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第一章
11. 日常イベントにバグがあるようです
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お昼休みのサロンは、ほのかに甘い匂いが漂っていた。
今日はジェシカが用意した生チョコレートが振る舞われ、全員がその味を堪能した。もちろん、イザベルも例外ではない。
子爵家のお抱えショコラティエが作るチョコレートは、王宮御用達のお店と引けを取らないくらい美味だった。
前世で食べた板チョコレートとは格が違う。食べた瞬間から、チョコレートの質がいつもと違うのがわかった。口どけや後味、すべてが今までの常識を凌駕していた。
(ああ、なんて幸せな瞬間だったのでしょう……)
至福のひとときを思い出し、イザベルは息をつく。
そして、視線はテーブルの上にくぎ付けになる。レースのついたテーブルの上に置かれた箱には、まだ生チョコが半分以上残っている。
(ううう。本当は食べたいけど、これ以上は危険……)
イザベルは現在、ビターな残り香の誘惑に全力で抗っている最中だった。
前世のような過ちを繰り返すわけにはいかない。
チョコレートの食べ過ぎは、肌トラブルの元だ。伯爵令嬢の威厳を保つためにも、この誘惑は振り切らなくては。
イザベルがひとり顔をしかめていると、隣に座るジークフリートが心配そうに声を潜めて言う。
「さっきから考え込んでいるようだか、何か深刻な悩み事か?」
「っ……い、いえ。些細なことですので、どうぞお気になさらず!」
早口にまくし立てると、ジークフリートは一瞬目を丸くした。それから、言葉を選ぶように視線をそらす。
「ところで、今週の週末だが……」
「申し訳ございません。ここしばらく、予定が立て込んでおりまして、お会いするのは難しいと思いますわ」
「……そうか」
こうして誘いを断るのは何度目だろう。毎回悲しそうな顔をされるので、イザベルの良心もズキズキと痛む。
しかし、明るい未来のためにも、ここは初志貫徹が鉄則だ。
たっぷり数十秒、生チョコに未練がましい視線を送ってから、イザベルは立ち上がる。
「所用がありますので、お先に失礼しますわ」
淑女らしく優雅な動きを心がけ、膝を曲げて頭を下げる。退室の非礼を詫びると、ジークフリートは諦めたように頷いた。
「それが君の役目なら仕方あるまい」
「話が早くて助かります。ではごきげんよう、ジーク」
手土産の小分けされたチョコレートが入った包みを手に取り、イザベルはサロンを後にする。目的地は裏庭。クラスメイトでもあり、第二王子でもあるレオンの元だ。
しかしながら、中庭にたどり着いたイザベルは首を傾げた。なぜなら人の気配がまったくなかったからである。
それから講堂の裏や屋上、教室など、ゲーム内のイベントで使われたスポットをめぐってみたが、彼の姿はどこにも見当たらない。
「おかしい……授業には出ていたし、どこかにいるはずなのに」
王子の潜伏スキルが上達したのか否か、真剣にジャッジしながら、イザベルは特別クラス棟の階段を降りきる。
渡り廊下へと通じる十字路にさしかかったところで、ふと桜色の髪が視界に入った。
(あの特徴的な髪の色は、フローリア様……!)
何か嫌な予感がする。渡り廊下の先は、普通科クラスの棟がある。イザベルは壁伝いに移動し、廊下の手前で耳を澄ます。
「まあ、上級生が廊下を歩くのに、道を空けることすらできないなんて。貴族の一員である自覚が足りないのではなくて?」
この傲慢な口調に、ややハスキーな声はナタリアだ。
壁からそっと覗き見ると、渡り廊下を横一列に立ちふさがっているのは、彼女の取り巻きの女子たちだった。
「おっしゃるとおりですわ、ナタリア様」
「そうよ。ナタリア様に無礼よ」
「恥知らずが学園にいると、学園全体の信用に関わりますわ」
口々に聞こえるのは、ナタリアに同意する声。
取り巻きは、ハンカチ事件のときと同じ顔ぶれだ。ナタリアと同じ上級生が数名、最後尾で待機しているのは下級生の生徒。
同学年でイザベルが見覚えない顔ということは、おそらく学園の中等部ではなく、外部から入学してきた生徒だろう。
取り巻きの中心人物と思しき人物が、一歩前に出る。
「あなたがいると、目障りなのよ」
腰まで届く、長い三つ編みの上級生は、無抵抗のフローリアの肩を小突く。反動でフローリアの体がよろめいた。
あからさまな行動を目の当たりにして、イザベルは記憶をさらう。
(……これって、どう見ても悪役令嬢との遭遇イベントよね?)
移動教室に行く途中だったのだろう。フローリアは勉強道具を抱え、無言でその場に踏みとどまっていた。
通行妨害はむしろ、ナタリア側に非がある。
けれども、明確な上下関係がある学園内において、それをフローリアが指摘することはできない。親の爵位や権力でいえば、ナタリアの方がはるかに上だ。
ところで、ここでひとつ、無視できない問題ができてしまった。
先ほどのナタリアの台詞は、ゲーム内でイザベルが口にしていたものだ。
(もしかしなくとも、悪役令嬢の役がナタリア様になっている……?)
