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第二章:田沢京子
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車は国道から左折すると再び住宅街に入った。蝉の声が窓を閉め切った車の中にまで入ってくる。時刻はなんだかんだで、そろそろ昼だ。
あたしは体を起こすと、道路脇の家の物置に貼られた細長い錆びた看板を指差した。
「ああ、あれだ、あの看板」
「ほう、行き止まりの看板か。動画通りだな!」
細い路地をしばらく進むと、目の前に大きなマンションが現れた。道はゴミステーションの置かれた行き止まりで終わっている。
「到着。さて!」
真木はシートベルトを外すと、後ろの座席に体を伸ばし、置いてあった大きな黒い鞄を持ち上げた。外に出ると陽射しが更に強くなっている。暑さに結構強いあたしでも中々にきつい。一方、大学内ではふうふう言っていた真木は、目の前の調査に浮足立っているのか、笑顔が絶えないようで――
「さあ、京さん、早速調査を始めようじゃないか!」
「おう、勝手にやってくんな」
「いやいやいや、君の家なんだから、まずは君が家の敷地に入らなきゃいかんでしょう!」
ほれほれと浮き浮きした感じで背中をグイグイ押してくるのであった。
車庫の横の小さな鉄の門を開け、三段という可愛い石段を一跨ぎする。と、真木が後ろで声を上げた。
「この窓から葦田のおばちゃんが覗いていたんだねえ? ははあ、成程、高さが丁度いい。中が明るけりゃあ階段がまる見えだ」
道路に戻ると、真木はゴミボックスの横に畳んで置いてあった葦田のおばちゃん専用椅子を勝手に開いて座っていた。デッサンをするかのように両手で四角を作ったりして、うんうんと頷くと、鞄の中からごついカメラを取り出し写真を撮り始めた。蝉のような機械音と共に写真が下のスリットから吐き出される。
「そのカメラも、あのラジオの仲間?」
真木はあたしの質問に片眉を上げ、家の外観を何枚か撮ると、いや、寄り道して申し訳なかった、とあたしに笑いかけた。再び鉄門を開け、あたし達は、ようやく玄関に至った。
あたしは、敷いてある大きなヤシ殻のマットをつまんでめくりあげると、その下にある幾つかの黒い染みを指差した。真木はしゃがみ込むと巻尺で大きさを測り、メモ帳に詳細を書き込んでいく。
「ふーむ、この玄関にしては不釣り合いな色と大きさのマットだ。君のセンスかい?」
あたしはくだらん質問を無視して、黒い染みを爪でガリガリと引っ掻いた。
「これが例の染み。最初はガムとかだと思ったんだ。道路にくっついてるやつは大体ガムなんだろ? けど全然取れねえ。じゃあなんか塗料かもしれないと思ったから洗剤とかアルコールかけて擦ってみたけど駄目。ハサミとかバールとかで引っ掻いても叩いても駄目。なら専門的な薬とか道具じゃなきゃ駄目なんだろうって放置してたんだ。
で、さっき言った通り、親父がタイルを張り替えたんだ。そしたら真っ新なタイルにいつの間にか前と同じく浮き上がってきやがった。触ればわかるんだけど、ひっかかりが無いんだ。まるでタイルにいつの間にか穴が開いたみたいだ」
あたしは額を突き合わせた真木を上目づかいで見た。
「で、これはなんなんだ、先輩?」
真木は首を捻った。
「さあてね……ちなみに、これと同じものは色々な場所で見ていてねえ……実は――」
真木は言葉を切り、あたしを上目づかいで見た。
「僕が昔住んでいた家の辺りにも、たくさんあったりするんだなあ」
暑い日差しと蝉の鳴き声。多分近くの公園から聞こえてくる子供の声。
五月蠅いはずなのに、やけに静かに感じる。
「さっきゴミステーションの裏をちょっと見てきたんだがね、あそこにも黒い染みがあった。多分、この辺りをくまなく調べれば、もっと多くの染みを見つけられるだろうな。京さん、君はこの染みをどう思う」
「焦らすなよ。わからんから先輩を連れてきたんだっつーの。夢の中の感想はあの動画の通り。今は――なんか気味が悪いなって感じ」
