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01『黒沼あい話』(2016)

03:田代

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 妹は花よりも団子のほうがいいらしく、ステージに釘づけになって屋台の軽食を頬張っていた。
 ツルはというと団子よりも花のほうがいいらしく、一通り園内をぐるっと一周してきて、いまは妹と一緒にステージを見ながら昼食を済ませている。
 オレとツルは、午後になってから黒沼へ移動することにした。
 これから行われる「超神ネイガー」のショーを見てから、妹は合流するらしい。
 それに付き添う母さんの二人を残して、オレとツルは大松川ダム公園を出発した。


 大松川ダム公園から、黒沼はそう遠くない場所にある。
 歩き始めてものの数分で、黒沼の近くにある駐車場に到着した。この周辺に昔、田代の集落があったらしい。
 一台も車が停まっていない駐車場を通り過ぎ、そばの砂利道を下りて奥へと進む。


 左側には黒々とした水面が、木々の隙間から顔を覗かせるように横たわっていた。
 吹き抜ける一陣の風がこずえを揺らし、自然が生み出す爽快な音色が響く。
 午後の暖かな陽射しが空から流れ込み、目映まばゆいばかりの幻想へいざなうかのように、辺りを光で満たしていた。


 ツルは雑草の生い茂った脇を通り抜け、黒沼へと近づいていく。
 あとを追いかけてオレは声をかけた。


「あんまり近くに行くなよ。また落ちでもしたら大変だから」


「また?」


「あ、いや。あのときびしょ濡れだったから、鶴ヶ池にでも落ちたんじゃないかと思って……」


 妹が話してくれた伝説は知らなかったが、幼い頃から黒沼は「底なし沼だ」と聞かされていたことを思い出す。
 その理由がようやくわかった。


 そばに落ちていた小石を拾って、オレは黒沼に向かって投げる。
 楕円形の放物線を描いて、その小石は鈍い水音を響かせた。
 本当かどうかはわからないけど、と前置きしてオレは話し始める。


「昔から言われているんだよ。底なし沼で、黒沼には主が住んでいるって……」


「主?」


 ツルは、そう訊き返した。
 そのときあまりにも強い風が吹いて、ツルの声は風音と葉擦れの音で、いまにも消えてしまいそうな不安定さを帯びる。


「妹の話にも出てきたけど、言われるまで知らなかった。たぶん、あの伝説が元ネタだったんだろうな……」


 こういった伝説は、世界中に数え切れないほどあるのだろう。
 この黒沼も、そういった伝説群の一つに過ぎない。
 石をもう一つ拾いながら、オレは話を続けた。


「黒沼の主っていうのも、巨大な蛇だとか若い男性だとか、いろいろ言われているけど、クロウのことだったのかも……」


 なるべく水平になるように、石を水面へ向かって叩きつける。
 水切りをしようと思ったが、残念ながら一回で沈んでしまった。


「なにか思い出した?」


 石の行方を見送るツルの横顔に声をかけるも、長い髪に顔が覆われていて彼女の表情は読み取れない。
 ただ首を横に振っただけだった。


 ツルを先頭に来た道を戻ると、駐車場にさっきまではなかった車が一台停まっている。
 母さんの車だ。二人はそこで手を振って待っていた。


「どう?」


 妹が訊いてきたので、オレはツルがしたのと同じように、首を横に振ってみせた。


「なんか書いてあるど」


 なにかを見つめながら、母さんは手招きする。
 来たときに気づいてはいたが、駐車場に看板が立てられている。
 黒沼へ下りて行く砂利道の、その入り口付近だった。


 その看板は、長さが不揃いの細い丸太を、横に数本並べた作りをしている。
 そこには白い板が貼りつけられ、「伝説・口承のあやなす黒沼」と題が銘打たれていた。
 その板には、次のようなことが書かれている。


 ☆


 この黒沼は上大松川地区の産金伝説・長者伝説を伝える沼である。
 貧しい旅人が南部で若い女に頼まれ出羽路をたどり、黒沼にいたその妹へ手紙を届けると、お礼に金鉱を貰い福万長者と呼ばれる身になったと、菅江真澄の『雪の出羽路』にも書かれている。
 また、「天長四年の大地震で出来た」と伝えられる陥没湖である。「旱魃の年も水位が下がらない」と言われ、平鹿・仙北地方の農家が雨乞いを行う霊場でもあった。


 ☆


 ちらりと横目で見やると、ちょうど看板のところから黒沼の水面を見下ろせた。
 差し込んだ陽光の照り返しで、そこまでの黒さや暗さを感じない。
 近くの木々や山々が水面に映り込み、黒沼といっても単なる水溜まりのように思えた。


「向こうのほうにも『カンコウシンチョー』とかいうのがあったよ」


 妹が指し示した場所に、白い標柱が確かに立っていた。
 鶴ヶ池にあるものと同じく、細長い四角柱の形をしていて、それぞれの面に文字が書かれている。
 道路に立って見ると、そこには「菅江真澄の道 田代邑・黒沼」とあった。
「カンコウシンチョー」じゃなくて「スガエマスミ」だ。


 その標柱の向かって右側には、別の文章が書かれている。
「天長四(八二七)年の地震で生じたといわれる黒沼に、古来の竜神信仰があり、平鹿・仙北の農家が雨乞いを行う霊地であった」


 今度は反対側に回り込んでみた。正面からは向かって左側だ。
「『雪の出羽路』に記された黒沼と副万長者の話は典型的な産金伝説で、砂金に恵まれていた古い時代の一端を覗かせている」


 最後に「菅江真澄の道」と書かれた面の反対側を見たが、「教育委員会」と書かれているだけだった。
 なにか新しい情報かと淡い期待をしていたが、黒沼の入り口前にあった看板と、ほとんど書かれている内容は変わらない。


 落胆して妹たちのいるところへ戻ると、母さんが「なにかわがったが」と訊いてきた。
 オレは何度も、首を横に振る。黒沼というヒントだけでは、どうしようもできない。
 これ以上ここにいても、なにも進展しないように思えた。


「そろそろ帰ろうか?」


 そうオレが訊ねると、ツルは黒沼を見つめたまま、小さく頷いた。
 芝桜の会場からは民謡の歌声が流れている。
 妹の目当ては本当に「超神ネイガー」だけだったようで、母さんの車に乗り込んだあとは、満場一致で帰宅の途へとつく。
 車に揺られている間、山のみで構成された変わり映えのしない外の風景を、ツルは黙って眺めていた。


 開けた大きな道へと辿り着き、民家や商店の数が一気に増え出す。
 大松川ダム公園を素通りして、道なりに進んでいると、いつの間にか県道一〇七号線まで戻ってきていたようだった。
 そこを右折する。不意に、ツルが口を開く。


「おの話っこ聞いて、気になったごどがあるんだども……」


 今まで黙っていたのは落ち込んでいたためではなく、もしかして、ずっとそのことを考えていたのだろうか。


 妹は小首を傾げた。
「気になったこと? 鶴ヶ池と黒沼の伝説で?」


 ツルは力強く頷いた。その目は真っ直ぐに妹のことを見つめている。
「んだ。藍婆王山らんばおうさんって、こごの近くなんだぎゃ?」


「え? ……あ。さあ? どうだろう?」


 妹の顔には戸惑いの表情が浮かんでいた。
 その困惑する気持ちもわかる。
 この地域に十四年住んでいるが、俺だってそんな名前の山、聞いたこともなかった。
 伝説に詳しい妹でも、地理の知識には乏しいようだ。


 伝説の内容を思い返す。
 確かに、相野々あいののの近くに藍婆王山がなければ成り立たないようなストーリーではある。
 オレはスマホを取り出して検索する。


 トップに表示されたサイトをタップして開く。
 それは「鶴ヶ池荘つるがいけそう」のホームページだった。
 そこには紹介文とともに、さほど標高は高くなさそうな山の写真が掲載されている。
 妹とツルも、スマホを覗き込んできた。


「どこだろう。……まあ、とりあえず鶴ヶ池荘に行って、話を聞いてみる?」


 ハンドルを握る母以外の、後部座席に座る三人で多数決を採った。
 再び満場一致の可決により、オレの提案は実行される運びとなった。
 一旦、家へと戻り、歩いて鶴ヶ池のほうへと向かう。


 あいのの温泉・鶴ヶ池荘。
 開業したのは昭和四十三年のことで、平成九年には新たに良質な源泉を掘り当て、リニューアルオープンしている。
 風呂は洋風・和風の二種類があり、日替わりで男女が交代するため、どちらも楽しむことができる。
 適応症は神経や皮膚などの炎症、婦人病や切り傷など、うつや冷え性にまで効果があり、開業早々から「万病に効く」と好評だったのだそうだ。


 鶴ヶ池荘の正面から向かって右側に「あいのの温泉」、向かって左側には平成十年にオープンした「ホテル棟」がある。
 客室数は二十四部屋で、和室二十部屋・洋室四部屋で構成されている。
 そうホームページに記載されていた。
 鶴ヶ池荘のフロントで、四十歳代と思しき女性に訊ねてみる。


「少々お待ちください。知っている方に訊いて来ますので……」


 そう言って女性は、奥へとけていった。
 フロントを見回せば妹とツルは「レストラン『湖水』」の入り口に佇んでいる。
 お腹でも空いたのかと思ったが(妹はともかく、ツルは空いていそうだ)、なにかが額縁で飾られたものを見ているようだった。


 そこには、文章とイラストが添えられ、「秋田の民話『鶴ヶ池の話』」とタイトルが書かれている。
 どうやら観光客向けなのか、鶴ヶ池と黒沼の伝説を紹介しているようだ。
 だいたいの内容は、妹が言っていることと同じだったが、クロウが「黒太郎」、ツルが「つう」、藍婆王らんばおうが「羅婆王らばおう」という名前に変わっていた。


 三人でそれを眺めていたら、後ろから先ほどの女性に話しかけられる。
 身ぶり手振りで、藍婆王山の場所と、そこまでの行き方を教えてくれた。
 お礼を言って、オレたち三人は鶴ヶ池荘をあとにした。
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