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章第二「茨木童子」
(八)百鬼夜行の現はるる夜
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巫女装束を身にまとった少女がひとりと、金色に輝く毛並みを持つキツネが一匹、満天の星を眺めていた。
上空から見たら、だいぶ目立つんだろうな、と彩は感じる。
汗や泥に塗れることを前提として用いる体育着とは違い、同じく白を基調としているはずなのに、心なしか巫女装束のほうが汚れはよく目立った。
屋根の上で寝そべっていれば、あっという間に彩の背中は真っ黒くろすけになる。
きょう一日の戦いを思い返していると、急激に膀胱が締めつけられる感覚に襲われた。
やばい、動くと本当にヤヴァイ。
その集中攻撃は、立ち上がれなくなるほどの威力だった。そばに控えていた弥兵衛が、違和感に気づいて「どうしたんですか」などと訊いてくる。
彩は脚をクロスさせながら答えた。
「な、なんでもない」
「なんでもなくはないでしょう。どうしたんですか、その大量の汗」
「あ、汗? どうしたんだろう? 夏だからね。……うっ」
思わず声が漏れる。下のほうも漏れそう、マジで。
「くふっ……!」
「おしっこ、ですか。それとも、う○こですか」
やだ、この神使。ストレートすぎない?
「厠に行ってきます?」
「か、神様だから。糞尿はしないのよ」
「昭和のアイドルですか。生身の肉体を持っている限り、そうはいきませんよ」
「いざとなったら、ここから……」
「中世のパリですかっ!」さらに時代を遡らないでください、と弥兵衛はツッコミを入れた。
「中世の頃のパリでさえ、直に垂れ流していたわけじゃないんですから。神様である前に、年頃の女性として考えてください」
「年頃の女性って……」
その言い回しに、彩は思わず吹き出した。下からは吹き出さないよう、細心の注意を払いながら、鼻高々と胸を張る。
「身体はそうであっても、羞恥心なんて疾うの昔に置いてきたわよ」
「なに偉そうにしてんですか!」弥兵衛はムッとして、意地悪っぽく反論してみた。
「でも羞恥心がない割に、どこから食べ物を出したかについては、言いづらそうにしてましたけど~?」
「あ、あれはっ!」彩の蒼白していた顔面が、一気に紅潮していく。
「その、嫌われたくなくて……稲穂がっ! そんなことで嫌ったりするような人じゃないのはわかってるんだけど! でも、過去のトラウマが……」
「はいはい、わかりました」なおも言い続けようとする彩に対し、弥兵衛は適当にあしらった。
「ここから糞尿を垂れ流したら、それこそ間違いなく嫌われますよ?」
「うっ……」
至極まっとうな正論を突きつけられ、彩は仕方なく、弥兵衛の言うところの厠へ行くこととした。
「へいへい、トイレに行けばいいんでしょ。わかりましたよ」
仮設トイレくらい用意しとくんだった。稲穂の物忌みの準備に手いっぱいで、自分のことには頭が回らなかったことを、いまさらながらに後悔し始める。
ここから神社まで持つだろうか。彩は行きかけて、腹を押さえたままの状態で振り返った。ヘタに身体を捩れないため、頭だけを弥兵衛のほうへ向ける。
「その代わり! ちょっとの異変でも見逃したら、ただじゃおかないから!」
捨て台詞を吐き、そっと屋根から降りた。人間の身体は、厄介なこと極まりない。
その、少し彩が持ち場を離れた瞬間のことだった。まるで狙っていたかのように、そのちょっとの異変かもしれないことが起きる。
シャンシャン、という鈴とも笛とも判別できない謎の音が響き渡った。
弥兵衛は屋根の上から、音のするほうを見おろす。
さきほどまで、蓮口から水が出るような音がしていたため、五瀬家の間取りは把握していないが、たぶん浴室側なのだろうと推察した。
いまは消灯している浴室側に、妖気を放ったものどもが屯している。
三つ目の妖怪が「ここで間違いねえか? しょうけら」と確認し、しょうけらと呼ばれた真っ赤な舌を出した妖怪が「んだんだ、間違ぇねぇ」と頷く。
着物の女性が「ちょっと誰! 提灯を消さないでよ」と声を荒らげれば、煙管を吹かした頭でっかちの妖怪が進み出て「申し訳ねえ。そういう体質なもんでえ」と頭をかきながら謝る。
「……なに、あれ。百鬼夜行?」
久々に行列を連ねる妖怪たちを見て、弥兵衛は目を丸くした。
