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一章 誰かを救うために世界を変えたとして

神を詐称する化け物だよ

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青い蝶が飛んでいる。キラキラと輝く羽を揺らして、指先に止まった。

「ーーおかえりなさい、ツムグくん。無事だね、素晴らしいことだよ。ーー今日も

コバルトブルーの蝶を指から飛び立たせて振り向いたのは、木漏れ日のような人だった。

まるで昼と夜が一つにならないように、はっきりと白黒の境界を持つ異質な髪が目を引く。白と黒が、混ざって灰になることなく、縞のような斑のような模様を作っている。

男とも女ともはっきりとは言い難い、ただ作り物じみた整った造形の顔立ち。

瞳は色が定かではない。光の加減で青が射すようにも、赤が射すようにも、色がないようにも見えて。

ーー美しい人。それは確かだが、輪郭が曖昧になるほど、内から光を纏っているようで、特異な美貌でありながら。男であるのか、女であるのか、老いているのか、若いのか。認識されることを拒むように全ての印象がぼやけていた。

ツムグは顔を盛大に顰める。眼鏡をかけた鋭利な眼差しが向けられた。

「ーー無事だね、だ?トトノエ、お前の中の無事の定義はどうなってるんだ」
「実際、命としては無事じゃないか。火傷もちゃんと治るだろう?」
「それはそれは、お優しいことで」
「ツムグくんは人に心配されたら、相手を殺したがるんだから、良いじゃない。僕を殺すのはやめてほしいかな」

ツムグの言葉に、トトノエは微笑んで両手をあげてみせた。彼ないし彼女はーーのでどちらでもないがーーデッドラインという組織の長、ボスである。

トトノエは敬われることを好まない。そういう意味では、ツムグの上司への遠慮と礼儀を放棄した態度は、トトノエの意に沿っている。もちろん彼にそんな思惑などなくて、ただただ他人全般に無礼なだけである。

デッドラインは現実改変能力者から現実を守る組織だ。

現実改変能力者が何でも好きに現実を設定できたとして、何故現実を守る必要があるのかーー当然、守らなければ人類に不利益だからだ。なんせ、実際、人類の母星を戯れのように、特になんのドラマもなく、消し去ったのだから。

もともと人類は××地球という星に住んでいたらしい。ある日、現実改変能力によってその母星は消滅した。実体も痕跡も失い、あらゆる記憶からも、過去の事実に遡って綺麗になかったことになり、存在が消えた。それを生き延びた人間が代わりに作った虚星が、今ツムグが立っている場所だ。

ーーまるごと消えたのなら人類がどうやって生き延びたのか?そもそもなぜ存在が消えたものを覚えているのか?

その全てはーー全ては言い過ぎにしても8割以上は、トトノエという白黒の対立を髪に持つ現実改変能力者の力による。

トトノエがいなければ、人類は歴史上から存在ごと消えていた。

ーー人類がうっかり知らぬ間に消滅しかけたのを知られぬ内に救い、今まさに人類の現実を繋ぎ止めている規格外の力。地球の消失は一般には隠蔽されているゆえに、その恐るべき偉業を知っているのはデッドラインや政府の人間くらいだが。実際、トトノエを神であると心酔する構成員は少なくない。

「で、用はなんだ」
「用がないと呼んではいけない?親睦を深めようよ。くだらない話がしたいな、話した側から忘れてしまうような、いかにも日常のとりとめのない……この世ではいつ失うかわからない価値ある現実さ」
「残念ながら、仲良くしてーーお前の信者になるのは御免だね。神に縋るなぞ、弱くて優しい奴がやることだ」
「君は素直に言葉を使いすぎるね。誤解されちゃうよ」

慈愛のこもった柔い瞳を向けて、トトノエは肩を竦めた。ツムグは眼鏡の向こうで眉間に皺を寄せた。

苛立てば平気でトリガーを引く人間が気づけば会話しているあたり、トトノエの持つ穏やかな空気に毒されている。

それを自覚するたびにツムグは苦手になっていくーートトノエはどうにも万人の扱いが上手いところがあった。どういう言葉が、どういう態度が相手に好感を持たせるか、相手に悪意を抱かせないか、全て知っているように。

柔らかい光が落ちる吹き抜けの図書館のような部屋。全方位の壁はぎっしりと詰まった本棚のように見えて、天井まで埋まっている。

ーー本棚ではないが。これが本棚であったならツムグは毎日通っていただろうが、残念ながら本に見えるのは箱の縁である。

夥しい蝶の標本が箱に収められ、その箱が目を楽しませることもなく仕舞われて、壁を埋め尽くした部屋。その部屋の真ん中で、青い蝶を纏わりつかすように、トトノエは立っていた。ひらひらと舞う青い羽。

