12 / 84
第一章
12. 誘惑と静かな嫉妬
しおりを挟む
その後、ジェシカ経由で聞いた話によると、フローリアへのやっかみは地味に続いているらしい。ただ、たまたま通りかかったジークフリートやレオンによって、その場を脱していることもすでに数回あるとか。
イザベルはリビングのソファに身を沈め、ひとり唸る。
「侮りがたし。これがゲーム内補正……」
察するに偶然助けてくれるのは、好感度が高かったメンバーだろう。この場合、クラウドの出番が少ないことは喜ぶべきか。
「いかがなさいましたか、イザベルお嬢様」
イザベルが顔を上げると、ティーワゴンでお茶の用意をしていたリシャールと目が合う。今日は燕尾服姿だ。黒のクロスタイに白手袋は、執事の王道ともいえるスタイルである。
黒ベストの前に留められたチェーンの先には、懐中時計がつながっている。その懐中時計は、昔イザベルの父が買い与えたものだったはずだ。
リシャールは、カップと同じ薔薇が描かれたティーポットを傾け、紅茶を注ぐ。コトン、とローテーブルにティーカップを置く動作も無駄がない。
(うーん。こうして執事らしい姿を改めて見ると、やっぱりカッコイイかも)
だが忘れてはいけない。彼は「黒薔薇の執事」だ。この笑顔の下にはブラックな感情が眠っている。寝た子を起こすな、触らぬ神に祟りなし。
リビングのソファから身を起こし、ソーサーを左手で持ちながら、右手でティーカップの取っ手に指をかける。
「なんでもないわ。試験結果のことを考えていただけよ」
口をつけると、ミルクティーの優しい味がした。
「試験というと、今回はレオン殿下が一位だったそうですね。お嬢様は三位だったと聞きました」
学校は別々だというのに、我が家の執事は、相変わらず耳が早い。
先週は前期学力考査があり、週明けの今日は順位が掲示板に張り出されていた。
おおかた、イザベルの順位速報についても、執事の情報網とやらで入手したものだろう。
成績のみならず、体重の微妙な変化についても熟知し、本人の承諾なしにシェフにカロリー相談しているのだから、油断ならない。
しかし、こういうのは気にした方が負けだ。伯爵令嬢たるもの、いかなる場合においても取り乱してはならない。
イザベルはこれまで培ってきたポーカーフェイスを装い、言葉を返す。
「学年三位をキープできたのはよかったけど、フローリア様はやっぱりすごいわね。いきなり二位に入り込んだのだもの。びっくりしたわ」
「フローリア様というと、転入生の方ですね。学園の転入試験は難しいと聞きます。さぞ優秀なのでしょう」
そう、フローリアは二位だった。
学園内では誰もが驚いていたが、主人公は勤勉家という設定だった。だから、ゲームの知識があるイザベルは、この順位にむしろ納得していた。
ただ、ゲーム内の選択肢によって順位は変動する仕組みだった。
記憶が正しければ、試験週間の過ごし方は三パターンから選べたはず。
一、攻略相手の親密度を上げる
二、クラスメイトと交友を深める
三、自宅で試験勉強をする
イザベルはゲームのしおり機能で、すべての選択肢を試したことがある。
三を選んだ場合、順位は一位に輝く。学年トップということで、各攻略キャラの評価がわずかに上がる一方で、レオン王子の評価がわずかに下がる。
一を選んだ場合は、その攻略キャラと試験対策をするのだが、ドキドキして集中できなかったせいで、順位は五位になる。ただし、キャラの親密度は大きく上がる。
(つまり、クラスメイトとの試験勉強を選んだわけね)
ちなみに、二を選んだときは親密度は変化なしだ。乙女ゲームでいえば、ノーマルエンドにつながる選択肢だ。
「よろしければ、どうぞ」
視線を下げると、ジュエリーボックスならぬ、チョコレートボックスが目に入る。しかも豪華な三段の詰め合わせになっており、一粒一粒が宝石のようにキラキラしている。
リシャールを見やると、光り輝くような微笑みが返される。漫画的にいえば、薔薇とキラキラのトーンが背後に散らばっているシーンだろう。
(……さしずめ、これは試験を頑張ったご褒美かしらね)
生チョコレートの未練が断ち切れないイザベルは生唾を飲み込み、桜を模したチョコレートに手を伸ばす。
一口食べた瞬間から、芳醇な味わいが広がり、甘美な陶酔に浸る。けれども、世の中には乙女に残酷な事実がある。
「うう……」
「どうなさいました?」
「おいしい……おいしいわ」
「それはよかったです」
「でも、夜遅くに食べさせるなんて……あなた、いい性格してるわね」
「一口や二口、大丈夫ですよ」
これは悪魔の囁きだ。耳を傾けてはならない。
イザベルは注意していないと、太りやすい体質なのだ。時計の針は、九時半を過ぎたところだ。
夜の間食がどれだけおそろしいか、この執事はわかっていないのだろうか。
(くっ……太りにくい人には、この気持ちがわからない)
リシャールは小言が多いが、基本的に、アメと鞭はアメの部分が多い。いい意味でも悪い意味でも、甘やかされている節がある。
このお菓子の差し入れなどがそうだ。本人は労いの意味で用意してくれたのだろうが、甘い誘惑を抗う身にもなってほしい。
(はっ……もしや、試されている?)