首だけを出して様子を見守っていたが、その行列は、近所に住む見覚えのあるモノたちばかりで構成され、特に害を与えるつもりで訪れたわけでもなさそうだ。
鬼の襲った家を見にきたのか、それとも天照大神の子孫がどんな人物なのかを見にきたのか、どちらにせよ、酒の肴を探して彷徨っているだけのように見える。
妖怪たちも少子高齢化のせいで、江戸時代に比べたら数が減りつつあった。前に、このような行列を見たのは、いつのころだったか。
数百歳級の年寄りがいないところを見ると、自分たちの勝手な判断で、この場所にきたことは明白である。興味の尽きない年ごろなのかもしれない。
首を引っ込めた弥兵衛は、彩が戻ってくるまでのあいだ、ひと眠りすることにした。あとで報告して、きっちり叱ってもらおう。
…………。
……。
人里離れた山の奥に、半透明な牛車が駐輪していた。本来、牽いているはずの牛の姿はなく、まわりには侍従の鬼たちが目を光らせている。前簾がかかっているはずの部分には、般若のような鬼女の面が浮かんでいた。牛車の側面についた物見から、年老いた鬼女が皺だらけの目元だけを出し、近くにいた鬼たちへ声をかける。
「あの後胤が、いまだ赤ん坊なりしとき。儂は、あの者と戦いたることあり」
突然の告白に、周囲の鬼たちがどよめく。
「あれは、かの保食神なり。幼児の身体となりぬれど見紛うはずもなし」
「神様が……? わざわざ人間を守っているのですか?」片足の欠落した娘が驚嘆の声を上げた。「やっぱり、ただならぬ御稜威を感じたけど……」
牛車に最も近い鬼が、ブラウン管を持ち上げる。そこには、丸まって眠り呆けるキツネの姿が、無防備にも映し出された。
画面が切り替わると、今度は稲穂が熟睡している様子が、モニターにて晒される。
空中に浮かぶ五つの赤い光が「これは、ついさっきの映像だ」と説明した。ふらりと近づいてくる五つの光は、次第に五つの眼へと変化していく。
ブラウン管を見つめながら、鬼女は忌々しげに舌打ちする。
「あの家へ、もうひとつの傀儡を送りました」
姿を現した、五つの鋭い眼光を持つ鬼が、牛車の前で跪く。その声は、エコーがかかったように響いた。
それでどうだったのかと、口々に周囲の鬼たちが、五つ目の鬼へ訊ねてくる。
「襲うなら、いまが絶好の機会ですぜ。あの神の気配も感じられず、いまなら獣くさいのが一匹いるだけです」
「ダメだダメだ」片足の欠損した鬼女の父上が吼える。
「朱雀からの報せが、まだ届いていない。もう少し待たねば」
エコーのかかった五つ目の鬼の声が「そんな悠長に構えていたら好機を逃してしまう」と忠告してきた。それに対して鬼女の父上は「その好機を確実なものとするために、いまは辛抱が必要なのだ」と断言する。
それから五つ目の鬼に向かって「動きがないか見張っておけ。くれぐれも見破られぬように……」と言い加えると、五つ目の鬼は気配を完全に消し、その場から立ち去っていったようだ。
「奴は天津神の後胤といえど、まだまだ、ただの童子なり」
牛車のなかで、じっと外を窺っていた鬼女が、いきなり扇子をパチンと閉じ、五つ目の鬼の意見に同調する。
「いまのうちに封じ込めておけば、我らの計画を妨げる者もいなくなるべし」
「わかっております。七日以内に脚をくっつけなければ……」
目を剥いて歯噛みした父上は、我が娘の欠けた右足を一瞥する。角の先まで真っ赤にした心を静めるため、息を吐きながら五瀬家がある方角を眺めた。
「こちらのほうが数は多い。もしものときは、強硬手段も厭わぬ」
上空から見たら、だいぶ目立つんだろうな、と彩は感じる。
汗や泥に塗れることを前提として用いる体育着とは違い、同じく白を基調としているはずなのに、心なしか巫女装束のほうが汚れはよく目立った。
屋根の上で寝そべっていれば、あっという間に彩の背中は真っ黒くろすけになる。
きょう一日の戦いを思い返していると、急激に膀胱が締めつけられる感覚に襲われた。
やばい、動くと本当にヤヴァイ。
その集中攻撃は、立ち上がれなくなるほどの威力だった。そばに控えていた弥兵衛が、違和感に気づいて「どうしたんですか」などと訊いてくる。
彩は脚をクロスさせながら答えた。
「な、なんでもない」
「なんでもなくはないでしょう。どうしたんですか、その大量の汗」
「あ、汗? どうしたんだろう? 夏だからね。……うっ」
思わず声が漏れる。下のほうも漏れそう、マジで。
「くふっ……!」
「おしっこ、ですか。それとも、う○こですか」
やだ、この神使。ストレートすぎない?