「ーー皮肉は結構だけど心得てくれ、僕は神じゃない。現実を守ると誓ったただの人間ーーといっても正当な人間とも言い難い。……せいぜい、神を詐称する化け物だよ」

微笑んだ。綺麗だと印象に残る癖に、やはり異様なほどにトトノエの仔細な記憶は曖昧にぼやけて残らない。見つめた側から存在が砂となって消えていくように。

「君が引き金を引かないうちに話そうかーーツムグくんとシナズくんで、追ってほしい現実改変能力者がいる」
「拒否する。傍迷惑野郎と組むなんて御免だ。そうでなくとも俺は人類誰とも組む気はない」

間髪を入れずに切り捨てたツムグに、トトノエはにこりと笑った。

「まあまあ、そう言わずに。厄介な女性でね。僕の力を使っても、把握しきれない。わかっているのはユメオウという名前くらいでーー認識にまつわる現実改変だろう」
「把握できないだって?嘘つけ。全知のカミサマだろうよ」

嫌味ったらしく吐き捨てたツムグに、トトノエは肩を竦めた。白黒はっきりした髪の癖に、やはりその気配は生命を疑うほどに薄い。

「対価はあるーー僕が上に立つ。つまり、制限はあれど君の現実改変能力の使用の許可をしようじゃないか。禁止されていた読書も執筆も好きにしたら良い」

ツムグは黙り込む。従ってやることは性質が許さないが、今一番望むものだった。対価としてあまりに的確なのは、トトノエが全てを知るからか。それもまた癪に触り二の句を継げずにいるツムグだが、駄目押しにさらに付け加えられた。

「君が殺したい現実改変能力者、こちらも力を尽くして探そう」
「……何故、知っている」
「ーー僕の現実改変能力はあらゆる現実の収集、保存、編集だからね。君のことも"現実である"限りは知っている」
「じゃあ"探そう"ではないな、言えよ、知ってるんだろう」
「そうだね。君が協力してくれるなら喜んで」

盛大な舌打ちが響く。ひらひらと平和に飛ぶ蝶とは裏腹に、鬼の様な形相でツムグは睨んだ。しばしの沈黙。頷いて思い通りになってやることへの不快感。ツムグはプライドが高い、それはもう。だがーー。

仕方あるまいーー利用させてもらうつもりで利用するのならば、ツムグの独りで立つという信条に反さない。それならば、意に沿う。

「近頃大人しくしてた甲斐があったぜ」

ある種のポーズでわざと口にして、にやと笑った。そうでなければ我が強い自分と折り合いがつけられない、面倒な男だった。

「大人しくはなかったけどね、ツムグくん。まあ、いいよ。協力に感謝する、ありがとう」

ーー不意にアナウンスが聞こえ、蝶が飛び立つ。

トトノエが政府の役人に呼ばれたようだった。たびたび政府の使いが来るほど熱心なのは、当然といえば当然だ、今の現実をこの瞬間維持しているのはトトノエなのだから。権力者のごますりだ。

ご都合主義も行き過ぎた現実改変能力者の中でも群を抜いて、能力の規模も強さも定義も広いーーほとんど生きている神様のようなものだから。味方につけたい思惑。個人的に懇意になれば、世界が思い通りになるかもしれないなんてーーまあ、汚い欲を抱かない方が人間として間違っているかもしれない。

白黒の混ざらない髪をかき乱して、トトノエは肩を竦めた。

「僕は政治だのには興味がないのにね。僕は勝手に現実を守るから、勝手に統治しててほしいものだよ」
「そうはいかないだろう。この瞬間にも人類を見捨てられる神様ないしは、人類を飼い殺している魔王が、世界の8割を掌に転がしてるのに、ちっぽけな人間様が無視できるか?全力で媚び諂うだろうよ」
「それ、僕のことかい。また、随分だね」

ーー事実だろうとツムグは眼鏡の向こうで眉を上げた。

「救ってやった癖に、厚顔無恥な人間め、滅ぼしてやろうか、とは思わないのか?」
「僕は人間を救ったつもりはないんだよ。一途に現実を守っているだけさ」

現実改変能力者に歪められて滅ぶことになる運命を正したのであって、世界をのであって。もともと人類が今滅ぶ運命ならば、トトノエは止めやしない。

トトノエが守るのは人ではなく、現実であるのだから。滅亡から救出したのではなく、現実を守った結果、おまけで人類は救われたようなものだ。その優先順位を見誤ってはいけない。

じゃあ悪いけれどと言って、ドアへ向かうトトノエにツムグは言う。

「こんな世界なんてなくなれと思っている、現実が憎い人間にとって、お前は悪魔だろうな」
「ーーそれは違いないね。真理だよ」

トトノエは苛立つ風もなく、柔らかく笑う。意趣返しにもならなかったらしい。白と黒を潔癖に隔てる髪は、ツムグを置いて歩み去った。

主人がいなくなった部屋に、ばらばらと青い蝶が連なり落ちていく。トトノエによって生み出されていた命は、その存在が離れたことで寄る辺を失う。

一瞬で命を絶やした死骸はぴくりともしなかった。

ツムグは青い美しい羽を踏み躙って部屋を出る。
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