これまで何度もこの誘惑に負け、後悔する羽目になってきた。過ちは繰り返してはならない。そう誓ったばかりではないか。
イザベルは声を絞り出すようにして言った。
「残りは……後日ゆっくり食べるから、取っておいてちょうだい……」
「もうよろしいのですか? まだこんなにあるのに」
乙女とは、時に本音と逆のことを口にせざるを得ない生き物である。力なく首を横に振り、うわ言のようにつぶやく。
「いいの……もう、じゅうぶん……」
誘惑を断ち切るため、イザベルは目をつぶる。リシャールの足音が遠のくのを確認し、最近会えていないヒロインのことを考える。
(あのハンカチ事件から、フローリア様とは話せていないのよね。かといって、人目がある場所だとゆっくりできないし。二人っきりで話せる場所、どこかにないかしら)
学園の見取り図を頭に思い描くが、先ほど見たチョコレートが脳裏に焼きついて離れない。まるで宝石のような、あの美しい見た目は罪だ。
「イザベルお嬢様。今夜は少々肌寒いので、ブランケットをお使いください」
「ありがとう」
膝元までブランケットを広げると、肌寒さが緩和された。
(もしも、バッドエンドが回避ができなくて、いきなり見た目が老けてしまったら……。実家を出るとき、リシャールは一緒に来てくれるかしら)
彼がそばにいれば、どれだけ心強いだろう。代々エルライン家に仕える執事の忠誠心を疑うつもりはない。
とはいえ、イザベル個人への忠誠となると、話は別だ。生涯を尽くして仕えたい、と思われる主人になれているだろうか。
(いや、それはないわね。伯爵令嬢としてダメ出しされ、お菓子のご褒美をもらっているようじゃ、そうなる日は遠い。……たまには、昔みたいに「姉上」って呼んでくれてもいいのに)
イザベルは家族同然の存在だと思っているのだが、リシャールは違うのだろうか。
敬称で呼ばれるたび、線引きされているのを感じる。その境界線はどうやったら乗り越えられるのだろうか。
その晩、いくら悩んでも、その答えは出なかった。
*
思えば、その日は朝から不運の連続だった。星のめぐりが悪いとでもいえばいいのか、何をやっても裏目に出る。
朝の爆発したような寝癖もさることながら、送迎用の車はエンジントラブルときた。徒歩で行くことにしたら、散歩中の大型犬に追いかけ回されるわ、謎の鳩の集団が行く手を防ぐわと、あらゆる妨害行為に出くわす始末。
ちなみにリシャールは指導委員の仕事があるらしく、イザベルが朝ごはんを食べる間にすでに登校している。彼は一人だけで登校するときは送迎車は使わないので、車の不調にも気づくことはなかったのだ。
結局、遅刻ギリギリの時間になり、イザベルは教室に駆け込むことになった。
そして現在、まだその不運は続いていた。
(……これが注意力散漫の結果というやつかしら)
体育の授業中、バスケットボールで突き指をしてしまった。
だが不運はさらに続く。保健室へ向かおうと背中を向けたとき、背後から流れ玉が襲い、慌てて避けようとして足首に激痛が走った。
「イザベル、今の当たってないわよね!? どこか痛いの?」
逆側にいたコートから真っ先にジェシカが飛んでくる。ボールは壁際に当たり、床に転がっている。
「大丈夫……でもちょっと、足首をひねったみたい」
突き指した手をかばいながら、目線を足首に向ける。ジェシカは憐れむような視線を向けた。
「本当に今日はとことんついてないみたいね。でもどうしようかしら、担ぐとなったら男子の手を借りないと」
今日は男女ともに体育館での授業だ。ネット越しに男子を見ると、騒ぎをいち早く嗅ぎつけてきたのか、クラウドがひょっこり顔をのぞかす。
「何か困りごと?」
「あーうん。イザベルが突き指した挙げ句、足をひねったみたいでね」
「そうなんだ。じゃあ、俺が運ぶよ」
