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10. 制御できない感情
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正式に王太子の婚約者と周知された翌日。
クレアの居住場所は神殿から宮殿に移されることになった。お世話になった神殿関係者との別れを済ませ、準備された部屋へと向かう。
どんな華美な調度品とご対面するのかと身構えていたが、最低限の調度品が用意されただけの空間に拍子抜けした。従者によれば、あとでクレア好みに変更できるように手配されたらしい。神殿から持ってきた荷解きが済むと、入れ違いでお茶を持ってきた侍女が尋ねてくる。
「聖女様。王太子殿下からお茶会のお誘いが来ておりますが、いかがされますか」
「……伺いますとお伝えください」
「かしこまりました」
猫足のソファにそっと腰かける。
今日から、ここが帰る場所になる。結婚すればクレアも王族の一人に数えられる。王太子妃として過ごす生活は一向に想像できないが、少しずつでも自分の気持ちにも折り合いをつかねばならない。
婚約者お披露目の夜会以降、物思いに沈むことが多くなった。
知らないふりをするのが正解だとわかっている。だが心の中で落胆している自分がいた。どうしてか、今までどおりに流すことができない。
自分の感情なのに、うまく制御できずにいる。
(最近はくよくよしてばかりね。こんなの全然、聖女らしくない。でも……リアンは無理して笑っていることに気づいてくれて、『もっと自分を大事にしてほしい』って言ってくれた。リアンだけが……)
ジュリアンのことを考えるだけで他のことが考えられなくなる。こんなことは初めてだ。仕事だと割り切って、演じることには慣れていたはずなのに。どうしてこれほど心が乱されるのか、わからない。
あれからメッセージカードの返信もずっとできていない。
彼も怪訝に思っているだろう。クレアが返事を書けなくなってから、ジュリアンからのカードも届かなくなった。単純に公務が忙しいだけかもしれない。しかし、違う理由からだとすれば。
(わたしは……どうしたらいいの?)
大きな窓から見える青一色に染められた空と反対に、クレアの心は靄がかかったように一向に晴れる気配がなかった。
◆◆◆
初夏の陽射しを遮る東屋は人気のない離宮にあるからか、閑散としている。
夏色に染まる庭園を背景に、クレアはジュリアンと向かい合って紅茶を飲んでいた。周囲に人はおらず、護衛も離れた場所で待機している。
久しぶりに気兼ねなく話せるため、ジュリアンも砕けた態度でリラックスしている。王太子としてかしこまった態度のときは少しさみしく感じていたが、距離を置きたい今は逆に以前に戻りたい気持ちが強い。
少しでも気持ちを落ち着けようと、切り分けられたタルトを一口食べてみる。
(……っ!? 酸味と甘みの比率が見事だわ)
食べた瞬間から幸せに包まれる味だった。ラズベリーとブルーベリーがどっさり載ったタルトは、外の生地はサクサクして香ばしく、酸味の強いベリーの下には甘いカシスクリームがぎゅっと敷き詰められていた。
タルトに合わせた茶葉は渋すぎず、ちょうどいい苦みだ。
美味しさの余韻に浸っていると、それを待っていたようにジュリアンが口を開いた。
「体調はどう? なにか無理していたりしない?」
「……平気よ。ちゃんと休んでいるもの」
「本当に?」
青灰色の瞳はひたむきにクレアを見つめる。
誠実な眼差しに射止められ、鼓動の音が否応なく速まる。
聖女の奇跡を期待する信者の瞳とは違う。やや熱を帯びた視線はまるで恋人に向けるようで、喜びよりも先に戸惑いが生まれた。
「クレア……? なんだか顔が赤いけど、熱でもあるんじゃ……?」
「だ、大丈夫! 本当になんでもないから!」
必要以上に意識していることを知られたくなくて、つい反射的に強く言い返してしまう。やってしまった後で自分の失態に気づいた。
「ごめんなさい……。言い過ぎたわ」
「いいよ。気にしないで。むしろ、思ったことはそのまま吐き出してほしいくらいだから。離れていたぶん、君のことをもっと知りたい」
「……っ……」
「ねえ。やっぱり正体を隠していたこと、怒ってる?」
「……どうしてそう思うの?」
「神殿で再会したときも最後まで言い出せなかったから……」
ジュリアンはティーカップの縁を人差し指でそっとなぞり、つぶやくように言う。
しゅんと怒られるのを待つ犬のように見えて、クレアはかぶりを振る。
「別に怒ってなんかいないわ。わたしが逆の立場でも、きっと同じことをしていたもの。だいたい不用意に正体を明かすなんて、自分の身を危険にさらすようなものでしょう。あなたの選択が間違っているとは思わない」
「それは…………」
「リアン。わたしは割と親しい関係だったと思っていたのだけど、あなたは違う?」
「……違わないよ」
ジュリアンはクレアを対等の存在として扱ってくれる。
だったら、変な遠慮はしないほうがいいだろう。彼は王太子である前に、一人の人間なのだから。
「じゃあ、単刀直入に聞くわね。リアンは、ずっと前から好きな人がいるんじゃない?」
「ど……どうしてそれを……」
「わたし、聞いてしまったの。隣国に好きな人がいたのでしょう? それこそ、ずっと行動を共にするほどの――」
