なんとなく怖い話

島倉大大主

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第七話

食虫花 上

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 男は振り返った。

 じっと立ったまま耳を澄ます。一瞬だが音楽が聞こえた気がしたのだ。
 CDの電源を切るのを忘れたのだろうか? しかし、あれだけ大音量でかけていたのだから、切っていなかったら施錠する前に気づくはずだ。
 男は苦笑して頭を掻いた。
 シュトラウスだったか――ともかく長いオペラっぽい曲を二時間近く大音量で聞いていたわけだから、耳がおかしくなっているのだろう。
 もう若くないのだから、これからは音量を絞った方がよさそうだ。

 男は空腹を覚えたが、少し薄くなった頭を掻くと苦笑した。四十代はあっという間に肥満になる、という数週間前に同僚から聞いた言葉が思い出される。

 我慢だ――今は健康そのものだが、明日は我が身というやつだ。
 中年に必要なのは我慢なのだ。
 我慢こそが事態を解決してくれるものなのだ。

 男は肩をすぼめ背を丸めると、誘惑の多そうな商店街に背を向け人気のない裏路地を急いだ。明日も早いのだから、家に帰ってさっさと寝てしまえばいいと考えたのだ。

「おじさん、そんな急いで何処に行くの?」
 陽気な声だった。
 男は思わず足を止めた。路地に面する飲食店の裏口、その小さな石段に若者達が座っていた。数は六人。いずれも二十代の前半と言ったところだろうか。
 真ん中に座った金髪の青年は、ニコニコしながら男に同じことを聞いた。
「おじさん、そんなに急いで何処に行くの? 楽しい所だったら、俺達も一緒に行っていいかな? こんなに気持ち良い夜なんだもの楽しまなくちゃ嘘だよね?」
 男は、目を瞬き小さな声で答えた。
「い、いやあ……明日仕事だから家に帰るところなんですけど……」
 金髪にもたれかかってスマホをいじっていたピンク髪の女性が、嬌声を上げた。
「すっごーい! お仕事してるんだー。えらいですねー」
 金髪とピンク髪以外の四人が立ち上がる。大柄で肩に入れ墨をした青年が男に近づくと、手を出した。
「財布出せよ」
 男は刺青の顔をじっと見た。ごつい顔の半分も刺青に覆われている。
「ああ、だいじょーぶだいじょーぶ、痛くしたりしないから」
 男の後ろに回りこんだ痩せた青年が猫なで声を出した。男の右側には太った青年が移動してくると、けらけらと甲高い笑い声をあげる。くちゃくちゃとガムか何かを咀嚼しているショートボブの女性が左側に立つ。

 男は囲まれていた。

 男はゆっくりと財布を出した。刺青はそれを手からもぎ取ると中を開いた。痩せが横から覗いて、なんだこりゃあと大声を出した。
「三千円しか入ってないじゃん! 高校生? ねえ、おっさん、高校生なの?」
 太っちょが再び甲高い笑い声をあげ、俯き加減になった男の顔を下から覗き込んで更に笑い続けた。ショートボブが男の靴を蹴った。
「下向いてんじゃねえよ」
 男は慌てて顔を上げ、顔の下半分を両手で隠す。
 財布を刺青から受け取った金髪が声を上げた。
「おい、蹴ったりするな。失礼だぞ」
 男を取り囲んでいた連中が笑い声をあげ、ショートボブは男にわざとらしく頭を下げた。
「どうもすいませんでした~」
 またも笑い声が上がる。男は再び俯いてしまう。金髪は財布から男の運転免許証を取り出した。

「凄いなあ、ゴールドじゃないですか。その年まで無事故って事ですよね?」
 しん、と静寂が裏路地に訪れた。ショートボブは今度は強く男の靴を蹴った。
「聞かれてんだから、答えろよっ、このボケっ」
 男はよろけ、それからぎくしゃくと頭を上げ下げると、すぼまった肩を更にすぼめた。
「あの……車持ってないんです」
 男を取り囲んだ連中は顔を見合わせ、それから笑い始めた。金髪とピンク髪も笑っている。
「いやあ、笑った笑った。あんた、面白いなあ。ねえ、友達になろうよ。今から家に行っていいよね?」
 金髪の言葉に男は目を見張り、ぶんぶんと首を振った。ピンク髪がえーっと声を上げた。
「なんでですかー? あたしたち、こうして出会ったのも何かの縁ですよねえ? どうして家に行っちゃいけないんですかー? 意味わかんないんですけどー?」
 刺青がぐいと男に一歩迫った。
 男は頭をさくさくと掻き、また俯いてしまう。
 痩せが下向くな、下向くなと囃し立て、太っちょがケラケラ笑い、ボブがまた靴を蹴る。

「おい、やめろよお前ら。すいません、引き留めちゃって」
 金髪は立ち上がると男に近寄り、財布を手渡した。
「僕らお酒入ってて、つい……本当に御免なさいね」
「い、いえ……」
 男はそれだけ言うと財布を受け取り、俯いたままその場を去ろうとし、刺青の身体に当たりそうになった。
「おい! 気を付けろよ! 骨が折れちゃうかもしれないだろ? 治療費貰うぞこの野郎」
 男はスイマセンと小声で言うと、刺青の脇をすり抜けた。
「三千円じゃすまないぞ!」
 痩せの大声と、太っちょの甲高い笑い声が男の背中を追いかけた。
 男はひたすら心の中で唱え続けた。