首の後ろとひざ下に腕が差し込まれたかと思うと、そのまま体を持ち上げられる。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。
「え、ちょっ……クラウド!?」
「ごめん。あまり動かないで。落ちるといけないから」
「でも! 重たいわ」
「ん? そうかな、羽みたいに軽いけど」
「……そ、そんなわけないわよ……」
漫画みたいな台詞だが、現実はかなり重いはずだ。
イザベルは低身長ながら肉付きはいい方だ。牛乳やチーズ、小魚や小松菜と海藻類もしっかり摂取しているのに、身長は伸びず、胸やお尻だけ肉付きがよくなっている。
彼の細腕に、相当な負担になっているのではないだろうか。
(ああ……あとでなんとお詫びをしたらよいのか……)
夢にまで見たシチュエーションだが、いざ現実にすると、幸せタイムに浸る余裕はまったくない。やはり、漫画やゲームは非現実の空間なのだ。
(うう……恥ずかしい……)
羞恥心で顔全体が熱くなる。
さっきから心音が激しいし、どうにかなりそうだ。ドキドキは強くなる一方で、うまく呼吸ができている気がしない。
酸欠になるのも時間の問題だとイザベルが覚悟したとき、クラウドが小さくつぶやいた。
「これはナイトの登場かな?」
「へ?」
ひたすら両手で顔を覆っていたイザベルは、反射的に手をのける。すると、社会科準備室から出てくるジークフリートと目が合った。
ただならぬ様子と判断したのか、早足で近づいてくる。
「イザベル? どうしたんだ?」
「……ちょっと足をくじいてしまって、動けなくなったところを助けてもらったのです」
「そうだったのか。ここまで運んでくれて感謝する。彼女のことは僕が預かろう」
「よろしくお願いします」
言うや否や、そっと降ろされる。足が地面に着き、ふらついたところをジークフリートがすかさず支えた。
痛む右足をやや浮かし、イザベルはクラウドに向き直る。
「クラウド、腕は大丈夫? もし痛くなったら言ってね。わたくしができることなら、何でもするから!」
息巻いて詰め寄ったせいか、クラウドは及び腰になる。
「あー……うん……本当に平気だから。それよりイザベルこそ、しっかり休むんだよ」
「もちろんよ。もう無理はしないわ。本当にありがとう」
「気にしないで。たまたま近くにいただけだから。じゃあ、またね」
踵を返し、まるで逃げるように早足で去っていく。
その後ろ姿が完全に見えなくなってから、ジークフリートは前髪をかきあげた。その表情はどことなく疲れている。
「……イザベル。男相手になんでもする、という約束は今後一切しないように」
「え? 相手はクラウドですよ?」
「彼も男だろう。頼むからこれ以上、僕の心を乱してくれるな」
「……わかりました」
腑に落ちないまま了承の意を伝えると、ジークフリートは優しくイザベルの髪を撫でた。
まさか、第二のルドガーが現れようとは思いもしなかった。今後、ジークフリートの前でうかつな発言は注意しよう、とイザベルは心に誓った。
イザベルはリビングのソファに身を沈め、ひとり唸る。
「侮りがたし。これがゲーム内補正……」
察するに偶然助けてくれるのは、好感度が高かったメンバーだろう。この場合、クラウドの出番が少ないことは喜ぶべきか。
「いかがなさいましたか、イザベルお嬢様」
イザベルが顔を上げると、ティーワゴンでお茶の用意をしていたリシャールと目が合う。今日は燕尾服姿だ。黒のクロスタイに白手袋は、執事の王道ともいえるスタイルである。
黒ベストの前に留められたチェーンの先には、懐中時計がつながっている。その懐中時計は、昔イザベルの父が買い与えたものだったはずだ。
リシャールは、カップと同じ薔薇が描かれたティーポットを傾け、紅茶を注ぐ。コトン、とローテーブルにティーカップを置く動作も無駄がない。
(うーん。こうして執事らしい姿を改めて見ると、やっぱりカッコイイかも)