現状、ジークフリートからのお誘いはすべてキャンセルしている。
不審がられないよう、学園内では今までどおりに過ごしているが、距離を置こうとしているのはバレバレだろう。
そう考えると、このキャストの変更は、イザベルが婚約者との接触を避けた結果ともいえる。
(するとつまり、悪役令嬢のお役御免ってこと?……ううん、断定するのはまだ早い。もっと検証が必要だわ)
ジークフリートとの週末イベントは、あのオペラ鑑賞が最後だ。
おかげで、イザベルは誰に遠慮することなく、恋愛小説を読みふけるという充実した週末を過ごせている。これに乙女ゲームをプレイできるポータブルゲーム機があれば、まさしく前世の日常風景だ。
しかし、リアルの乙女ゲームは、なかなかに厄介だ。イザベルは前世の記憶をさらい、ゲームのストーリーを振り返る。
乙女ゲーム『薔薇の君と紡ぐ華恋』のクリアまでのプレイ期間は一年間。
大事なエンディングの前に、今までの罪を暴かれたイザベルは行方知れずとなる。表向きは「療養による休学」という扱いになっているが、本当は置き手紙を残し、ひっそり家を出ている。
毒薬を盛られて一気に老けた彼女は、自分の居場所をすべて捨てざるを得ない状況に追い詰められたのだ。
(そういえば、誰が毒薬を盛ったんだっけ……?)
犯人は作品では明かされなかった。ゲームはその後、「氷の祭典」のイベントでフィナーレだ。真冬に行われる氷の祭典では、薔薇をかたどった氷のオブジェが並び、幻想的な中を攻略キャラと歩くのだ。
ヒロインはプロポーズされ、物語はエンディングを迎える。
ジークフリートからの求婚シーンを思い出す。王子様さながらのエスコートと男性声優の甘い囁きに、ゲームとわかっていても胸が高鳴ったものだ。
画面越しのときめきを回想しながら、イザベルはハッとした。
(まずい、もうすぐジークが来る……!)
ルートが確定した場合、攻略キャラと出会う確率が上がる一方で、悪役令嬢との遭遇確率も同じように増える。
そしてヒロインが困っているときに、偶然という名の必然で現れるヒーローによって、その場を切り抜けるのだ。
振り返れば、サロンがある方向から、歩いてくるジークフリートの姿が遠目に見えた。このままだと鉢合わせしてしまう。
イザベルは大きく迂回して、教室に戻ることにした。
今日はジェシカが用意した生チョコレートが振る舞われ、全員がその味を堪能した。もちろん、イザベルも例外ではない。
子爵家のお抱えショコラティエが作るチョコレートは、王宮御用達のお店と引けを取らないくらい美味だった。
前世で食べた板チョコレートとは格が違う。食べた瞬間から、チョコレートの質がいつもと違うのがわかった。口どけや後味、すべてが今までの常識を凌駕していた。
(ああ、なんて幸せな瞬間だったのでしょう……)
至福のひとときを思い出し、イザベルは息をつく。
そして、視線はテーブルの上にくぎ付けになる。レースのついたテーブルの上に置かれた箱には、まだ生チョコが半分以上残っている。
(ううう。本当は食べたいけど、これ以上は危険……)
イザベルは現在、ビターな残り香の誘惑に全力で抗っている最中だった。
前世のような過ちを繰り返すわけにはいかない。
チョコレートの食べ過ぎは、肌トラブルの元だ。伯爵令嬢の威厳を保つためにも、この誘惑は振り切らなくては。
イザベルがひとり顔をしかめていると、隣に座るジークフリートが心配そうに声を潜めて言う。
「さっきから考え込んでいるようだか、何か深刻な悩み事か?」
「っ……い、いえ。些細なことですので、どうぞお気になさらず!」
早口にまくし立てると、ジークフリートは一瞬目を丸くした。それから、言葉を選ぶように視線をそらす。
「ところで、今週の週末だが……」
「申し訳ございません。ここしばらく、予定が立て込んでおりまして、お会いするのは難しいと思いますわ」
「……そうか」
こうして誘いを断るのは何度目だろう。毎回悲しそうな顔をされるので、イザベルの良心もズキズキと痛む。
しかし、明るい未来のためにも、ここは初志貫徹が鉄則だ。
たっぷり数十秒、生チョコに未練がましい視線を送ってから、イザベルは立ち上がる。
「所用がありますので、お先に失礼しますわ」
淑女らしく優雅な動きを心がけ、膝を曲げて頭を下げる。退室の非礼を詫びると、ジークフリートは諦めたように頷いた。
「それが君の役目なら仕方あるまい」
「話が早くて助かります。ではごきげんよう、ジーク」
手土産の小分けされたチョコレートが入った包みを手に取り、イザベルはサロンを後にする。目的地は裏庭。クラスメイトでもあり、第二王子でもあるレオンの元だ。
しかしながら、中庭にたどり着いたイザベルは首を傾げた。なぜなら人の気配がまったくなかったからである。
それから講堂の裏や屋上、教室など、ゲーム内のイベントで使われたスポットをめぐってみたが、彼の姿はどこにも見当たらない。
「おかしい……授業には出ていたし、どこかにいるはずなのに」
王子の潜伏スキルが上達したのか否か、真剣にジャッジしながら、イザベルは特別クラス棟の階段を降りきる。
渡り廊下へと通じる十字路にさしかかったところで、ふと桜色の髪が視界に入った。
(あの特徴的な髪の色は、フローリア様……!)
何か嫌な予感がする。渡り廊下の先は、普通科クラスの棟がある。イザベルは壁伝いに移動し、廊下の手前で耳を澄ます。
「まあ、上級生が廊下を歩くのに、道を空けることすらできないなんて。貴族の一員である自覚が足りないのではなくて?」
この傲慢な口調に、ややハスキーな声はナタリアだ。
壁からそっと覗き見ると、渡り廊下を横一列に立ちふさがっているのは、彼女の取り巻きの女子たちだった。
「おっしゃるとおりですわ、ナタリア様」
「そうよ。ナタリア様に無礼よ」
「恥知らずが学園にいると、学園全体の信用に関わりますわ」
口々に聞こえるのは、ナタリアに同意する声。
取り巻きは、ハンカチ事件のときと同じ顔ぶれだ。ナタリアと同じ上級生が数名、最後尾で待機しているのは下級生の生徒。
同学年でイザベルが見覚えない顔ということは、おそらく学園の中等部ではなく、外部から入学してきた生徒だろう。
取り巻きの中心人物と思しき人物が、一歩前に出る。
「あなたがいると、目障りなのよ」
腰まで届く、長い三つ編みの上級生は、無抵抗のフローリアの肩を小突く。反動でフローリアの体がよろめいた。
あからさまな行動を目の当たりにして、イザベルは記憶をさらう。
(……これって、どう見ても悪役令嬢との遭遇イベントよね?)
移動教室に行く途中だったのだろう。フローリアは勉強道具を抱え、無言でその場に踏みとどまっていた。
通行妨害はむしろ、ナタリア側に非がある。
けれども、明確な上下関係がある学園内において、それをフローリアが指摘することはできない。親の爵位や権力でいえば、ナタリアの方がはるかに上だ。
ところで、ここでひとつ、無視できない問題ができてしまった。
先ほどのナタリアの台詞は、ゲーム内でイザベルが口にしていたものだ。
(もしかしなくとも、悪役令嬢の役がナタリア様になっている……?)
現状、ジークフリートからのお誘いはすべてキャンセルしている。
不審がられないよう、学園内では今までどおりに過ごしているが、距離を置こうとしているのはバレバレだろう。
そう考えると、このキャストの変更は、イザベルが婚約者との接触を避けた結果ともいえる。
(するとつまり、悪役令嬢のお役御免ってこと?……ううん、断定するのはまだ早い。もっと検証が必要だわ)
ジークフリートとの週末イベントは、あのオペラ鑑賞が最後だ。
おかげで、イザベルは誰に遠慮することなく、恋愛小説を読みふけるという充実した週末を過ごせている。これに乙女ゲームをプレイできるポータブルゲーム機があれば、まさしく前世の日常風景だ。
しかし、リアルの乙女ゲームは、なかなかに厄介だ。イザベルは前世の記憶をさらい、ゲームのストーリーを振り返る。
乙女ゲーム『薔薇の君と紡ぐ華恋』のクリアまでのプレイ期間は一年間。
大事なエンディングの前に、今までの罪を暴かれたイザベルは行方知れずとなる。表向きは「療養による休学」という扱いになっているが、本当は置き手紙を残し、ひっそり家を出ている。
毒薬を盛られて一気に老けた彼女は、自分の居場所をすべて捨てざるを得ない状況に追い詰められたのだ。
(そういえば、誰が毒薬を盛ったんだっけ……?)
犯人は作品では明かされなかった。ゲームはその後、「氷の祭典」のイベントでフィナーレだ。真冬に行われる氷の祭典では、薔薇をかたどった氷のオブジェが並び、幻想的な中を攻略キャラと歩くのだ。
ヒロインはプロポーズされ、物語はエンディングを迎える。
ジークフリートからの求婚シーンを思い出す。王子様さながらのエスコートと男性声優の甘い囁きに、ゲームとわかっていても胸が高鳴ったものだ。
画面越しのときめきを回想しながら、イザベルはハッとした。
(まずい、もうすぐジークが来る……!)
ルートが確定した場合、攻略キャラと出会う確率が上がる一方で、悪役令嬢との遭遇確率も同じように増える。
そしてヒロインが困っているときに、偶然という名の必然で現れるヒーローによって、その場を切り抜けるのだ。
振り返れば、サロンがある方向から、歩いてくるジークフリートの姿が遠目に見えた。このままだと鉢合わせしてしまう。
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