静寂が破られる。多数の足音。見えない場所に隠れていた「羊の足」の構成員たちが部屋へなだれ込む。銃を構えた彼等が、銃口を向けたのは――「羊の足」のボス。

 「羊の足」のボスは嘲笑うように口元を歪めて、アンドに言った。

「兵器としてよくできているな――触れずとも、自分の意のままに操れるのなら、確かに便利だ。私としては無骨な兵器の方が好みなのだけれど。今度発注するときはそうしようか」

 家電が思い通り以上に動いたかのような目で、男はアンドを見ている。アンドは黙って睨んでいた。彼は怒っている。怒ることのできるようになった彼は、頭に血が上ってしまったかのように怒っていた。

「――がらくたジャンク

 小さな音をアンドは聞き逃さなかった。怒りに我を忘れそうになったことすら、一瞬で消えてしまったかのように、フィクサーに駆け寄った。

 アンドの意識が逸れたことで、思考を捻じ曲げられていた構成員たちは戸惑い、慌てて銃口をボスから引き離す。
 アンドが腕で半身を抱え上げるようにしたフィクサーは盛大に顔を顰めた。

「……いよいよ悪夢が酷くなってきたな、馬鹿が」

 吐き捨てるように悪態をついて、彼は睨み大きく息を吸う。かれている痛々しい声を、さらに痛めつけるように、怒鳴った。

「何故来た!記憶データは消した、アンドロイドのガキも呼んだ、それなのに、何故――」
「――僕に消えない意思があるから。怒れるようにもなったんですよ。だから、怒りに来たんです。……相棒ですからね」

 静かな調子でアンドは言って、柔らかく微笑んだ。そして、唐突に大声を出す。大きな身体から響いた声が空気を揺らした。

「フィクサーさんの馬鹿!大っ嫌い!置いて行くなんて酷いです!勝手に僕の記憶データ消しちゃうし!何にも説明してくれないし!アイリスは危ないところに呼ぶし!僕は許しませんからね、謝ったって許しません!」

 フィクサーは疲弊した顔をぽかんとさせて目を瞬いた。アンドは珍しい彼の表情を気にするふうもなく、「よし、怒るのは終わり!」と威勢よく付け加えた。そして、青空にフィクサーが映る。

「――帰りましょう、フィクサーさん」

 澄んだ青色に染まったようなフィクサーの瞳が僅かに揺れる。溜息をついて肩を竦めた。返事はしない。
 表情の読めない顔でただ見ていた「羊の足」のボスは頬杖をやめる。首を振った。

「――悪いが、が帰る場所はここだ。こちらの世界以外の何処にもいけない。生憎と平穏で退屈な世間には適応できない生き物だ――お前もそう、存分に思い知っただろう?」
「ああそうだな――あんたがしつこくて鬱陶しくて性格が悪いことを。嫌われ者だという自覚がないあたり救いようもないな。この俺でも、もう少しマシだと世界中に弁明したいくらいだ」

 皮肉をありったけ集めて押し込めたような声音と共に、彼は鼻で笑った。アンドがいつもの調子を取り戻したその顔に思わず顔を綻ばせる。
 やれやれと「羊の足」のボスは肩を竦めて、アンドに言った。

「――動くな」

 アンドの四肢は縫い付けられたように動かなくなる。彼は戸惑って、目を白黒させた。
 アンドの青空のような瞳が、二つともいる。――彼を兵器として起動させでもしたように。

まるで部下が粗相をしたことを謝る穏健な上司のような表情を作って、「羊の足」のボスは清々しいほど心のこもっていない言葉を吐く。

「すまない、わからなかったかな?私がよくできた兵器に、弱みを持たせないわけがないだろう?私だけが支配できるように、アンドロイドの人格を形成する知識のはじまり、基礎の領域に仕込んである。壊すまで見つけることもできないような場所だ」

 そう言って、塵を見るかのような目が細められた。

「さて――使おうか。兵器は使わねば意味がない。私は終末論を謳う宗教家ではないが。戦争をいくつか起こして、世界経済を回さなければならないからな」

 フィクサーがはっとしたように目を見開いて、立ち上がろうとする。その足は縺れてふらついた。顔色が悪い。
動こうとすれば視界に鏡が入る。彼を自由にしてくれる青空は曇ってしまった。「羊の足」のボスの勝ち誇るような笑みと共に、彼は鏡に引き戻されてしまう。鏡を見ている限り、彼は苦しいままだった。