「ふむ、『感じ』か。難しいな。感覚って奴は雰囲気や情報で左右されるからねえ」
「確かにね。霊感持ちらしく手かざしでもしてみるか?」
いや結構、と真木は立ち上がると伸びをした。そして右手の指を、家の前の通りをなぞるように左から右へと動かした。
「怪談の中でこういう一節があったね。
――大通りに面した場所に『この先、行き止まり:町内会一同』という看板まで貼ってある――実際、さっきそれは貼ってあったね。そしてこんな一節もあった。――よく車が入ってきて、おかしいなあ、ここ前は道が向こうまで通ってなかったか、とか言いながら懸命にUターン――とね。さっき君は、それが自分の経験と認めた。繰り返すけど、これは事実かな?」
「ああ。今はあんまりだけど、中学くらいまでは結構あったよ」
「ふーむ、で、京さん的には昔この道は向こうまで通っていた、と?」
「……多分」
「よし、もう一度だけ正確に記憶を掘り起こしてほしい。
裏にあるマンション絡みで工事があり、比較的最近、ここ十年くらいで行き止まりになった……というようなことは無かったかな?」
あたしも立ち上がると伸びをして、腕を組んだ。
「工事か……うーん、裏のマンションの工事は覚えてるけど、その道の工事は覚えてないな。まあ、大掛かりなもんじゃないだろうから、気づかなかっただけかもしれないけど……なんか、いつの間にか、この道は行き止まりになっていたような……駄目だ、モヤモヤするだけだな……」
真木はふむ、と小さく言うとカメラを取りだし、染みを何枚か撮った。
「写真が出てくるよ、キャッチして!」
ジーッと近くで聞くと結構大きい音と共に写真が吐き出される。あたしはそれを摘まむと、ちょっと振った。真木が笑う。
「いいねえ、やっぱり振りたくなるよねえ。そら浮き上がってきたぞ」
真っ黒な中から、まるでデジカメで撮ったかのように綺麗な画像が浮き上がってきた。へえと感心し、それから、うん? と首を捻る。
「なんか、緑色とか赤い光が舞ってるぜ。こりゃあれだ、心霊写真か、撮影失敗か……。
ん? これは――」
あたしは写真に顔を近づける。
玄関の黒い染みが映っている。光は舞っていない。
だが、染みがやけに『濃く』見える。
真木はポケットから写真を数枚取り出した。さっき撮った家の外観である。そこにはやはり同じような光の帯が写っていた。
だが、そこに真っ黒い物が映っていた。
所々、擦れているが、真っ黒い人の形だった。
これは――夢に出てきた黒い――
あたしが呻くと、真木は、ああ暑いなあ、とわざとらしく言った。
あたしは溜息をつくと玄関の鍵を開けた。
「さ、先輩、冷たい物でも飲んでってくれ。で、色々と説明しろよ、こんちくしょう」
「クーラーの温度は二十六℃で頼むよ」
氷の入った緑茶を飲み干すと、真木は前屈みになり手を組んだ。あたし達二人は、居間兼台所にあるソファーに向かい合って座っている。テーブルにはさっき撮ったポラロイド写真が並べられている。
「では色々と話そうか。まずは僕の話からいくので、少し長くなるけどよろしいか?」
「そうでないと訳が分からなくなるんだろ。いいぜ。親父は夜。母ちゃんは夕方に帰ってくる。ただ昼飯は早いうちに食いたいんだが」
「おごろう。なんでもいいぞ」
「よっしゃ。好きなだけどうぞ」
真木は小さく咳ばらいした。
「では、と……高校二年の時だな。僕は自宅でごろごろしていたんだ。ちょっと熱っぽいとかそんな言い訳をしてのずる休みさ。あの頃は家の雰囲気が最悪でね。父は痩せていて、母に暴力をすぐにふるう。僕がやめさせようとすると隠れてやる。警察に来てもらっても白を切る。チョー最悪ぅ、だったね」
「うん、あの笑いとかいらんですよ」
真木はにやにやしながら、頭を振った。
「残念! 僕が耐えられない!」
あたしは口の端を曲げて呻いた。
「まったく……んで、あんたの母親はあれか、非暴力を貫いて、罪を憎んで人を憎まずってタイプ?」
あたしの質問に真木はくっくっくっと噛み殺したような笑い声をあげる。
