ウミウシわだつみ語り

まめ

文字の大きさ
上 下
2 / 16
序章 御囃子が聞こえる

EC&U調査員

しおりを挟む
その日は、新城しんじょうもりの過ちだった。彼は熱っぽさに目を覚まし、ぼんやり見上げた視界に調査員としての相方――つまりは同室の男を映す。目を瞬いた。

琥珀色の瞳は丸く、甘い顔立ち。明るめのさらさらした髪は汗で張り付いている。シンプルな黒のタンクトップを着た肩にはタオル。タオル――オートドライは嫌いらしかった。

今時そんな体育会系じみた格好を好む人間もいないが、そういう姿すら暑苦しさのないアンニュイな色気に見える男。鷹狩たかがりは視線に気付いて、肩を竦めた。

「お寝坊ですね、トレーニングルームで会わないと思ったら珍しい」
「夜更かしはするもんじゃねェな。忘れ物でもしたのか?」
「いいえ、――ので。アンタは僕と違って、誠実な癖に嘘つきですよね。まあ――そういうことにしておいてあげましょう」

僕は優しいのでねと感情が乗らない白々しい言い方をして、美貴は真守のベッドの向こうの彼のデスクの引き出しを開けた。

電子で全て事足りる今の時代、好事家の年寄りしか読まないような紙の書籍。彼はそういうなところがある。

うみうし海神わだつみ伝説――読みましたか?」

いやと真守は気怠い身体のまま首を振る。内心自分の体調に首を傾げていた。真守は風邪をひかないどころか風邪を殴り飛ばしそうとは仲間の言葉である。彼自身も記憶にある限り、自分の頑強な肉体が風邪に敗北した覚えがない。首を捻ったまま口を開く。

「その本か?表浦島おもてうらしまのデータなんぞ、呼び出せば良いだろ、わざわざ古い本読まなくても」
「乱暴ですねえ、アンタ言ってたでしょう。民間人を守るのがオレたちの使命なんだとか、この仕事に誇りを持ってるだとか。お仕事はちゃんとするもんですよ」

真守と美貴が調査員として勤務しているのは、EC&U――人類を未知から守る組織。未知というのは今のところ大勢の一般人が非現実だと信じている事象全般だ。

神隠し、タイムスリップ、魔法、幽霊、怪奇現象、未確認生命体――オカルト、SF、ファンタジー、都市伝説に括られる全てがその範疇。

彼等は現在の科学技術では説明不可能な未知の現象や物体を調査し、制圧あるいは破壊などを行う。そしてそれに説明をつけて、「未知」を「既知」のものとして世間から隠蔽する。

幻想ファンタジー幻想ファンタジーのまま、御伽噺フィクション御伽噺フィクションのままにすることで、多くの人々の現実が平穏な現実であることを守る――それが彼等二人の仕事だ。

「しこたま酔ってた時の話を持ち出すのはやめろ、美貴」
「鷹狩です――アンタに美貴と呼ばれる筋合いはないですね。美貴って下の名前が気に食わないとかいうありきたりな理由ではなく、馴れ馴れしいので」
「いい加減、諦めて友達判定出せよ。3年組んどいて」
「友人は事足りているので。今後出ることはないですね、残念なことに」

棒読みで言って彼は目を細めた。絡み酒に辟易した恨みか、彼の通常運転なのか曖昧なところだった。真守は意趣返しに口を開く。

表浦島おもてうらしまのお気に召すような感じってことしか知らねェが。猫被りにしては珍しく揉めたんだって聞いたぜ?カウンセラーにNGくらったから行けないんだろ」

彼はタイムスリップ、時間移動――そういう未知に。拘っているからこそ行かせるべきではないというのがカウンセラーの判断だ。真守は彼が拘る理由を知っているが、その上でカウンセラーの判断が間違っているとは思わない。

美貴は目を瞬いて、感じ悪く鼻で笑う。優男然とした顔には似合わない笑みだった。その歪めた顔のまま、唐突にベッドへ倒れこんでくるようにして、躊躇なく彼は真守を踏んだ。踏んだというより尻に敷いた。

うつ伏せで寝ている人間に毛布をかぶせて上からのしかかったらどうなるか?――手も足も動かせない拘束状態を味わうことになって、真守はぐえと声をあげた。

 身長190cm、頑強な肉体を誇っている男だろうと苦しいものは苦しい。真守のように屈強だという印象を抱かせないだけで、美貴も180近い長身である。

背丈の大きな人間の大雑把を発揮して、それくらい誤差だと思っている真守の感覚は置いておいても、二人並ぶとなかなかの存在感なのだ。彼が尻をどけるまで、お手軽に殺されかけたような気分になった。

「溜飲が下がりました、結構です。弱っている人間を虐めたくなっただけなので」
は今日も清々しく性格が悪いこったな。――弱ってる?オレが?」
「体調がすぐれないのでしょう?昨日からアンタは様子がおかしい。理由もわかりますがね――僕はアンタという人間の人格を概ね把握している」

 ベッドから身軽に下り立って、彼はうつ伏せになったままの真守に身を寄せる。真守は戸惑って瞬きを忘れた。美貴はふっと妖しく笑った。

瞳が近い。見開かれた彼の瞳の縁は僅かに琥珀色――深夜の森の奥、梟の輝く瞳を見たかのような心地になって真守は目を逸らした。

弱っている、様子がおかしい、何故か――じっと見ていたら全て彼の前に晒されてしまいそうな不安が過るのだ。そこにある程度の行動のデータさえあれば、老若男女、誰であれこの男の前に隠し事はできない。