だが忘れてはいけない。彼は「黒薔薇の執事」だ。この笑顔の下にはブラックな感情が眠っている。寝た子を起こすな、触らぬ神に祟りなし。
リビングのソファから身を起こし、ソーサーを左手で持ちながら、右手でティーカップの取っ手に指をかける。
「なんでもないわ。試験結果のことを考えていただけよ」
口をつけると、ミルクティーの優しい味がした。
「試験というと、今回はレオン殿下が一位だったそうですね。お嬢様は三位だったと聞きました」
学校は別々だというのに、我が家の執事は、相変わらず耳が早い。
先週は前期学力考査があり、週明けの今日は順位が掲示板に張り出されていた。
おおかた、イザベルの順位速報についても、執事の情報網とやらで入手したものだろう。
成績のみならず、体重の微妙な変化についても熟知し、本人の承諾なしにシェフにカロリー相談しているのだから、油断ならない。
しかし、こういうのは気にした方が負けだ。伯爵令嬢たるもの、いかなる場合においても取り乱してはならない。
イザベルはこれまで培ってきたポーカーフェイスを装い、言葉を返す。
「学年三位をキープできたのはよかったけど、フローリア様はやっぱりすごいわね。いきなり二位に入り込んだのだもの。びっくりしたわ」
「フローリア様というと、転入生の方ですね。学園の転入試験は難しいと聞きます。さぞ優秀なのでしょう」
そう、フローリアは二位だった。
学園内では誰もが驚いていたが、主人公は勤勉家という設定だった。だから、ゲームの知識があるイザベルは、この順位にむしろ納得していた。
ただ、ゲーム内の選択肢によって順位は変動する仕組みだった。
記憶が正しければ、試験週間の過ごし方は三パターンから選べたはず。
一、攻略相手の親密度を上げる
二、クラスメイトと交友を深める
三、自宅で試験勉強をする
イザベルはゲームのしおり機能で、すべての選択肢を試したことがある。
三を選んだ場合、順位は一位に輝く。学年トップということで、各攻略キャラの評価がわずかに上がる一方で、レオン王子の評価がわずかに下がる。
一を選んだ場合は、その攻略キャラと試験対策をするのだが、ドキドキして集中できなかったせいで、順位は五位になる。ただし、キャラの親密度は大きく上がる。
(つまり、クラスメイトとの試験勉強を選んだわけね)
ちなみに、二を選んだときは親密度は変化なしだ。乙女ゲームでいえば、ノーマルエンドにつながる選択肢だ。
「よろしければ、どうぞ」
視線を下げると、ジュエリーボックスならぬ、チョコレートボックスが目に入る。しかも豪華な三段の詰め合わせになっており、一粒一粒が宝石のようにキラキラしている。
リシャールを見やると、光り輝くような微笑みが返される。漫画的にいえば、薔薇とキラキラのトーンが背後に散らばっているシーンだろう。
(……さしずめ、これは試験を頑張ったご褒美かしらね)
生チョコレートの未練が断ち切れないイザベルは生唾を飲み込み、桜を模したチョコレートに手を伸ばす。
一口食べた瞬間から、芳醇な味わいが広がり、甘美な陶酔に浸る。けれども、世の中には乙女に残酷な事実がある。
「うう……」
「どうなさいました?」
「おいしい……おいしいわ」
「それはよかったです」
「でも、夜遅くに食べさせるなんて……あなた、いい性格してるわね」
「一口や二口、大丈夫ですよ」
これは悪魔の囁きだ。耳を傾けてはならない。
イザベルは注意していないと、太りやすい体質なのだ。時計の針は、九時半を過ぎたところだ。
夜の間食がどれだけおそろしいか、この執事はわかっていないのだろうか。
(くっ……太りにくい人には、この気持ちがわからない)
リシャールは小言が多いが、基本的に、アメと鞭はアメの部分が多い。いい意味でも悪い意味でも、甘やかされている節がある。
このお菓子の差し入れなどがそうだ。本人は労いの意味で用意してくれたのだろうが、甘い誘惑を抗う身にもなってほしい。
(はっ……もしや、試されている?)