「厠に行ってきます?」
「か、神様だから。糞尿はしないのよ」
「昭和のアイドルですか。生身の肉体を持っている限り、そうはいきませんよ」
「いざとなったら、ここから……」
「中世のパリですかっ!」さらに時代を遡らないでください、と弥兵衛はツッコミを入れた。
「中世の頃のパリでさえ、直に垂れ流していたわけじゃないんですから。神様である前に、年頃の女性として考えてください」
「年頃の女性って……」
その言い回しに、彩は思わず吹き出した。下からは吹き出さないよう、細心の注意を払いながら、鼻高々と胸を張る。
「身体はそうであっても、羞恥心なんて疾うの昔に置いてきたわよ」
「なに偉そうにしてんですか!」弥兵衛はムッとして、意地悪っぽく反論してみた。
「でも羞恥心がない割に、どこから食べ物を出したかについては、言いづらそうにしてましたけど~?」
「あ、あれはっ!」彩の蒼白していた顔面が、一気に紅潮していく。
「その、嫌われたくなくて……稲穂がっ! そんなことで嫌ったりするような人じゃないのはわかってるんだけど! でも、過去のトラウマが……」
「はいはい、わかりました」なおも言い続けようとする彩に対し、弥兵衛は適当にあしらった。
「ここから糞尿を垂れ流したら、それこそ間違いなく嫌われますよ?」
「うっ……」
至極まっとうな正論を突きつけられ、彩は仕方なく、弥兵衛の言うところの厠へ行くこととした。
「へいへい、トイレに行けばいいんでしょ。わかりましたよ」
仮設トイレくらい用意しとくんだった。稲穂の物忌みの準備に手いっぱいで、自分のことには頭が回らなかったことを、いまさらながらに後悔し始める。
ここから神社まで持つだろうか。彩は行きかけて、腹を押さえたままの状態で振り返った。ヘタに身体を捩れないため、頭だけを弥兵衛のほうへ向ける。
「その代わり! ちょっとの異変でも見逃したら、ただじゃおかないから!」
捨て台詞を吐き、そっと屋根から降りた。人間の身体は、厄介なこと極まりない。
その、少し彩が持ち場を離れた瞬間のことだった。まるで狙っていたかのように、そのちょっとの異変かもしれないことが起きる。
シャンシャン、という鈴とも笛とも判別できない謎の音が響き渡った。
弥兵衛は屋根の上から、音のするほうを見おろす。
さきほどまで、蓮口から水が出るような音がしていたため、五瀬家の間取りは把握していないが、たぶん浴室側なのだろうと推察した。
いまは消灯している浴室側に、妖気を放ったものどもが屯している。
三つ目の妖怪が「ここで間違いねえか? しょうけら」と確認し、しょうけらと呼ばれた真っ赤な舌を出した妖怪が「んだんだ、間違ぇねぇ」と頷く。
着物の女性が「ちょっと誰! 提灯を消さないでよ」と声を荒らげれば、煙管を吹かした頭でっかちの妖怪が進み出て「申し訳ねえ。そういう体質なもんでえ」と頭をかきながら謝る。
「……なに、あれ。百鬼夜行?」
久々に行列を連ねる妖怪たちを見て、弥兵衛は目を丸くした。
首だけを出して様子を見守っていたが、その行列は、近所に住む見覚えのあるモノたちばかりで構成され、特に害を与えるつもりで訪れたわけでもなさそうだ。
鬼の襲った家を見にきたのか、それとも天照大神の子孫がどんな人物なのかを見にきたのか、どちらにせよ、酒の肴を探して彷徨っているだけのように見える。
