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1. シャーリィ、嘆く

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 流行り病で高熱を出し、生死をさまよった際、長い夢を見た。

 夢の中の自分は、異世界で暮らすアラサーの社会人だった。
 土日はフル出社が当たり前の業界で、休みはシフト制。会社と自宅を往復するだけの毎日で、平日の休みは友達と予定が合わず、無為に時間を過ごすだけで一日が終わる。
 休み明けは、テレオペレーターでクレーム処理に追われる日常が待っていた。
 待ち人数のモニターを見ながらマニュアル通りに言葉を重ね、マウスをクリック。またクリック。
 仕事の鬱憤が溜まる一方で、何の潤いもない日々に嫌気が差しながらも、転職する気力もない。機械的に与えられた業務をこなすだけ。
 数ヶ月ぶりに会った高校の友人には、亡霊かと思った、と言われる始末。

「ちょっ、マジでやばいって! 絵に描いたような、疲れ果てたアラサーだよ、あんた」
「そ、そう……?」
「ちゃんと食べてる? どんなに生きる気力がなくなっても、食事だけは抜いちゃだめだよ。一人暮らしが倒れたって、誰も助けてくれないんだから」

 両肩をガシッとつかまれ、鬼気迫る顔で言われたときは、いい友人に恵まれたなあ、と明後日なことを考えてしまった。
 クレーム処理では謝ることが当たり前で、慣れていたはずだったのに、やはり精神的に参っていたらしい。会社への苦情の受付は、いつしか自分の価値を否定されているように感じていた。事実、そうしたことが重荷になって、同期のほとんどが辞めていった。
 目の前には、自分をこんなに心配してくれる友人がいる。あ、なんか実感したら涙が出てきそう。

「……大丈夫。ちゃんと食べているから」
「とかいって、コンビニ弁当や菓子パンだけじゃ、栄養が偏るわよ?」
「……心を読んだ? いや、どこかで見てたの?」
「なわけあるか! どう見たって、その不健康そうな顔はまともなもの食べていないでしょうが!」

 ビシッと指を差され、なるほどと納得した。その日は健康によさそうな、品数の多いランチに連行されたのだった。
 その翌朝、電撃訪問をしてきた友人は両手に大きな鉢を抱えていた。鉢の下にはスーパーの袋が被さり、土がこぼれないようになっている。

「お、おはよう……?」
「お邪魔するわよ。出勤前でこっちも時間がないから」

 そう言うなり、勝手知ったる我が家のベランダに鉢を置いた彼女は、くるりと振り返って宣言した。その手には取り去ったスーパーの袋が握られている。

「いい? 社畜OLも大変だけど、自分の健康は自分で守ること!」
「え、あ、はい……」
「まずは新鮮な野菜を食べなさい。そうしたら元気が出てくるから!」
「で、でも……仕事が終わるのは夜だから、スーパーには閉店間際にしか行けないんだけど」

 帰り道に寄るスーパーは九時には閉まる。
 いつも行く時間は客もまばらで、野菜や鮮魚コーナーにある品数も当然少ない。取り残された野菜たちはしなびたものが大半という有様だ。
 新鮮な野菜にありつくのは正直厳しい。疲れた足でお惣菜コーナーを覗くのがやっとで、料理をする元気もない。
 それを見越したように、きれいに巻いた長い髪を後ろに払い、友人が不敵に笑う。

「だから、この子の出番なんじゃない」
「えっと……その謎の鉢は……鑑賞用じゃないの?」
「違うわよ。素人にいきなり畑仕事をしろなんて言わないわ。これはうちで育てていたミニトマトなんだけど、ひとつ譲ってあげるわ」

 ふふんと胸を張る友人は、いい仕事をした、というように瞳を輝かせている。
 だが、園芸科出身の彼女と違って、こっちは何か植物を育てた経験は皆無だ。枯らしてしまう未来が見える。

「む、無理だよ。知ってると思うけれど、勤務時間もバラバラだし、水やりって好きな時間にあげちゃだめなんでしょ?」
「最近は便利なグッズがあるからノープロブレムよ! 朝は早起きしてもらうけどね」
「だけど……」
「いいから、だまされたと思って一回育ててみてよ。愛着が湧くから。……あっ、もう行かなきゃ遅刻しちゃう! 水やりの仕方はあとで連絡するから。それじゃあね!」

 玄関のドアが閉まり、彼女を呼び止めようとした手を力なく下ろす。ベランダの新しい客は生命力あふれる葉を揺らし、沈黙を選ぶ。
 呆然と突っ立っていると、嵐のように去っていった友人から連絡が入った。スマートフォンの画面に指を滑らすと、簡単な栽培方法について、箇条書きでまとめられた文章が書かれていた。
 かくして、人生初めてのベランダ菜園は幕を開けた。

       *

 早起きは慣れるまでは苦痛だったが、一ヶ月もすれば、アラームなしで起きられるようになっていた。早起きは三文の徳という言葉通り、最近は体の調子もいい。
 毎朝、おはよう、と声をかけて水やりをすると、心なしか野菜も応えてくれている気がする。彼女が選んだ苗はすくすくと育ち、幸い病気や害虫にやられることなく過ごしている。
 はじめは戸惑った水やりも、なんとなくコツがつかめてきた。ミニトマトは初心者向けらしく、芽かきをしなくても大丈夫というのも心強かった。友人いわく、慣れてきたら、わき芽は摘んだほうがいいらしいけれど。

「緑だったトマトが色づき始めている……」

 無事、実がついて喜んでいたが、なかなか色が変わらないから心配していた。慣れないながら液肥も週に一回やっていたけれど、何かやり方を間違えたかと最近は不安だった。
 けれど、大きく育った丸い実はオレンジになっている。このぶんなら、いずれスーパーに並んでいるように赤く色づくのも遠くないだろう。

「よかった。毎日の水やりは無駄じゃなかった」

 ホッと胸をなで下ろし、窓を閉める。
 友人の言っていたことは間違いではなかった。最初はなんて面倒なことを押しつけられたのだと思っていたが、毎日接していくにつれて、自然と愛着が湧いていた。
 背丈が伸びる様子を見ていると、植物の生命力を否応なく実感してしまい、自分も頑張らなきゃと勇気づけられる。
 鉢がひとつ増えただけなのに、心の充足感が違う。
 朝ご飯の支度をしながら、友人のありがたみを再認識する。低血圧な朝はご飯を食べる気力もなかったが、今は違う。通勤時間にも余裕があるから、朝ご飯もしっかり食べるようになっていた。
 おかげで、つらかった仕事もそれほど負担に思うことがなくなり、数少ない同期や先輩と会話を楽しむ余裕も戻ってきた。
 初めての収穫の時を楽しみにしながら、野菜スムージーをごくりと飲み干した。

       *

「はあ……まさか、まだ食べちゃだめだったなんて」

 ヒールを鳴らして、駅までの道を歩く。自転車に乗った男子高校生に追い越されながら、はあ、とため息をついた。
 先日、とうとう我が家のミニトマトが赤く色づいた。ここまで二ヶ月。いそいそと園芸用はさみで初収穫をし、水洗いをしてからパクリと一口で食べた。
 しかし、舌が記憶していた味とはほど遠く、ちょっと硬かった。急いで友人にヘルプのメッセージを送ると、熟してから食べなさい、とすぐに返信が来た。

「そんなの聞いてないよ……赤くなったら食べられると思うじゃん、普通」

 期待していたぶん、落胆は大きかった。丹精込めて育てた苗。その味は今までスーパーで買っていたトマトとどう違うのか。
 今回は熟す前に食べてしまったから、もう少し日を開けなくてはいけない。待て、をされているペットはこんな気持ちかもしれない。
 遠い目で空を見上げたとき、クラクションが間近で響く。
 何事かと周囲を見やれば、歩行者信号は赤になっていて、横断歩道の真ん中に突っ立っていることに気づく。
 歩道にいた主婦が大声で何かを叫んでいる。何だろうと耳を澄ますが、いつの間にか、真正面にトラックが迫っていた。逃げなきゃと思うのに足がすくんで動けない。
 ぎゅっと目をつぶる。まもなくして、二十数年生きた命は儚く散った。

       *

 はっとして瞼を開ける。
 天蓋付きのベッドから身を起こすが、看病していたはずの父母の姿はない。そろりとベッドから抜け出し、姿見の前で立ち尽くす。

「私の顔じゃない……」

 亜麻色のウェーブがかった髪は腰まで伸びている。平々凡々の日本人ではなく、西洋風の顔つきだ。小顔でくりくりとした緑の瞳、ぷっくらとした桜色の唇。
 何度瞬いても、鏡の中の自分は困惑して見つめ返すだけ。

「……噓でしょ? 私……私は……」

 シャーリィ・レファンヌ。黒の小国と呼ばれる、レファンヌ公国の公女だ。兄弟姉妹はおらず、山に囲まれた貧乏小国の跡継ぎである。
 国土も狭く、主な税収は観光収入と通行料。古い宮殿の使用人は限られた人数しか雇えず、公女でさえ、観光案内をして生活をしなければならない。
 民との区別はあってないようなもの。万年人手不足のため、基本的に自分の世話は自分でする。けれど、それがみじめだと感じたことは一度もなかった。
 だって、この公国は「働かざる者食うべからず」が主流の考えなのだから。
 他国のお姫様のような暮らしとは縁遠いが、自ら働くことでやりがいはあるし、民や観光客とふれあうのは心が温まる。
 両親の特別観光ツアーは人気だし、シャーリィだって負けてはいない。家族一丸で朝から晩まで働いている。最終承認は大公や大公妃の許可がいるが、外交や内政は大臣の仕事だ。
 シャーリィはふらふらとベッドに腰かけ、がくりとうなだれた。

「今の暮らしに不満はないけれど……私のミニトマト! 美味しい状態で食べたかった!」

 転生するなら、せめて一口でもいいから、食べ納めしてからにしてほしかった。
 それだけが悔やまれる。
 レファンヌ公国の土地は痩せていて、食物が育たない。国土を覆う木々は一般的な木々ではなく、魔木だ。この国にしか自生しない黒い木の周りは畑を作っても、すぐ枯れてしまう。
 そのため、食料品はほとんどを輸入に頼りきっている。四方を山に囲まれており、道も平坦ではない。輸送手段は馬車で、安い馬を輸入しているから馬の足も遅い。
 つまり、この国で新鮮な野菜を食べることはできない。

「みずみずしいトマトがもう食べられないなんて……!」

 両手で顔を覆い、嘆く。開いていた窓から入ってきた風がなだめるように、そよそよとカーテンを揺らした。
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