 アンドは床に倒れこんだフィクサーを支えることもできずに、動けないでいる。「羊の足」のボスの命令が意思を奪ったように、身体はびくともしない。

 再度立ち上がろうとして、また倒れこんだフィクサーの目が虚空を見つめる。その目から意思が徐々に薄れていくのを、アンドは何もできずに眼差す。

 アンドの意思と反して、勝手に誰かを傷つけるために力が発動しようとしている。必死に止めようとして、彼の思考が断続を繰り返す。

 ――駄目だ。僕は諦めてはいけない。諦めたら、フィクサーさんもきっと諦めてしまう。帰れないと、運命には勝てないと諦めてしまう。

彼は目に力を入れて、そっと心の内で呟いた。

 ――僕は世界を滅ぼさないし、兵器として使われたりしない。ねえ、夕日の僕、僕は君と一緒に生きていくよ、押し付けられた運命を変えちゃえるように、ずっとずっと。

 アンドは運命を変えたい。世界を滅ぼす運命を変えるには、ことを、必要がある。アンドが停止するまで、終わりはない。終わりはなくても、それでも彼は運命を変えたいのだ。

 自分のために、もう一人の自分のために、そして、フィクサーのために。一度たりとも失敗が許されない、運命と戦う日々を歩もうとしている。

 アンドは思考する。強制的な回路を無理にせき止めれば、火花が散るような感覚。彼は眉を寄せる。赤く染められた目が、青を取り戻しかけてもとに戻る。彼は抵抗をやめなかった。
 回路が悲鳴を上げ、ショートして停止しそうになる意識を保つのは彼の意思。消えることのない意思が、彼を繋ぎとめている。

 瞳から血を流しているかのように目は赤く。彼の身体の中が破壊され、痛み、苦しくても、彼は抗い続ける。人に近づいた彼は痛い。人のように痛くて苦しい。呼吸はアンドロイドにはないが、負荷がかかった熱を逃がすように彼の口から音が漏れる。瞳の赤色が薄れて、明滅する。

 フィクサーが立ち上がろうと手を伸ばす。幻覚の中を彷徨うような感覚の中、青空が見えた気がした。

「――僕は兵器じゃない、僕はアンドだ!」

 青くなった瞳と共に、彼の身体はようやく自由を得て、その手が「羊の足」のボスの手を掴む。掴まれた方だけでなく掴んだ方まで、掴んだことに驚いたように、目が見開かれた。

 アンドの大柄な体に引っ張られるように、デスクの向こうから男は引き寄せられる。デスクから紙束とペンが床に落ちた。紙がひらひらと舞う。高い音を立ててペンが鏡の床を跳ね、キャップが外れ飛んだ。椅子が後ろにひっくり返る。

 アンドが叫ぶ。

「寝てください!」

「羊の足」のボスは目を見開いたまま、そのまま後ろに倒れこむ。その唇が何事か囁こうとしたのがアンドには見えた。倒れた彼は動かない。眠っているだけだ。アンドが怪盗アンドとして使っていた〝記憶データ入力〟……脳に記憶データを流し込んで負荷を与えて、一時的に意識を奪う。

 必死であったのと、怒りという感情を得たせいで、強く働いてしまった。数日で目覚めることは少なくともない。アンドは男が生きていることを確認して、ほっとする。そうでなければ、彼の運命を変えるという望みは頓挫してしまう。

 次に、アンドはデスクの上のパソコンにアクセスして、部屋の鏡の上に映像を投影した。壁も窓も天井も鏡でなくなる。フィクサーの元へ駆け寄って、膝をついて覗き込んだ。

「フィクサーさん、大丈夫ですか?」
「お前の能天気な声で頭が痛い、どうしてくれる」
「痛いんですか?それは大変です、やっぱりここから離れましょう!ね?」
「そういう意味じゃねえ」

 吐き捨てて、アンドの手を突っぱねて彼はゆっくり立ち上がった。
 倒れた自分の父を見て、自分の腰の拳銃に触れる。拳銃を抜いて今にも突きつけようとするように。アンドははっと目を見開く。

 何かを考え込むようにしばらくじっと見下ろしていて、結局彼は何もしなかった。アンドが何か言いかける前に彼は背を向けた。三歩前へ歩いてから、立ち止まる。

「……帰るぞ、がらくたジャンク

 フィクサーは心底馬鹿にしたような顔で、振り向いて言った。アンドは花が咲くように笑う。

「帰りましょう!」





 EIFエルスイフは先程から唸っている。頭を抱えて震えていた。

「私は悪くない、私は悪くない、ああ、どうしよう、また捕らわれるのは嫌なのに、どうして」
「「羊の足」の妨害をすると言い出したのは君だろう、怖がりさんエルスイフ。本当に君は面倒なことをするね。怖いのに。君はそういう人だから仕方がないけれど」

 モルタの返答に、EIFエルスイフは首を振って額を押さえる。眩暈がするようにふらついて机に手をついた。

「――世界平和のための別の道を探すと決めただけだ、私は悪くないぞ、「羊の足」に関わるのはもう嫌なのに、嫌なのに、どうしてこうなるんだ!私ばかり」
「優しいからだと思うけどね、僕は」