「クレア! ちょっとストップ。お願いだから、少し待ってほしい」
クレアの居住場所は神殿から宮殿に移されることになった。お世話になった神殿関係者との別れを済ませ、準備された部屋へと向かう。
どんな華美な調度品とご対面するのかと身構えていたが、最低限の調度品が用意されただけの空間に拍子抜けした。従者によれば、あとでクレア好みに変更できるように手配されたらしい。神殿から持ってきた荷解きが済むと、入れ違いでお茶を持ってきた侍女が尋ねてくる。
「聖女様。王太子殿下からお茶会のお誘いが来ておりますが、いかがされますか」
「……伺いますとお伝えください」
「かしこまりました」
猫足のソファにそっと腰かける。
今日から、ここが帰る場所になる。結婚すればクレアも王族の一人に数えられる。王太子妃として過ごす生活は一向に想像できないが、少しずつでも自分の気持ちにも折り合いをつかねばならない。
婚約者お披露目の夜会以降、物思いに沈むことが多くなった。
知らないふりをするのが正解だとわかっている。だが心の中で落胆している自分がいた。どうしてか、今までどおりに流すことができない。
自分の感情なのに、うまく制御できずにいる。
(最近はくよくよしてばかりね。こんなの全然、聖女らしくない。でも……リアンは無理して笑っていることに気づいてくれて、『もっと自分を大事にしてほしい』って言ってくれた。リアンだけが……)
ジュリアンのことを考えるだけで他のことが考えられなくなる。こんなことは初めてだ。仕事だと割り切って、演じることには慣れていたはずなのに。どうしてこれほど心が乱されるのか、わからない。
あれからメッセージカードの返信もずっとできていない。
彼も怪訝に思っているだろう。クレアが返事を書けなくなってから、ジュリアンからのカードも届かなくなった。単純に公務が忙しいだけかもしれない。しかし、違う理由からだとすれば。
(わたしは……どうしたらいいの?)
大きな窓から見える青一色に染められた空と反対に、クレアの心は靄がかかったように一向に晴れる気配がなかった。
◆◆◆
初夏の陽射しを遮る東屋は人気のない離宮にあるからか、閑散としている。
夏色に染まる庭園を背景に、クレアはジュリアンと向かい合って紅茶を飲んでいた。周囲に人はおらず、護衛も離れた場所で待機している。
久しぶりに気兼ねなく話せるため、ジュリアンも砕けた態度でリラックスしている。王太子としてかしこまった態度のときは少しさみしく感じていたが、距離を置きたい今は逆に以前に戻りたい気持ちが強い。
少しでも気持ちを落ち着けようと、切り分けられたタルトを一口食べてみる。
(……っ!? 酸味と甘みの比率が見事だわ)
食べた瞬間から幸せに包まれる味だった。ラズベリーとブルーベリーがどっさり載ったタルトは、外の生地はサクサクして香ばしく、酸味の強いベリーの下には甘いカシスクリームがぎゅっと敷き詰められていた。
タルトに合わせた茶葉は渋すぎず、ちょうどいい苦みだ。
美味しさの余韻に浸っていると、それを待っていたようにジュリアンが口を開いた。
「体調はどう? なにか無理していたりしない?」
「……平気よ。ちゃんと休んでいるもの」
「本当に?」
青灰色の瞳はひたむきにクレアを見つめる。
誠実な眼差しに射止められ、鼓動の音が否応なく速まる。
聖女の奇跡を期待する信者の瞳とは違う。やや熱を帯びた視線はまるで恋人に向けるようで、喜びよりも先に戸惑いが生まれた。
「クレア……? なんだか顔が赤いけど、熱でもあるんじゃ……?」
「だ、大丈夫! 本当になんでもないから!」
必要以上に意識していることを知られたくなくて、つい反射的に強く言い返してしまう。やってしまった後で自分の失態に気づいた。
「ごめんなさい……。言い過ぎたわ」
「いいよ。気にしないで。むしろ、思ったことはそのまま吐き出してほしいくらいだから。離れていたぶん、君のことをもっと知りたい」
「……っ……」
「ねえ。やっぱり正体を隠していたこと、怒ってる?」
「……どうしてそう思うの?」
「神殿で再会したときも最後まで言い出せなかったから……」
ジュリアンはティーカップの縁を人差し指でそっとなぞり、つぶやくように言う。
しゅんと怒られるのを待つ犬のように見えて、クレアはかぶりを振る。
「別に怒ってなんかいないわ。わたしが逆の立場でも、きっと同じことをしていたもの。だいたい不用意に正体を明かすなんて、自分の身を危険にさらすようなものでしょう。あなたの選択が間違っているとは思わない」
「それは…………」
「リアン。わたしは割と親しい関係だったと思っていたのだけど、あなたは違う?」
「……違わないよ」
ジュリアンはクレアを対等の存在として扱ってくれる。
だったら、変な遠慮はしないほうがいいだろう。彼は王太子である前に、一人の人間なのだから。
「じゃあ、単刀直入に聞くわね。リアンは、ずっと前から好きな人がいるんじゃない?」
「ど……どうしてそれを……」
「わたし、聞いてしまったの。隣国に好きな人がいたのでしょう? それこそ、ずっと行動を共にするほどの――」
「クレア! ちょっとストップ。お願いだから、少し待ってほしい」
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