これまで何度もこの誘惑に負け、後悔する羽目になってきた。過ちは繰り返してはならない。そう誓ったばかりではないか。
イザベルは声を絞り出すようにして言った。
「残りは……後日ゆっくり食べるから、取っておいてちょうだい……」
「もうよろしいのですか? まだこんなにあるのに」
乙女とは、時に本音と逆のことを口にせざるを得ない生き物である。力なく首を横に振り、うわ言のようにつぶやく。
「いいの……もう、じゅうぶん……」
誘惑を断ち切るため、イザベルは目をつぶる。リシャールの足音が遠のくのを確認し、最近会えていないヒロインのことを考える。
(あのハンカチ事件から、フローリア様とは話せていないのよね。かといって、人目がある場所だとゆっくりできないし。二人っきりで話せる場所、どこかにないかしら)
学園の見取り図を頭に思い描くが、先ほど見たチョコレートが脳裏に焼きついて離れない。まるで宝石のような、あの美しい見た目は罪だ。
「イザベルお嬢様。今夜は少々肌寒いので、ブランケットをお使いください」
「ありがとう」
膝元までブランケットを広げると、肌寒さが緩和された。
(もしも、バッドエンドが回避ができなくて、いきなり見た目が老けてしまったら……。実家を出るとき、リシャールは一緒に来てくれるかしら)
彼がそばにいれば、どれだけ心強いだろう。代々エルライン家に仕える執事の忠誠心を疑うつもりはない。
とはいえ、イザベル個人への忠誠となると、話は別だ。生涯を尽くして仕えたい、と思われる主人になれているだろうか。
(いや、それはないわね。伯爵令嬢としてダメ出しされ、お菓子のご褒美をもらっているようじゃ、そうなる日は遠い。……たまには、昔みたいに「姉上」って呼んでくれてもいいのに)
イザベルは家族同然の存在だと思っているのだが、リシャールは違うのだろうか。
敬称で呼ばれるたび、線引きされているのを感じる。その境界線はどうやったら乗り越えられるのだろうか。
その晩、いくら悩んでも、その答えは出なかった。
*
思えば、その日は朝から不運の連続だった。星のめぐりが悪いとでもいえばいいのか、何をやっても裏目に出る。
朝の爆発したような寝癖もさることながら、送迎用の車はエンジントラブルときた。徒歩で行くことにしたら、散歩中の大型犬に追いかけ回されるわ、謎の鳩の集団が行く手を防ぐわと、あらゆる妨害行為に出くわす始末。
ちなみにリシャールは指導委員の仕事があるらしく、イザベルが朝ごはんを食べる間にすでに登校している。彼は一人だけで登校するときは送迎車は使わないので、車の不調にも気づくことはなかったのだ。
結局、遅刻ギリギリの時間になり、イザベルは教室に駆け込むことになった。
そして現在、まだその不運は続いていた。
(……これが注意力散漫の結果というやつかしら)
体育の授業中、バスケットボールで突き指をしてしまった。
だが不運はさらに続く。保健室へ向かおうと背中を向けたとき、背後から流れ玉が襲い、慌てて避けようとして足首に激痛が走った。
「イザベル、今の当たってないわよね!? どこか痛いの?」
逆側にいたコートから真っ先にジェシカが飛んでくる。ボールは壁際に当たり、床に転がっている。
「大丈夫……でもちょっと、足首をひねったみたい」
突き指した手をかばいながら、目線を足首に向ける。ジェシカは憐れむような視線を向けた。
「本当に今日はとことんついてないみたいね。でもどうしようかしら、担ぐとなったら男子の手を借りないと」
今日は男女ともに体育館での授業だ。ネット越しに男子を見ると、騒ぎをいち早く嗅ぎつけてきたのか、クラウドがひょっこり顔をのぞかす。
「何か困りごと?」
「あーうん。イザベルが突き指した挙げ句、足をひねったみたいでね」
「そうなんだ。じゃあ、俺が運ぶよ」
首の後ろとひざ下に腕が差し込まれたかと思うと、そのまま体を持ち上げられる。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。
「え、ちょっ……クラウド!?」
「ごめん。あまり動かないで。落ちるといけないから」
「でも! 重たいわ」