 モルタはアンニュイな顔で、窓の外へ目をやる。透き通るような青空。静かに思考を巡らせる。

 運命は変えられない。それはモルタがこの世で一番知っていて、諦めきっている真実だった。モルタは運命を変えるために歩み続けるというアンドの選んだ選択を知っている。自分にはない選択だった。

「自分にないものは美しく見えるものだね、だから僕は愛せなくても――やめようか、無駄なことは。面倒だものね」

 独り言のような囁きに、EIFエルスイフはクマのある目を瞬く。目が合って、モルタは話題を転じる。

怖がりさんエルスイフは運命はどういうものだと思うのかな」
「……怖いものだ、酷いことばかり、私は悪くないのに、どうして私ばかり――」

 ぶつぶつと呟きだした彼に肩を竦める。モルタは質問する前からその答えをすでに知っていた。だからこそ、面倒ということになるのだが。

 ――君がいるから怖くない、と。そう彼が来るべき未来に言うことも知っている。気だるげにモルタは白い短剣の柄を撫でた。決まっている運命の象徴。アンドならば否定するものだった。

「愛には愛を返す。想いは釣り合わなければいけない。……あの二人も少しは不均衡でなくなった頃だね」

 窓の外の青空に囁いた。







 空が焼けている。斜陽が空を焼いている下で、アンドは首を傾げた。

「フィクサーさんは「羊の足」から離れないんですか?」
「あの男の業を背負ってやる義理はないが、奴がおねんねしているとあちこちで不具合が起きて鬱陶しいからな。――目覚める頃には、綺麗に「羊の足」を乗っ取って、居場所を奪って、完膚なきまで心を折る。――この俺が甘ちゃんだと勘違いされるのは反吐が出るからな」

 ふんと鼻を鳴らしたフィクサーに、アンドは笑った。そして、口を開く。

「僕はアイリスと僕を作った人にもう一度会いに行きます。怒ったら加減がきかなくて。世界が滅んじゃうのは嫌だから、僕が暴走しないように、どうにかする方法を探すんです」

 にこにことアンドは笑った。フィクサーはその顔に、自分が思っていたよりも彼が深く思考し、意思を持っていることをあらためて実感する。
 フィクサーは黙ってしばらく眺めていたが、不意に視線を逸らした。夕空はどこまでも広い。

「ちゃんと用事が済んだら、迎えに行きますからね、フィクサーさんは怪盗アンドの相棒ですから」
「迎えに行く?馬鹿馬鹿しいな。この俺が、退屈のあまりに、うっかり世界を平和にして、お前のの価値がなくなってたら笑ってやるよ」

 「まあ世界平和なんぞこの世であの男の次にどうでもいい事象だが」と付け加えてフィクサーは肩を竦めた。アンドは黙っている。フィクサーは目を瞬いた。

「それです!フィクサーさん!」

 大声にわざとらしく耳を塞いで、フィクサーは顔を顰めた。アンドは気にせずに、優しく微笑んだ。

「――フィクサーさんは僕とんですね、ずっと」

 怪盗アンドと相棒の技術者のフィクサー。アンドが認識改変によって生み出した虚構に過ぎない。しかし、彼は確信し笑う。

 ――さながらごっこ遊びのように。記憶データを消し、虚構に過ぎない日常を引き延ばし続けたフィクサーは、アンドと遊んでくれていたのだ、と。

 ……アンドは彼と遊ぶことが一等好きだから。

 フィクサーは黙り込む。その目が金色の髪で隠れて陰になった。不意に彼は口を開く。

「俺はお前がお前の思う通りに、都合よく幸せになれるとまで、頭の悪いことは思えないが。……精々足掻けよ、アンド」

 シニカルに笑って、彼は黒い手袋を外した手を差し出した。かつてアンドが手に触れて記憶データが見えてしまってから、決して自分では外していなかった手袋だ。それを外し、握手を求めるように手を差し出しているフィクサー。

 信じられないものを見たようにアンドは固まった。驚いて目を丸くしたまま動かない。彼がにやにや嫌な笑いを浮かべながら、手を引っ込めようとするものだから、アンドは慌てて握る。

 赤い空は鮮やかで、心に焼けつくような色。決して忘れないような色彩の中で、握られた手の影が地面に長く伸びていた。
アンドの瞳は淵を美しく紅に染めて、その奥は澄んだ空を見せている。その真ん中にフィクサーの姿が映っていた。

 ――くだらない一時の夢だった。だが――……悪くはなかったな。

 アンドに聞こえたそれはとても優しい音だった。



 こうして、歪んだ笑みの孤独な技術者は幸せを願い、何も知らなかった怪盗アンドロイドは運命に抗う。

 彼等はようやくこの日、「相棒」になった。



END
 
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