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13. そのとき、王太子は(ジュリアン視点)

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 一方、あと一歩で初恋を成就させ、クレアと心を通わせるところだったジュリアンは呆けていた。まさか、一度ならず二度も逃げられるとは思っていなかったからだ。
 手を伸ばせば届く距離にいた婚約者は、すでにいない。
 驚きと落胆がある反面、どこか少し安心している自分もいた。

 万が一にも、あのまま彼女の口から好きなど言われてみろ。理性が崩壊するに決まっている。

 クレアがジュリアンの正妃になる日は、まだまだ遠い。大人の四年と成長期の四年は同じではない。晴れて婚約者にはなれたが、結婚するまで安心などできない。
 どの国も聖女を欲している。いつどこで、政治的圧力によって横やりを入れてくるか、わかったものではない。婚約者という立場にあぐらをかくことなく、婚約期間中もちゃんと自分が彼女の心をつなぎ止めていなくては。
 わざと冷たくあしらったり、恋人に嫉妬してもらいたいがために他の女に目を向けたり、そんな駆け引きは愚者のすることだ。女は自分が試されていると知ると、気持ちが離れていく。

 ジュリアンにとって、これは生涯の恋だ。

 だからこそ、彼女に嫌われるようなことはしたくない。
 今日みたいに距離を縮めすぎるとクレアは赤面して逃げてしまう。彼女が心を開いてくれるまで、適度な距離感を保たなければならない。今日は嬉しい気持ちが前に出すぎて、つい自重を忘れてしまった。
 紳士だ。紳士を心がけろ。そう自分に言い聞かせ、ジュリアンは前髪をかき上げた。

(好きな人に振り向いてもらうのって結構大変だな……)

 まずは心置きなく自分と恋をしてもらうために、彼女の身辺から整えていこう。
 公にされているジュリアンの帰国時期は最近だが、実際は留学先から一足先に母国に戻っていた。すべてはクレアの身の回りにいる人間を探るためだ。
 世の中は金だ。お金を積めば、経歴などいくらでも誤魔化せる。書類上じゃない、本当にクレアの周囲にふさわしい人間かどうか、自分の目で見て確かめたかった。
 髪色を変えて文官に変装したジュリアンは調査を開始して、彼女が心から信頼置けるだろう人物をリストアップした。以前、クレアに助けてもらったという下働きの女は身分は低いものの、歳も近くて性格も似ていた。王宮で気詰まりしている様子のクレアの話し相手にぴったりだと思った。
 今の自分は王太子だ。権力で身分の用意など、どうとでもなる。他にも入れ替えが必要だと感じた侍女もすでに代わりを見つけている。
 彼女の護衛騎士も自分の護衛から一人選び、残りは貴族のしがらみがない新人騎士から有望な男を何人か選んである。聖女に恋はしないことを誓った念書は執務室に保管済みだ。抜かりはない。

(……おそらく、今日のことで警戒されているだろうから、まずは警戒を解かなくちゃな。さて、何を手土産に許しを請おうか)

 今回の調査過程で彼女の好みはだいたい把握したが、自分から言ってもいないことを知られているのは気分がよくないだろう。あくまで彼女の口から聞いてから用意するのがいい。
 円滑な人間関係の構築において、印象操作は大事だ。
 今後は攻めるばかりではなく、年下らしく甘えてみる方法もいいかもしれない。見たところ、クレアは甘えられることに弱いようだ。長年、弟妹の面倒を見ていた影響だろう。
 しかし、無害だと安心されて弟ポジションを確立しても困る。やりすぎは禁物だ。
 ちゃんと異性として意識されるように、ほどよく調整する必要がある。

(……頑張ろう。聖女になった彼女を、普通の女性として愛するために。あと、もし好きだと言われても、うっかり押し倒さないように、いざというときのシミュレーションもしておかないと……)

 人生はいつだって予想外のことが起きる。
 不可能だと諦めた夢が現実として叶うことがあるぐらいだ。こんな奇跡が突然転がり込んでくるなんて経験、もうないだろう。
 頭上で小鳥が鳴き声を上げて必死に羽をばたつかせながら、親鳥を追いかけていく。その姿を眺め、ジュリアンはクレアと初めて会ったときのことを思い出した。

 ◆◆◆

 それは、初めて王宮から抜け出した帰り道のこと。
 下町で大きな祭りがあったせいで人波にのまれてしまい、護衛とはぐれてしまった。不運はそこで終わらなかった。お酒で気分がよくなった酔っ払い数人に絡まれ、気づけば酒樽のように担がれていたのだ。
 まるで荷物のように運ばれている状況に、頭の理解が追いつかない。
 いくら暴れても屈強な男の体はびくともしなかった。一体どこに連れて行かれるのかと考えて、嫌な想像が脳裏をよぎった。

(……まさか、俺は売られるのか?)