「ん? そうかな、羽みたいに軽いけど」
「……そ、そんなわけないわよ……」
漫画みたいな台詞だが、現実はかなり重いはずだ。
イザベルは低身長ながら肉付きはいい方だ。牛乳やチーズ、小魚や小松菜と海藻類もしっかり摂取しているのに、身長は伸びず、胸やお尻だけ肉付きがよくなっている。
彼の細腕に、相当な負担になっているのではないだろうか。
(ああ……あとでなんとお詫びをしたらよいのか……)
夢にまで見たシチュエーションだが、いざ現実にすると、幸せタイムに浸る余裕はまったくない。やはり、漫画やゲームは非現実の空間なのだ。
(うう……恥ずかしい……)
羞恥心で顔全体が熱くなる。
さっきから心音が激しいし、どうにかなりそうだ。ドキドキは強くなる一方で、うまく呼吸ができている気がしない。
酸欠になるのも時間の問題だとイザベルが覚悟したとき、クラウドが小さくつぶやいた。
「これはナイトの登場かな?」
「へ?」
ひたすら両手で顔を覆っていたイザベルは、反射的に手をのける。すると、社会科準備室から出てくるジークフリートと目が合った。
ただならぬ様子と判断したのか、早足で近づいてくる。
「イザベル? どうしたんだ?」
「……ちょっと足をくじいてしまって、動けなくなったところを助けてもらったのです」
「そうだったのか。ここまで運んでくれて感謝する。彼女のことは僕が預かろう」
「よろしくお願いします」
言うや否や、そっと降ろされる。足が地面に着き、ふらついたところをジークフリートがすかさず支えた。
痛む右足をやや浮かし、イザベルはクラウドに向き直る。
「クラウド、腕は大丈夫? もし痛くなったら言ってね。わたくしができることなら、何でもするから!」
息巻いて詰め寄ったせいか、クラウドは及び腰になる。
「あー……うん……本当に平気だから。それよりイザベルこそ、しっかり休むんだよ」
「もちろんよ。もう無理はしないわ。本当にありがとう」
「気にしないで。たまたま近くにいただけだから。じゃあ、またね」
踵を返し、まるで逃げるように早足で去っていく。
その後ろ姿が完全に見えなくなってから、ジークフリートは前髪をかきあげた。その表情はどことなく疲れている。
「……イザベル。男相手になんでもする、という約束は今後一切しないように」
「え? 相手はクラウドですよ?」
「彼も男だろう。頼むからこれ以上、僕の心を乱してくれるな」
「……わかりました」
腑に落ちないまま了承の意を伝えると、ジークフリートは優しくイザベルの髪を撫でた。
まさか、第二のルドガーが現れようとは思いもしなかった。今後、ジークフリートの前でうかつな発言は注意しよう、とイザベルは心に誓った。
0
お気に入りに追加
687
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢ですが、ヒロインの兄が好きなので親友ポジション狙います!
むめい
恋愛
乙ゲー大好きなごく普通のOLをしていた天宮凪(あまみや なぎ)は仕事を終え自宅に帰る途中に駅のホームで何者かに背中を押され電車に撥ねられてしまう。
だが、再び目覚めるとそこは見覚えのある乙女ゲームの世界で、ヒロインではなく悪役令嬢(クリスティナ)の方だった!!
前世からヒロインの兄が好きだったので、ヒロインの親友ポジを狙っていきます!
悪役令嬢にはなりたくないクリスティナの奮闘を描く空回りラブロマンス小説の開幕!
転生したらただの女子生徒Aでしたが、何故か攻略対象の王子様から溺愛されています
平山和人
恋愛
平凡なOLの私はある日、事故にあって死んでしまいました。目が覚めるとそこは知らない天井、どうやら私は転生したみたいです。
生前そういう小説を読みまくっていたので、悪役令嬢に転生したと思いましたが、実際はストーリーに関わらないただの女子生徒Aでした。
絶望した私は地味に生きることを決意しましたが、なぜか攻略対象の王子様や悪役令嬢、更にヒロインにまで溺愛される羽目に。
しかも、私が聖女であることも判明し、国を揺るがす一大事に。果たして、私はモブらしく地味に生きていけるのでしょうか!?
オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。
性悪という理由で婚約破棄された嫌われ者の令嬢~心の綺麗な者しか好かれない精霊と友達になる~
黒塔真実
恋愛
公爵令嬢カリーナは幼い頃から後妻と義妹によって悪者にされ孤独に育ってきた。15歳になり入学した王立学園でも、悪知恵の働く義妹とカリーナの婚約者でありながら義妹に洗脳されている第二王子の働きにより、学園中の嫌われ者になってしまう。しかも再会した初恋の第一王子にまで軽蔑されてしまい、さらに止めの一撃のように第二王子に「性悪」を理由に婚約破棄を宣言されて……!? 恋愛&悪が報いを受ける「ざまぁ」もの!! ※※※主人公は最終的にチート能力に目覚めます※※※アルファポリスオンリー※※※皆様の応援のおかげで第14回恋愛大賞で奨励賞を頂きました。ありがとうございます※※※
すみません、すっきりざまぁ終了したのでいったん完結します→※書籍化予定部分=【本編】を引き下げます。【番外編】追加予定→ルシアン視点追加→最新のディー視点の番外編は書籍化関連のページにて、アンケートに答えると読めます!!
悪役令嬢に転生したので、やりたい放題やって派手に散るつもりでしたが、なぜか溺愛されています
平山和人
恋愛
伯爵令嬢であるオフィーリアは、ある日、前世の記憶を思い出す、前世の自分は平凡なOLでトラックに轢かれて死んだことを。
自分が転生したのは散財が趣味の悪役令嬢で、王太子と婚約破棄の上、断罪される運命にある。オフィーリアは運命を受け入れ、どうせ断罪されるなら好きに生きようとするが、なぜか周囲から溺愛されてしまう。
【完結】攻略を諦めたら騎士様に溺愛されました。悪役でも幸せになれますか?
うり北 うりこ
恋愛
メイリーンは、大好きな乙女ゲームに転生をした。しかも、ヒロインだ。これは、推しの王子様との恋愛も夢じゃない! そう意気込んで学園に入学してみれば、王子様は悪役令嬢のローズリンゼットに夢中。しかも、悪役令嬢はおかめのお面をつけている。
これは、巷で流行りの悪役令嬢が主人公、ヒロインが悪役展開なのでは?
命一番なので、攻略を諦めたら騎士様の溺愛が待っていた。
悪役令嬢なのに下町にいます ~王子が婚約解消してくれません~
ミズメ
恋愛
【2023.5.31書籍発売】
転生先は、乙女ゲームの悪役令嬢でした——。
侯爵令嬢のベラトリクスは、わがまま放題、傍若無人な少女だった。
婚約者である第1王子が他の令嬢と親しげにしていることに激高して暴れた所、割った花瓶で足を滑らせて頭を打ち、意識を失ってしまった。
目を覚ましたベラトリクスの中には前世の記憶が混在していて--。
卒業パーティーでの婚約破棄&王都追放&実家の取り潰しという定番3点セットを回避するため、社交界から逃げた悪役令嬢は、王都の下町で、メンチカツに出会ったのだった。
○『モブなのに巻き込まれています』のスピンオフ作品ですが、単独でも読んでいただけます。
○転生悪役令嬢が婚約解消と断罪回避のために奮闘?しながら、下町食堂の美味しいものに夢中になったり、逆に婚約者に興味を持たれたりしてしまうお話。
転生者はチートな悪役令嬢になりました〜私を死なせた貴方を許しません〜
みおな
恋愛
私が転生したのは、乙女ゲームの世界でした。何ですか?このライトノベル的な展開は。
しかも、転生先の悪役令嬢は公爵家の婚約者に冤罪をかけられて、処刑されてるじゃないですか。
冗談は顔だけにして下さい。元々、好きでもなかった婚約者に、何で殺されなきゃならないんですか!
わかりました。私が転生したのは、この悪役令嬢を「救う」ためなんですね?
それなら、ついでに公爵家との婚約も回避しましょう。おまけで貴方にも仕返しさせていただきますね?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる