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2. 二年ぶりの常連客は今

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 連日、神殿に聖女の治癒術を求めて押しかける人は数知れず。今までは王都近辺からの患者が多かったが、最近は海を渡ってきた外国人まで訪れるようになっている。これは世界で聖女の認知度が高くなったことを表している。
 そのおかげか、先週から始まった王太子妃教育も午前中のみになった。正午までマナーや教養をこれでもかと詰め込まれて、午後からは神殿でのお勤めに励む。諸事情により王太子の帰国も遅れているらしい。おかげで予定していた顔合わせはしばらく延期となった。
 日々のルーティンを淡々とこなす。心を無にして与えられた役割をやり抜く。

 しかし、聖女だって、中身はただの人間だ。

 毎日たくさんの治癒術を使っていれば疲れるし、いくら慣れたと言っても聖女の笑顔を一日中キープするのもなかなかの苦行だ。
 王宮に戻れば、見た目は美しいが毒味済みの冷めた食事、無駄に広いベッドが待っている。数人の侍女がクレアを待ち構え、体中をぴかぴかに磨き上げる。高い香油を使った全身マッサージはまどろみを誘うが、身体の疲れは取れても心の疲れまでは取れない。
 そして何より、王宮は常に監視されているようで落ち着かない。気心の知れる人が身近に一人でもいたら違っただろうが、護衛をはじめ、皆の緊張感が伝わってきて気が休まるときがないのが現状だ。
 無理して気丈に振る舞っていたが、たび重なる心労もたたり、クレアはとうとう熱を出して寝込んでしまった。医者には過労と診断された。
 熱で魔力が不安定になっているらしく、自分に対して治癒術を発動することもできない。上級神官が調合してくれた風邪薬を意識が朦朧としながらも飲み、クレアはそのままベッドで眠りについた。

 聖女が倒れた。

 その事態を重く受け止めた神殿は、議会の異議を押し切り、聖女の身柄を神殿で預かることを決定した。高熱でうなされていたクレアが次に目を覚ました場所は神殿内だった。
 だが平熱に戻ってすっかり元気になった聖女は、今も病気療養中という扱いになっている。
 聖女の奇跡にすがる民を放ってはおけないと部屋を出ようとしたら、身の回りの世話をしてくれる側仕えがずらりと扉の前に立ち塞がった。
 年嵩のまとめ役が前に出て、まずは自分の体と心を労ってください、となだめられた。

 とはいえ、自分は聖女だ。はいそうですか、と素直に引き下がるわけにはいかない。

 聖女の奇跡を求めて、神殿に押しかけてきた人たちはどうなるのか。今も治療が必要な人がいるのに、自分だけ、のうのうと過ごせるわけがない。
 けれども、クレアの反論は想定済みだったのか、あっけなく却下された。
 聞けば、王都に詰めかけているのは軽傷者ばかりで、聖女自ら治療する必要はないとのこと。神官でも調合薬で軽い症状なら充分に手当てができる、というのが神殿側の主張だった。
 おそらく、倒れてしまったのがいけなかったのだろう。自己管理ができていなかったクレアの落ち度だ。突発的な神殿での休息も、今回ばかりは甘んじて受けるしかない。
 そのぐらい、たくさんの人に心配をかけてしまったのだから。

 ◆◆◆

 神殿預かりになって早一週間。読書や刺繍をしながら静かな療養生活を過ごしていると、神殿長がクレアの部屋を訪れた。
 軽く雑談を交わした後、胸まで伸びたふさふさの白髭を撫でつけながら、神殿長は温和な顔で言った。

「聖女様。本日は、あなたに会わせたい方がいます」
「どなたでしょう?」
「そんなに緊張なさらないでください。あなたのよく知る方ですよ」

 首を傾げるクレアに片目をつぶり、神殿長が扉のほうへ近づく。扉が開く音がして、一人の少年が静かに入室した。
 着ているのは、白地に緑のラインが入った騎士の見習い服だ。
 けれども、成長期だからだろうか。記憶していた彼の頭の位置がだいぶ高い。前は彼を見下ろす格好だったのに、今は同じくらいの目線になっている。
 この国では珍しくない栗色の髪はふわふわと波打っており、青灰色の瞳はクレアの姿を認めると懐かしそうに目を細めた。その仕草は、あまりにも記憶の中と同じもので。

「……リアン……?」

 おそるおそる名を呼ぶと、リアンが子供のように破顔した。

「よかった、覚えてくれていたんだね。二年ぶりぐらいかな? 元気だった?」
「え、ええ。でもあなた、確か隣国に留学してくるって……五年ほど帰ってこられないって言っていなかった?」

