上 下
1 / 62
序章

その一 アルバン・バダンテール氏、黒衣の男の訪問を受ける

しおりを挟む
 床板の軋みに、微睡んでいた男は目を覚ました。
 すぐに自分が今、自宅にいないことを思い出す。
 
 ボロボロの天井に、白い壁紙が所々剥げた粗末な部屋の粗末なベッド。
 部屋というより、小屋だ。

 さっと半身を起すと隅を睨む。
 そこには真っ黒な巨大な塊があった。

「ははあ、流石は元軍人。今の物音で目を覚ますとはねぇ」

 ガラガラと水を含んだような声がすると、真っ黒な塊はずいと前に進み出た。
 二メートルはあろうかという巨漢の男。でっぷりと太ってはいるが腕や足は細い。
 巨漢は胸元から覗くシャツ以外は上から下まで、黒を身にまとっていた。貧弱な明かりの下では、また闇に溶けていってしまいそうだった。
「アルバン・バダンテール氏……でよろしいですかな?」
 巨漢は足を組むと、何もない空間に椅子があるかのように座った。
 アルバンは口を拭うと、溜息をつく。
「死神か? 随分と遅いじゃないか」
 巨漢は、くくっと低く笑った。
「残念ながら、あなたと生死について問答をしている暇は無いのです。私は、『あの村で何があったか』聞きに来たのですよ」
「それなら、警察やら軍部のお偉いさんに話した。もう話すことは無い」
 巨漢は真っ黒な手袋に包まれた、蜘蛛の足のように細く長い人差し指を三度振った。
「ノンノンノン! あの供述書は拝見しましたがね、どうにも書き手の偏見が匂ってしまい、いただけないのですなあ。というわけで、あなたの口から直接話を聞きたいのです。私は、あなたが何かを忘れている、と感じましてね……」
 アルバンは巨漢をじっと見た。目が慣れてきた所為か、男のまとっている服の詳細がみてとれた。黒い燕尾服に黒い蝶ネクタイ――
「舞踏会か、降霊会でも始まりそうだな」
「おや、そういうものに興味をお持ちで?」
 いや、とアルバンは頭を振った。
「俺は軍人だ。踊るのも霊を呼ぶのも興味はない。現実しか見ない」
「……軍人『だった』でしょ? ま、私も興味はありませんがね」
 巨漢はすっと滑るように座ったままの姿勢でベッドに近づいてきた。肉厚の顔に、立派な口髭。人懐っこそうな、だが、何処か作り物めいた笑みが暗闇の中に浮かんでいる。巨漢は細長い指をアルバンに向けた。
「でも、あなた、アルバンさん、今はそういうのにちょっとばかり寛容になったんじゃないですか? 私なら、あなたのお話をちゃんと聞けますよ。
 あなた、最初は混乱されていて鎮静剤を打たれたそうじゃないですか。
 それで、『質問されたことだけを、簡潔に答えろ』ときたんじゃないですか? 
 私は違います。そんな事は言いません。あなたが何か言っても頭からは否定しませんよ」
 アルバンは巨漢を見つめ、目を瞬かせた。
 ここ何日間か、かわるがわる質問攻めにされた。だが、こんなことを言う輩は初めてだった。医者らしき人物も話を聞こうとしない。不安が募るばかりで、とうとう眠る前に神に祈ったりもした。子供の頃以来、久しぶりの経験だったが、それの所為か夢見は最悪だった。
「……あんた何者だ?」
 巨漢は肩を竦めた。ふっとアルバンの鼻に異臭が漂ってきた。釣って放置した魚が放つ、微かな生臭さ……。
「私が何者かはどうでもよろしい。死神と思えばそれでも良いです。
 肝心なのは、私が『予防』に動いているという点です。あなたに今まで質問された方々はそれは考えていない。私は今後もああいう事件が起きないようにしたいと考えておりましてね――」
 アルバンの息が荒くなった。
「あ、あんた! あんなことが他でも……」
「私の知る限りでは二十七件」
 アルバンは絶句した。
 巨漢は眉を上下させる。
「さあ、アルバン・バダンテール、喋ってください。我に聞く用意あり、ですぞ」
「……どこから?」
「どこからでも」
 アルバンは目を閉じると、ベッドに身を横たえた。
「……俺は一次大戦で軍に嫌気がさし、除隊した。で、色々あってルージュに流れ着いた」
「ルージュ村……フランスには幾つかございますね?」
「ああ、なんだったか……近くにワインの有名な産地があったな」
「ああ、わかりました。続きをどうぞ」
「村の連中はいい顔をしなかったが、俺は村長に許可をもらって村の外れに小さな家を建てて、野菜とかを作って暮らした。土木工事のお呼びがかかったらすぐに行って手伝った。
 だから、まあ、仲間外れってわけじゃなかったんだが……俺の顔見りゃわかるだろ?」
「戦場で受けた傷といえば勲章なんですがね」
「ふん、夜道で会ったらそうも言ってられんだろうよ。とにかく、そんなこんなで一年が過ぎた、ある日の夜……」
「一か月前の夜、ですよ」
 アルバンは顔をしかめた。
「もうそんなに経ってるのか」
「薬物による譫妄状態が長かったらしいですね。あなたの足の筋肉、劣化が激しいですよ」
「やれやれ……。まあ、ともかく、あの夜は――おい、まさか酒は持ってないよな?」
 巨漢はにやりと笑うと、懐から琥珀色の液体の入った小瓶を取りだした。アルバンはそれを受け取ると、まず香を楽しみ、それから小瓶を傾け、喉を焼く液体の感触に目を瞑って震えた。
「……たまらん」
「私は飲まんので全部差し上げましょう」
「……随分と気前がいいもんだな」
「ここが飲み屋だったら、更に現金を上乗せし、いい女をあてがう所ですがね」
 アルバンはもう一口飲むと、息を吐く。
「三月の夜だ。俺は豚の燻製を齧って、井戸掘りの計画を立てていた。そしたら遠くで銃声が聞こえた。
 俺は中腰になった。
 夜中に猟をするやつはいないだろ? だから空耳かと思ったんだが、もう一発聞こえた。
 で、慌てて外に飛び出した」
 アルバンはそこで言葉を止めた。巨漢は首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、俺は普段は酒を飲まない。あの夜も酔っぱらっていなかった。それは信じてくれるか?」
「信じましょう」
「本当か? 俺がこれから言う事も幻覚だとか言ったりしないか?」
 巨漢は再び肩を竦めた。アルバンは小瓶を見つめ、唇をもごもごと動かした。
「……外に出たんだ。そしたら、そう、全身がざわざわとしてな。毛という毛が逆立った感じがした。戦場でよくそういう経験をした。大砲の弾が飛んでくる直前なんて、よくそんな感じがしたもんさ。
 俺は高台に住んでたんで、村が一望できたんだが、静まり返ったこの村で今、とんでもないことが起きてるって感じたんだ。
 ……で、俺は逃げようって思った。」
「そんな状況になる心当たりはあったのですかな?」
「村には大地主が二人いて、対立していた。権力争いだよ。片方は村長さ。当然俺もそっち側さ。
 小競り合いは何回か見かけたが、ついに殺し合いか、と暗い気持ちになったよ」
「ふうむ……田舎の地主の喧嘩が、そんな大それたことになりますかねえ?」
 アルバンは笑った。
「俺は一次大戦に参加したが、あれこそが世界の縮図さ。結局どこだってそうなんだ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

商い幼女と猫侍

和紗かをる
歴史・時代
黒船来航から少しの時代。動物狂いでお家断絶になった侍、渡会正嗣と伊勢屋の次女ふたみはあるきっかけから協力して犬、猫、鶏と一緒になって世を守る。世直しドタバタ活劇。綺羅星の様な偉人ひしめく幕末の日本で、二人がひっそりと織り成す物語です。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

大和型戦艦4番艦 帝国から棄てられた船~古(いにしえ)の愛へ~

花田 一劫
歴史・時代
東北大地震が発生した1週間後、小笠原清秀と言う青年と長岡与一郎と言う老人が道路巡回車で仕事のために東北自動車道を走っていた。 この1週間、長岡は震災による津波で行方不明となっている妻(玉)のことを捜していた。この日も疲労困憊の中、老人の身体に異変が生じてきた。徐々に動かなくなる神経機能の中で、老人はあることを思い出していた。 長岡が青年だった頃に出会った九鬼大佐と大和型戦艦4番艦桔梗丸のことを。 ~1941年~大和型戦艦4番艦111号(仮称:紀伊)は呉海軍工廠のドックで船を組み立てている作業の途中に、軍本部より工事中止及び船の廃棄の命令がなされたが、青木、長瀬と言う青年将校と岩瀬少佐の働きにより、大和型戦艦4番艦は廃棄を免れ、戦艦ではなく輸送船として生まれる(竣工する)ことになった。 船の名前は桔梗丸(船頭の名前は九鬼大佐)と決まった。 輸送船でありながらその当時最新鋭の武器を持ち、癖があるが最高の技量を持った船員達が集まり桔梗丸は戦地を切り抜け輸送業務をこなしてきた。 その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。 それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。 ~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。 この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。 桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。

堤の高さ

戸沢一平
歴史・時代
 葉山藩目付役高橋惣兵衛は妻を亡くしてやもめ暮らしをしている。晩酌が生き甲斐の「のんべえ」だが、そこにヨネという若い新しい下女が来た。  ヨネは言葉が不自由で人見知りも激しい、いわゆる変わった女であるが、物の寸法を即座に正確に言い当てる才能を持っていた。  折しも、藩では大規模な堤の建設を行なっていたが、その検査を担当していた藩士が死亡する事故が起こった。  医者による検死の結果、その藩士は殺された可能性が出て来た。  惣兵衛は目付役として真相を解明して行くが、次第に、この堤建設工事に関わる大規模な不正の疑惑が浮上して来る。

処理中です...