陰陽剣劇譚―カミナリ―

黄坂文人

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三十五話 式神

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 男の背後を包む暗闇と周囲に漂う呪符。男は、広げた腕を再びポケットに戻すと弛緩して薄ら笑いを浮かべている。
 張りつめた空気に呼吸が速くなっていく。九十九と紫乃は、固唾を飲んで闇を見た。そして、その音に気付いた。地鳴りのような、腹の奥底を揺らす音が闇の向こう側から聞こえてくる。腕に抱く黒猫も耳をピンと立てて、音の方をジッと見つめていた。
 その音は、段々と大きくなってこちらに近付いてくる。近付くにつれて音が鮮明に聞こえ、その正体に気付いた。声だ。獣ではない。人間の声だということがはっきり分かった。よくよく聞くと、どうやら声は一つではなさそうだ。男、女、子供。幾人かの声で構成されている。苦痛と悲嘆を含んだ呻き声。痛みに泣いているのか、悲しみに叫んでいるのか、もしかしたら、そのどちらでもないのかもしれない。一口に言い表せない様々な感情を思わせる声が、闇の奥で木霊している。
 やがて、男の背後の闇、その表面が円錐状に突き出した。一つ、二つ、三つと数を増やしていく。そして、沼から這い出るように姿を現した。円錐状の頂点の闇を突き破るように顔が出てきた。 
「……ひっ……!」
 紫乃が、怯えたように悲鳴を上げた。

 その顔に表情は無かった。無感情な能面がぼんやりと浮かんでいる。出てきた顔そのどれもが無表情で、とても呻き声の主とは思えない。声と相反した表情が、不気味さを増長していた。さらに、その顔を良く見ると眼球が無い。這い出てくるそのどれにもくり抜かれたように眼球が無く、ぽっかりと顔に二つの穴が空いているだけだった。顔色は暗い、というよりも肌自体がどす黒く、とても血が通っているとは思えない。空洞の眼窩がんかの下には涙を流したかのような黒い筋が引かれていた。
「くっ……!何だよ、ありゃあ……!」
 その者達は、身体を折り、よじりながら闇から這い出ようと藻掻いている。やがて、身体の大部分が露出して、地面へボトっと落ちた。無表情でありながら絶えず呻き声を上げている。それらは、まるで生まれたての小鹿のように足を震わせながら立ち上がろうとしている。クネクネと身体を揺らし、ガクガクと四肢を震わせながら立ち上がった。
 九十九は、その者達の異様な姿に目を見張った。天井に頭がついてしまいそうなほどの身の丈。異様に細く長い手足。四肢が繋がる胴は短く、薄い。その体躯全体がアンバランスで現実離れしていた。皆裸だが男女を判別する器官が見当たらない。生殖器官に当たる部分にも何も無かった。低い呻き声に禿頭の者が五人。恐らくは男だろう。そして、もう一人は比較的声が高く、床に引き摺るほど異様に長い黒髪の女が一人だ。
「ハッハッハッ……」
 長髪の男は顔をにやつかせ、乾いた笑いを浮かべている。
「紫乃。あれはっ……」
「……わ、分かりません。しき……なの?いえ、とても呪結関係とは思えない。無理矢理縛り付けられているとしか……」
 見習いとは言え、陰陽師を名乗る紫乃でも男が召喚した存在については、はっきりとは分からないようだ。しかし、同じように猫を識神として召喚する紫乃の反応を見るに、その類の中でも一般的な存在ではないことは明らかだった。そして、それについては、呪術の知識の無い九十九でも分かる。彼、彼女等の纏う空気は悍ましく、禍々しい。同時に酷い悲しみを抱えているようにも見えた。
「何も考えなくて良いぞ、嬢ちゃん。どうせ同じになる」
「……えっ?」
 男はニタニタと粘着質な笑みを浮かべ、紫乃の足先から頭まで嘗めるような視線を向けた。
「殺そうと思ったけど……もったいねぇなぁ」
「……何を言ってるんですか?」
 紫乃が顔を青くして声を震わせた。九十九は咄嗟に紫乃の手首を掴む。
「てめっ……!この変態がっ!」
「ハハッ……何考えてんだガキ。嬢ちゃんぐらいのが好きな奴らもいるんだよ」
「何の話してんだてめぇはっ!」
「だからよ、お前は知らなくて良いんだ。殺しゃしねぇから大人しく捕まれよ」
「ふざけんじゃねえっ!俺は捕まらねぇぞ!紫乃もやらんっ!」
「……先輩」
 目の前には、異形の化物を従えた柄の悪い男。学校全体が幻術に掛けられ脱出する術は無い。腕の立つ剣客は外にいて、ここにはただの男子学生と陰陽師といえど見習いを自称する少女の二人きりだ。圧倒的窮地に立たされたとも言える状況だが、九十九の心は折れていない。
 昨夜の、鬼面と戦う累の背中が思い浮かぶ。そして、傍らの少女。紫乃は、いや学校にいる者全員だが、自分のせいで巻き込んでしまったと言える。自分一人なら、諦めてしまえたかもしれない。しかし、自分の為に力を尽くしてくれる者、自分を助けてくれた者がいる。おいそれと捕まるわけにはいかないのだ。何より、目の前でせせら笑う男を許せない。
「……捕まらねぇ、かぁ。言うねぇ。なら、どうやって逃げ切るのか見せてもらおうじゃねぇか……行け」
 そう言って男は二人に向かって指を差した。化物達の空洞の眼窩が九十九と紫乃に向いている。化物達は操り人形のように長い四肢を動かして二人に襲い掛かった。
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