妖怪たちも少子高齢化のせいで、江戸時代に比べたら数が減りつつあった。前に、このような行列を見たのは、いつのころだったか。
数百歳級の年寄りがいないところを見ると、自分たちの勝手な判断で、この場所にきたことは明白である。興味の尽きない年ごろなのかもしれない。
首を引っ込めた弥兵衛は、彩が戻ってくるまでのあいだ、ひと眠りすることにした。あとで報告して、きっちり叱ってもらおう。
…………。
……。
人里離れた山の奥に、半透明な牛車が駐輪していた。本来、牽いているはずの牛の姿はなく、まわりには侍従の鬼たちが目を光らせている。前簾がかかっているはずの部分には、般若のような鬼女の面が浮かんでいた。牛車の側面についた物見から、年老いた鬼女が皺だらけの目元だけを出し、近くにいた鬼たちへ声をかける。
「あの後胤が、いまだ赤ん坊なりしとき。儂は、あの者と戦いたることあり」
突然の告白に、周囲の鬼たちがどよめく。
「あれは、かの保食神なり。幼児の身体となりぬれど見紛うはずもなし」
「神様が……? わざわざ人間を守っているのですか?」片足の欠落した娘が驚嘆の声を上げた。「やっぱり、ただならぬ御稜威を感じたけど……」
牛車に最も近い鬼が、ブラウン管を持ち上げる。そこには、丸まって眠り呆けるキツネの姿が、無防備にも映し出された。
画面が切り替わると、今度は稲穂が熟睡している様子が、モニターにて晒される。
空中に浮かぶ五つの赤い光が「これは、ついさっきの映像だ」と説明した。ふらりと近づいてくる五つの光は、次第に五つの眼へと変化していく。
ブラウン管を見つめながら、鬼女は忌々しげに舌打ちする。
「あの家へ、もうひとつの傀儡を送りました」
姿を現した、五つの鋭い眼光を持つ鬼が、牛車の前で跪く。その声は、エコーがかかったように響いた。
それでどうだったのかと、口々に周囲の鬼たちが、五つ目の鬼へ訊ねてくる。
「襲うなら、いまが絶好の機会ですぜ。あの神の気配も感じられず、いまなら獣くさいのが一匹いるだけです」
「ダメだダメだ」片足の欠損した鬼女の父上が吼える。
「朱雀からの報せが、まだ届いていない。もう少し待たねば」
エコーのかかった五つ目の鬼の声が「そんな悠長に構えていたら好機を逃してしまう」と忠告してきた。それに対して鬼女の父上は「その好機を確実なものとするために、いまは辛抱が必要なのだ」と断言する。
それから五つ目の鬼に向かって「動きがないか見張っておけ。くれぐれも見破られぬように……」と言い加えると、五つ目の鬼は気配を完全に消し、その場から立ち去っていったようだ。
「奴は天津神の後胤といえど、まだまだ、ただの童子なり」
牛車のなかで、じっと外を窺っていた鬼女が、いきなり扇子をパチンと閉じ、五つ目の鬼の意見に同調する。
「いまのうちに封じ込めておけば、我らの計画を妨げる者もいなくなるべし」
「わかっております。七日以内に脚をくっつけなければ……」
目を剥いて歯噛みした父上は、我が娘の欠けた右足を一瞥する。角の先まで真っ赤にした心を静めるため、息を吐きながら五瀬家がある方角を眺めた。
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