 下町には、貧民街と呼ばれる下級層の人間が暮らす場所がある。
 治安が悪いから絶対に近づかないように、と護衛から散々言い含められてきた。時に違法な取引現場になることもあるという。
 王宮という温室でぬくぬくと育った自分とは縁のない世界。今になって理解する。これまで、自分は何重にも大事に守られていたのだと。
 子供の体では満足に抵抗もできない。自分は一体どうなってしまうのか。
 恐怖ばかりが頭の中を占めていく。
 ふと、男の足が止まった。ああもうだめだ、と思ってギュッと目をつぶる。だが丁寧な手つきで下ろされたのは木製の椅子だった。きょろきょろと周囲を見渡し、あれ、と首を傾げた。
 食べかすが散らかっている不衛生な集会所を予想していたが、比較的きれいな店内だ。食事処なのか、中央に大テーブル、窓際に小テーブルの客席がある。鼠はいないし、変な臭いもしない。清掃も行き届いている。
 男が「女将ー!」と叫ぶと、奥の台所から年配の女性がやって来た。くたびれた服にエプロンを着て、いかにも庶民といった装いだ。

「もう店じまいなんだけど。……ちょっと誰よ、その子」
「迷子だ。一人で歩いていたから連れてきた。温かい飲み物を用意してやってくれ」
「それで問答無用で連れてきちゃったの? 怖がってるわよ、かわいそうに。でもまぁ、確かに見目はいいね。今日はよそ者もたくさん来ているし、人さらいに連れて行かれても不思議じゃない。保護したのは正解だったかもね」
「……!」

 もしや自分は助けられたのか。警戒は驚きに変わっていく。
 向けられるのは値踏みするような視線ではなく、子供の身を案じる温かい視線だ。
 ジュリアンは言葉を失い、その場に座り込むことしかできなかった。極度の緊張状態に陥っていたため、頭の上で大人たちが会話していたが、耳に入ってこない。
 しばらくして、ことり、と机の上にマグカップが置かれる。
 ほわほわと湯気が出ていて、出来たてだとわかる。だが毒味後の食事しか摂ったことがないジュリアンにとって、温かい食事は未知の領域だ。護衛がいる手前、今日の屋台だって食べ物には手をつけていない。とはいえ、今は警戒心より好奇心のほうが勝っていた。
 両手でマグカップを包み込み、おそるおそる一口飲んでみる。

「……おいしい……」
「それはよかった」

 思わずもれたつぶやきに女将がにかっと豪快に笑う。
 なんとなく居心地が悪い思いを抱えながら、ちびちびとホットミルクを飲む。温かい飲み物は強ばっていた体だけでなく、心までもほぐしていった。
 
「クレア。私はこの子の保護者を探してくるから、それまで話し相手になってやってくれるかい?」
「うん。わかった。いってらっしゃい」

 女将の後ろにいた女の子は店主を見送ると、すぐに戻ってきた。
 動きやすいように、くすんだ金髪を後ろで一つ結びにしている。彼女が歩くたび、背中で髪の毛先がゆらゆらと揺れる。
 年齢は十四・十五歳くらいだろうか。緊張感はなく、家庭的な温かさを持った素朴な少女だ。のびのびとした様子は、王宮で働く侍女と似ても似つかない。
 彼女は膝をかがめてジュリアンに目線を合わす。

「あなた、お名前は?」
「…………リ、リアンだ」
「リアンね。わたしはクレアよ。よろしくね」
「…………」
「女将さんは人捜しが得意なの。大丈夫、すぐに合流できるわ」

 どう切り返していいかわからず口を真一文字に結ぶと、黄水晶の瞳が優しく細められた。
 その後、彼女の言葉通り、はぐれていた護衛たちと無事に再会を果たした。

「無事に見つかってよかったね!」
「あ……うん」
「じゃあ、またね」

 去り際に見せた、ぽかぽかのお日様の笑顔に心が震えた。
 それからも、たびたび王宮を抜け出して彼女に会いに行った。彼女を含め、下町の皆は普通の子供として接してくれた。王子として扱われない環境は気が楽だった。
 思ったことをそのまま言っても、誰も咎めない。王子らしくあることを求められない。
 しかしジュリアンは王子だ。庶民との結婚なんて許されるわけがない。
 そして王族である以上、一定の成果を国民に示す義務がある。広い視野を持つためにと、もっともらしい言い訳を並べて留学を申し出た。だが本当は他国に行くことで気持ちを整理し、初恋に終止符を打とうとしていたのだ。
 なぜなら、好きな気持ちが大きければ大きいほど、忘れるのにも時間がかかるから。
 ジュリアンには時間が必要だった。
 けれども物理的な距離が離れたぶん、美化された思い出を振り返る日が多くなったのは誤算だった。最大の番狂わせは、自分の兄が聖女クレアの夫に選ばれたことだ。

 自分が先に生まれていれば。

 そう思ったことは一度や二度ではない。しかし、聖女の婚約者に名乗りを上げて認められるほど、ジュリアンには特別際立った成果がなかった。
 王太子の椅子は兄がふさわしい。
 第二王子であるジュリアンはせいぜい二番手だ。ゆくゆくは国王となった兄を支えるための駒に過ぎない。そう自分に言い聞かせていた時期もあった。
 しかし、今は自分がクレアの婚約者だ。
 もう二度と、彼女を諦めるつもりはない。彼女を幸せにする役は自分だ。
 ジュリアンにはクレアが必要なように、いつか彼女にも必要としてもらえるように。どちらかに依存するのではなく、お互いを支え合うような関係になりたいと思う。

 ◆◆◆

 その後、王太子妃になった後も聖女は世界中に足を運び、身分や人種にとらわれず、あらゆる人の不治の病さえ治していった。
 彼女のサポートは、夫の王太子自らが務めていたという。
 聖女は王族より尊ぶべき存在だと王太子は主張し、ただのお下がりの妃にするのを拒んだ。
 外交を兼ねていたとはいえ、王太子夫妻が揃って国外の農村に行くのは前代未聞である。だがその意思を後押しした王太子の兄夫婦が政務を積極的に手伝い、結果的に諸外国の援助を多く受けられた国はより発展した。

 今日も聖女の逸話が生まれる。各地で王太子夫妻の伝説を残しながら。
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