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最終章

74. 恋のハンター様、降臨する?

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 思わず息を止めてクラウドを見つめると、彼は無言のまま眼鏡を拾う。レンズの端に小さいがひびが入っている。

「ごめん! 今の音、割れたよな? ぶつかって本当にごめん!」

 通り過ぎようとしていたのは先輩だったらしい。小道具が入った段ボールを移動する途中だったようだ。
 平謝りする先輩に、クラウドはゆるゆると首を振った。

「大丈夫です、家にいくつかスペアがありますから。それに、なんとか使えそうですし……」
「で、でも弁償しないと……眼鏡がないと不便だろう?」
「いいですって。わざとじゃないですし、俺の持ち方が悪かったんですから。本当に気にしないでください」
「そ、そうか……? 悪かったな」

 先輩は最後まで申し訳なさそうにしながら、部屋を出て行く。
 その背中を見送り、クラウドがおもむろに眼鏡をかける。ひびの箇所は小さいが、見ていて少し痛々しい。

「あれ、でもやっぱり見づらいな……」

 小声のぼやきに、フローリアが労るように声をかける。

「クラウド。無理しないで」
「うん……」

 クラウドは素直に眼鏡を外し、次に横にいたフローリアを見た。

「悪いんだけど、家まで送ってくれる? 視界がぼやけてよく見えないんだ」
「え、ええ。もちろん」
「助かるよ」

 実は見えているのではないか、というほど、にこやかな笑顔で。
 何か見てはいけないものを見てしまった、そんな気分になってしまう。
 そう思っていたのはイザベルだけではなかったようで、ミゲルが調子に乗ったようにクラウドの腕を肘でつつく。

「さてはお前、フローリアが好きなんだろ?」
「そうだよ」
「……え? マジ?」

 ミゲルが呆然と聞き返すと、クラウドは首を傾げた。

「だから、好きか嫌いかって話でしょ? 好きに決まってる」
「……本当に? 恋愛的な意味で? 好き……なのか?」
「さっきからそう言っているだろ。なんで疑問系になるのか、こっちが聞きたいよ」

 嘘だろ、というつぶやきが聞こえてきた。
 クラウドは魂が抜けたように腑抜けたミゲルを一瞥し、次にぴしりと固まっているフローリアを見た。

「せっかくだから聞いておきたいんだけど。俺はまだ、フローリアに異性として見てもらえない?」
「え……あ……あの」

 フローリアから助けを求めるような視線が投げかけられるが、イザベルもどうしていいかわからない。

(しかも、このセリフって紅薔薇ルートのやつよね……。確か、親密度がそこそこ高くなったときのイベントで、声つきで再生されて……って、今は白薔薇ルートじゃないの?)

 確定したルートを途中で変更することはできなかったはずだ。
 攻略対象として定めたキャラクターから愛が得られなければ、画面はブラックアウト。失意の中、セーブポイントから復帰するしかない。
 だが、それはあくまでゲームでの救済処置だ。現実として、タイムワープして過去に戻ることは叶わない。人生は一度きりだ。

(クラウドは自分のルートじゃなくても、フローリアを好きのままだけど。でも、彼女はすでに違う人を選んでしまっている。二人の恋は叶わない……)

 フローリアは眉を下げ、困っている。それはそうだろう。彼女が選んだのはクラウドではなく、ジークフリートだ。
 いまさら告白されても、その気持ちに応えることはできない。
 クラウドもそれを理解しているのか、ゆっくりとした口調で言葉を続ける。

「驚かせてごめんね。だけど、できるなら、君の恋人になりたいと思ってる。……この機会に、俺のことも真剣に考えてみてほしい」
「……ちょ、ちょっと待って。いきなり言われて、頭が追いつかないの」
「返事は急がないから。ゆっくり考えてみて」

 ゲームとは違う展開だ。紅薔薇ルートでは、ドキドキしながらも好意的に思っていることを伝え、それを聞いたクラウドがほころんだような笑みを見せる。
 このイベント終了後、眼鏡を外して迫ってくるシーンが多くなり、最終的にクラウドの作戦勝ちになる。
 そうとは知らないフローリアは、諦めたようにそっと息をつく。

「……わかったわ」

 言質を取って満足したのか、クラウドはミゲルに話しかける。

「とりあえず、眼鏡がこんなだし、今日は帰るね。……フローリア、悪いけど付き添ってもらえる?」

 クラウドはご主人様の命令を待つ忠犬のように、ひたむきな眼差しで見つめる。フローリアはその視線にうっと言葉を詰まらせた。けれど、期待を含んだ視線に耐えかねたようで、自棄になったように早口で言う。

「一度引き受けた以上、見捨てたりなんてしない。ちゃんと家まで送っていくわ」
「頼りになるよ」
「それでは、イザベル様。……お先に失礼します」
「また明日ね」

 困惑しているフローリアと対照的に、クラウドは楽しそうに言う。

(これは……予想外の事態ね。止めたほうがいいのかしら?)

 しかし、もう手遅れかもしれない。なぜなら、彼は愛のハンターの目をしていた。昔なじみという枠を甘んじて受け入れていた頃がいっそ懐かしい。
 フローリアたちの姿が遠ざかっていく中、イザベルとミゲルは顔を合わせた。お互いの顔には、これからの苦労を心配する色があった。

      *

 帰宅後、自分の部屋のドアを開けると、ふわりと花の香りが出迎えた。窓辺を見やると、朝にはなかった花が生けられていた。
 イザベルが立ち尽くしていると、後ろからリシャールの声がかかる。

「本当は渡す前に処分しようかとも思ったのですが、それだとフェアではありませんので……お嬢様。これを」

 燕尾服を着たリシャールは懐を探り、カードを差し出した。白地に金色の縁のごくありふれたメッセージカードだ。
 イザベルは不思議に思いながらも、手書きの文字を目で追う。

(親愛なるイザベルへ……?)

 見慣れた楷書で書かれた宛先は、婚約者の筆跡と似ていた。けれども、そんなことがあるわけない。
 だって彼には先日、婚約破棄を申し入れたばかりなのだから。

「あの花は……どなたから?」

 震える唇で問いかけると、リシャールは伏し目がちに答える。

「ジークフリート様からです」
「まさか……」
「私も半信半疑でしたが、間違いなく公爵家からの贈り物です。これまでとは違い、豪華な花束でした」

 イザベルは、吸い寄せられるように窓辺の花瓶に近づく。純白の薔薇ではなく、真っ赤な薔薇が咲き乱れている。

(今までのプレゼントは、どれもささやかなものだったけれど……これは)

 薔薇が十一本ともなると、ゴージャス感がある。見るぶんには美しいが、華やかな花束を贈られた理由を考えるのが怖い。
 その心中を察したように、リシャールが吐息混じりにつぶやく。

「決別の花束か、婚約の続行か、なんらかの意思表示だと思われます」
「……リシャールはどっちだと思う?」

 イザベルの問いに、専属執事は悩むように数拍の間を置いて答える。

「私個人の希望としては前者ですが……、情熱を表す色を見るに、それは考えにくいですね」
「それでは……わたくしの提案は受け入れられなかったということ?」
「とても残念です」

 失望の言葉が続き、心の中に波紋を落としていく。
 言葉が口の中で空回りし、声にならない。打ちのめされたような絶望が胸に押し寄せ、世界が暗く沈んでいくような錯覚を覚える。

(そんな……このままじゃ、ジークを攻略できずにフローリア様がバッドエンドを迎えてしまうわ……!)

 悪役令嬢の幸せ、それはヒロインの不幸を意味する。
 鉛を飲み込んだみたいな息苦しさが襲う。浅い呼吸を繰り返していると、不意にドアを叩く音が思考を乱す。
 動けないイザベルに代わり、リシャールがドアを開ける。そこにはエマが静かな表情でたたずんでいた。

「ジークフリート様が玄関ホールでお待ちです。ぜひ、お嬢様に面会なさりたいということですが、お取り次ぎいたしますか?」

 来客を知らせる声に、イザベルはすぐに返事ができなかった。
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