 我慢だ。
 我慢こそが事態を解決してくれるものなのだ。



「はい、六人でしたね」
 受付の中年女性は無表情にそう告げた。
 日付が変わり、暑い日だった。
 十分前、男の働くフロアに一階の受付から、『面会を求めている人たちが来ている』と連絡があった。急ぎ降りてみると、件の面会者たちは既に帰ったという事だった。
 名前も、素性も語らなかった。ただ、男に会わせてくれないか、我々は友人だと語ったそうだ。
「スーツではなくて普段着でした。その――なんとなく素性の良くない人たちのように思えましたが――トラブルでしょうか? 警察を呼びましょうか?」
 受付の女性の言葉に男は慌ててぶんぶんと頭を振った。
「いや、その――実は弟の友達連中で、店を立ち上げるのに相談に乗ってて、その――SNSじゃなくて直接会って話そうということになって……」
 男のへどもどもした言葉を、受付の女性は無表情で聞き流した。

 男は帰宅すると、ドアの鍵を閉め、それからチェーンロックもかけた。
 家はひっそりと静まり返っている。
 人の気配はない。

 考え過ぎか――いや、しかし万が一もあるし……。

 男は足音を忍ばせ、家を見てまわった。
 死別した親から受け継いだ二階建ての家は、一人暮らしに少し広い。何か盗まれているのではないか、と探し回ったが、どうやら大丈夫らしいとほっと一息をつく。
 最後に居間に入ると、電気を点けた。
 万年床は朝と同じ皺くちゃの状態でそこにあった。

 やれやれ……。

 男は空腹を覚え、台所に行くと冷蔵庫を開けた。たしかあまりものの唐揚げを南蛮漬けにしたものがあったはずだが……。
 扉を開けると、異臭と黒く濁った凝視が彼を出迎えた。

 手足を突っ張らせた黒い猫の死骸が、冷蔵庫の中に押し込まれていた。


 男は今日も俯いて歩いていた。
 猫の死骸が冷蔵庫に入れられてから一週間。会社に無言電話が毎日くるようになった。外線で自分を指名し、出てみると無言なのだ。また、家の中の物が微妙に動かされているのに気がついた。最初は棚の上の小物の向きが変わっている程度だったが、昨日は枕が万年床の足元に転がっていた。
 枕は、多分そんな所に放り出したりはしていないはずだ。

 警察か――いや、しかし確証が無いよな……。昨日は朝ばたばたしていたから、その時に蹴ったのかもしれないし……。
 今は我慢だ。ひたすらに我慢。
 そうすれば、事態はきっと好転するはずだ。

 男は外で夕食をとると、急ぎ帰宅した。
 夕立の前のような、ぴりぴりとした感覚があった。
 ドアを閉め、家を見て回る。
 冷蔵庫の上、電子レンジの横に置いてあった陶器の猫が別の方向を向いていた。

 男はそれをじっと見つめ、ようやく自分に何が起きているのかを悟った。

 男は俯くと、じっと『耐えた』。

 そろそろ日が変わるというところで、男は服を脱ぐといつものようにTシャツと短パン姿で布団に入った。朝と同じ皺くちゃの万年床は、中年独特の匂いが籠っている気がした。
 男は苦笑しながら目を瞑ろうとする。と、スマホに着信があった。
 非通知、という文字に一瞬ためらったが、仕方なく体を起こし出てみると笑い声が聞こえてきた。
 忘れもしない、あの太っちょの甲高い笑い声だ。続いて痩せの三千円三千円と嘲る声が聞こえてくる。男は俯いた。
『あらら、俯いちゃって……おじさん、怖いですかあ?』
 金髪の声だった。ピンク髪の甘ったるい声が続く。
『この一週間、おじさんの事ぜ~んぶ調べちゃいましたぁ。おじさんってホント生きてる価値が無い人ですよねぇ?』
「は?」
 思わず漏れ出た声に、金髪が愉快そうな声を返してきた。
『僕達はね、おじさんみたいな無価値な人間を探してまわってるんですよ。僕達の使命なんです。そういう無価値な人間がいると、この世は臭くて仕方がない。わかりますか?』
「……臭いって……」
 男は自分が入っている蒲団を見渡した。金髪のいらだった声が聞こえた。
『その布団みてえに臭いって言ってんだよ。触りたくもねえ』
「しかし――」
『いや、喋んなよ口も臭えんだよ、おっさんよぉ。
 ……だから、そういう悪臭のもとは絶たなくちゃならないってわけですよ。若者として当然の権利だと思いませんか?』
 どっと笑い声。男は顔の下半分を手で覆ってしばらく黙っていたが、ややあって溜息をついた。

「……人をからかうのもいいかげんにしてください。警察に通報しますよ」
『どうぞご自由に~』
 ピンク髪の声に被さる笑い声。金髪が芝居がかった口調で喋る。
『僕らも命がけでやってますからね! 障害がある方が燃えるんですよ! そこで、提案があるんですよ。これから僕達と鬼ごっこをして、一時間生き残ったら――』
「明日も早いんで、もう切りますよ」
 しばしの空白。
 金髪の押し殺した声が電話の向こうから聞こえた。
『切るなよ。切ったら今からお前の家に入って行って、滅茶苦茶に殺してやるからな』
 男は溜息をつくと通話を切って枕に頭を沈めた。

 滅茶苦茶に殺す、か。まったく子供っぽいというか……。

 男は深く息を吐くと、やがて寝息を立て始める。



 二時間後、男の家の二階の窓が音も無く開いた。
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