「……そんなに顔に出やすいか?みんなを心配させるのは性に合わねェんだが」
「僕を節穴と一緒にするなんて大丈夫ですか、きっと高熱ですね、安静にしてください、心配してしまうでしょう?」

 わざとらしく捲し立ててこちらをじっと見る。すっと目を伏せた殊勝な顔に騙されるほど美貴のことがわからない真守ではなかった。実に白々しいと肩を竦める。こういう振る舞いに騙されるのだろうな、外面は完璧だから、と。

女性研究員たちの彼の扱いにもそれが如実に出ている。裏方の研究員ではなく調査員をしている時点で荒事が本業で、体格だって華奢には程遠いというのに、やはり顔立ちがそうさせるのか。女性陣に「鷹狩君に傷一つつけずに帰って来い」と言われる真守としては腹立たしい限りだった。やっかみとも言う。

「つくづくテメェは可愛くない奴だよ。なんでそう――」
「――僕が行きます」
「は?」
「表浦島の調査です。アンタの代わりに僕が行く」

 真守は苦い顔で黙り込んだ。――実に真守に都合の良い話に違いなかった。何か言う前に望むものを全て用意されたようなものだった。新城しんじょうもりは相方の鷹狩たかがりであれ、他の仲間であれ、自分の問題に口を閉ざすことがある。

その自分の性質も全てわかっていてそう言うのだろうと、思った時点で負けている気がして、彼の渋面は酷くなるばかりである。

「面倒なこと考えてますね?僕は表浦島おもてうらしまに行く大義名分が欲しい、アンタは寝込んでいるべきだ。これは利害の一致ですよ。カウンセラーにNGを食らった身なのでね」

 寝そべったままの真守の頭を不必要なほど乱暴にかき乱してから、あっけなく身を離して彼はドアの前に立つ。随分と年下であるというのに、つくづく気取った男だった。真守はベッドから半身を起こして首を振った。自動で開いたドアから去ろうとする背に言う。

「心配だから代わってやるって言えよ、最初から」
「そう思いたければ、お好きにどうぞ。……構いませんよ」

振り向いてにっこりと柔らかく笑ってみせた。彼に日頃熱い視線を送っている女性研究員たちが泣いて喜びそうな綺麗な笑みだったが、真守は溜息をつく。彼に年下らしい可愛げだとか、後輩の素直な反応だとかを求めても無駄なのは付き合いで重々承知である。

「――デスクの上。もってけよ。御守りだ。願掛けにしかならねェが、願掛けが馬鹿にならないのはオカルトと戦ってるオレらが一番よく知ってんだろ?」
「ふうん?まあ、貰っておきますよ。カウンセラーに止められていたのに行くなんて、ある種の予定調和すら感じさせますからね、未知の調査に不吉は良くない。そこまで僕は迂闊ではないので。……ありがとうございます」

すらりとした背が去ってドアが閉まった。結局はじめから本題はだったのだろう。オートドライを嫌ってわざわざ使うのは彼くらいなので、シャワールームの位置は追いやられている。この部屋の真反対だ。

トレーニングルームに真守がいないから、まだ部屋にいると判断して戻ってきたと考えるのが自然だ。そこで偶然と考えてやるほど真守は迂闊でないし節穴でもない。

そう指摘したところで――そうですよ、はじめに言ったでしょう?用があって戻って来たって、と。何でもない顔で開き直ったかのようにそう言うに決まっている。揶揄って動じさせるがとことん効かない男なのだから。

そもそもEC&U日本支部で先輩として彼に指導をしたのは真守なのだが、三年前初めて会った時から、人の思考を読む癖にこちらからは読めない青年だった。

独りになって、真守は再び身をベッドに倒した。シーツに頬を寄せて、眉間に皴を寄せる。

静かな部屋だった。瞼を閉じようとして、彼は何か恐れたようにそれを止めた。背筋が粟立つ。ぞわぞわと。胸の奥に小石が何処までも深く深く落ちていくような、底のない不安感に彼は身を震わせた。

嫌な心地がしていた。どうしようもないほど、わけのわからない嫌な心地に彼は苛まれていた。

――助けてくれ、と。そういう目をして彼を見はしなかっただろうか。

助けてほしいと口に出したわけではない。だが、彼の前で弱い顔を隠しきれなかった時点で、それは助けてほしいと言っているのと変わらないのだ。

何故なら彼は弱い顔を見ただけで、どうして弱っているのか、どうしてほしいのか、全てわかってしまうから。

美貴は他人の感情に恐ろしく敏感なのだ。真守がどれだけ年上の矜持やら先輩の体裁やらに拘ろうと、自分の問題だと口を閉ざしても、彼はその梟のような琥珀の瞳で見通す。

そして、真守は知っていた。可愛げのない後輩にして、三年の付き合いになる相方、変わり者の友人は――なんだかんだ言いながら真守を見捨てない。彼は素直とは言えなくとも、真守にとって優しい人間だ。

彼が助けてくれる、ということを知っていた。――だから、過ちだったのだ。
しおりを挟む

処理中です...