 クレアが思わず問いかけると、途端に顔が曇る。だが、それも一瞬の出来事だった。
 瞬き一つで憂いの表情を消して、リアンがおどけて笑う。

「ちょっとね、家の事情で帰国の予定が早まったんだ。それより、今日は君を連れ出す役目をもらっていてね。久しぶりに下町に行くのはどう?」
「…………は?」
「だから、下町に行こうよ。もちろん、お忍びで。たまには監視なしで家族に会いたいでしょ? こっそり下町の皆に会うのもいいし、ただ目的もなくお店巡りするのも楽しいと思うよ」

 彼は一体、何を言っているのだろう。
 聖女は顔が割れている。神殿にこもっているはずの聖女が、普通の女の子のように出歩けるわけがないのに。
 それに王宮に入ってからは、聖女には常に護衛がつけられていると聞いている。護衛の役目は聖女の身の安全および監視だ。護衛の目は、クレアが聖女の仕事から逃げ出さないためにある。

(確かにリアンの話はとても魅力的だわ。でも、そんな軽率な行動できるわけが……)

 同意を求めるように神殿長を見やると、彼は得心がいったように深く頷いた。

「本日、聖女様は一日ずっと神殿で静養されています。緊急の案件が出ても、私がすべて処理いたします。聖女様の集中の妨げになる者がこの部屋を訪れることはありません」
「え、ええ。そうですよね」

 しかし、次の言葉はクレアが予想した言葉のどれとも違うものだった。

「ですから……たとえば、下町で聖女様とよく似た顔の方が現れても、その方は聖女様ではないのです。よく似た別人というのは案外、身近にいらっしゃるのかもしれませんね」
「…………」
「聖女様はこれまでたくさん頑張っていらっしゃいました。ですが、聖女が息抜きをしてはいけない、という決まり事もございません」

 予想外の言葉に顔を上げれば、孫を慈しむような眼差しと目が合った。神殿長は優しくクレアを見つめ、静かに傍聴していた少年に視線を移した。
 アイコンタクトで示し合わせたように、リアンが言葉を引き継ぐ。

「聖女の役目は今は考えなくていい。この部屋を出たときから、君はただの女の子だ。大丈夫、少し変装すれば絶対にバレない。俺はそのために来たんだから」
「……え……?」
「だって、クレアは無理して笑っているよね? 遠目から見ててもわかるよ。あんな風に無理を続けていたら君の心が保たなくなる。もっと自分を大事にしてほしい」
「大事に……」

 リアンの言葉を心の中で繰り返す。そして愕然とした。
 聖女の仮面を被り続けることは、素の自分を隠すことと等しい。国民が望む聖女であろうと、いつも緊張の糸を張っていた。当然、自分自身を大事にできる余裕なんてない。
 そのことに気づき、急に足場が崩れた心地になった。

「今のクレアは、自分を大事にできてる?」

 小さい子に言い聞かせるような優しい声なのに、その言葉はクレアの心に深く刺さった。何も言い返せないでいると、ぽんと彼の手が自分の頭に乗せられる。

「仕事に全力で頑張るのもいいけど、たまには息抜きも必要だよ」
「……そう、よね。うん、その通りだわ」
「じゃあ、決まりだね。善は急げだ。早速、行こう」

 少し迷った末に、リアンが差し出す手に自分の手を重ねる。
 ひんやりと冷たい感触に内心ドキリとするが、嬉しそうに微笑むリアンの手前、この驚きは胸の内に隠しておかねばならない。

「いってらっしゃいませ、聖女様。ご無事のお戻りをお待ちしております」

 穏やかな声に反射的に顔を上げる。すると、クレアを安心させるように小さく頷かれた。
 行っておいで、ということだろう。

(……神殿を出たら、ただのクレアに戻れる。ひとまず、聖女の役目はいったん忘れよう。だって、ここにはわたしを心配してくれる人たちがたくさんいるのだから)

 彼らが休めと言うのなら、きっと休んだほうがいいのだ。いざというときに彼らを守るためにも。だから、今日だけは普通の女の子に戻ってもいいのだ。
 そう結論づけて、クレアは神殿長に頭を下げた。

「神殿長にはご迷惑をおかけしますが、戻るまでの間、よろしくお願いします」
「ふふ。子供に頼られるのが年長者の務め。どうぞお気になさらず、楽しんでいらっしゃい」
「はい……いってきます!」

 慣れた動きでリアンがクローゼットの横にあった壁のくぼみを押す。すると、壁の一部が奥に沈み、地下通路が出てきた。おそらく緊急避難用の秘密の道なのだろう。
 リアンに手を引かれるまま、一本道の隠し通路を抜けて地上に出る。周囲を見渡すと、神殿の裏手にある雑木林の中だということがわかった。
 鳥の鳴き声に空を見上げれば、青い絵の具にたくさんの白色を混ぜたような、水色のキャンパスが広がっていた。遠くにはモコモコの綿雲がいくつか浮かんでいる。

 この空の下に、クレアが守るべき人たちがいる。だが今のクレアは聖女に選ばれる前の、ただのクレアだ。胸に満ちるのは大きな開放感だった。
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