「そんな大袈裟なものかどうかわからないが、まあドMではなかったと信じたいね。ともかく母は黙ってた。怪我について聞かれても転んでぶつけたとかなんとか。だけど顔に青あざを作ってたからね、当り前だが警察は疑ってて、僕に録音か録画をしてくれないか、とこっそり言ってきた」
「やったのか?」
「いやいやいや! まあ簡単に言うと、母の嘘証言に失望して、どうでもよくなってしまってね。とはいえ家出とか非行とか、そういう行為に走る気概もない。だから、時々ずる休みをして、テレビで昼にやってる映画を観たりしてね、僕は何をやっているんだろうとか考えてた。今考えると普通の学生なんだが、まあ、あの日もそんな感じで、くさくさした気持ちでダラダラと人食い熊が出てくる映画を観ていたんだ。父は既にお約束の無職になっていて、台所で酒を食らってうだうだしている。ああ、この熊が今、台所であのゴミを袈裟切りにでもしてくれたらなあ、と健全な妄想に浸っていたわけだ。
そうしたら突然……家が揺れたんだ」
「地震か? ん? 時間的に震災か?」
「違う。震災は金曜で映画はやって無かったように思うが……まあ、ともかく違う。火曜だ。時間は午後二時を少し過ぎたあたり。大きな揺れだった。寝そべっていた布団から跳ね上げられて転がるくらい大きな揺れだ。続いて音だ。低く重い、地鳴りような音」
「うん!?」
あたしは思わず声を出していた。
何か――頭の中にもやっとしたものが湧きあがった。
「どうかしたかね、京さん?」
「……いやぁ、うん、その音ってのは、こう……どろどろどろって体が震えるような、マフラーが無い車が出すような音を何百倍にもしたようなやつか?」
真木があたしを睨んだまま固まった。
「い、いやあ、そうなの? あれだ、時々見る夢の中でその音を聞いた気がするんだよ」
真木の顔に、耳まで裂けんばかりの笑顔がゆっくり浮かんだ。
「ほら、な! やはり君を巻き込んで正解だった!
まあ、ともかく君のそれは今は放置しておいて僕の事を全部話してしまおう。
地鳴りのような音の後は、木が軋む音が銃撃戦みたく響いて、そして天井が裂けながら落ちてきた。一瞬空が見えて、なんだか真っ黒い雲が見えて、気がついたら病院さ」
あたしは声を上げそうになり、慌てて両手を上げて口をつぐんだ。真木が目を丸くする。
「どうした京さん? 続けていいのかい? あ、そう……。
で、舞台は病院だ。看護婦がきてね、僕はどうしたんですかって聞いたら、事故に遭ったって言うんだ。
事故? そうよ、トラックが家に突っ込んできて家が倒壊したのよって。
なんだそりゃって思ったね。車が突っ込んで来たら音でわかるよ。今みたいな静かに走る車なんてのは無い時代だしね。もしかして気遣われているのか、それとも、からかってるのかと疑った。だけど退院して新聞を見ると事故の記事が載っている。近所の人に聞いて回ったけど、みんなトラックが突っ込んできてって話をする。みんなで寄ってたかって僕を騙そうとしているみたいで気味が悪かった。しかし、それを深く考えているどころではない事態が目の前に二つあってね……」
「二つ? もしかして一つはさっき言ってた毒親?」
あたしの問いに真木は頷いた。
「病院で目を覚まして、看護婦に色々聞いていたら、ばたばたと廊下を走ってくる足音が聞こえた。ああ、来ただけでも奇跡だが、またあの二人の顔を見なければならんのか、と一瞬で鬱々とした気分になった」
真木は苦笑いを浮かべた。
「まあ、それでも――親は親だからね。覚悟をして身構えたんだ」
「偉いねえ、先輩は」
「お褒めに与り恐悦至極。ところがところが――僕の覚悟の直後、病室に二人の人間が入って来た。
一人は若い女性だ。茶髪で日焼けしていて、がっちりした健康的な体。
もう一人は知っている人で、小太りの男性。うちの近所に住んでいる小児科の先生だ。
二人は涙を流して良かった、心配したと連呼している。そこで僕は女性の顔に見覚えがあるのに気がついた」
「誰だったんだよ? あれか小児科の看護婦とか――」
「母だ」
「……はい?」
「母はいつも眼鏡をかけ、おどおどして俯いてばかりいた。髪も染めていないし、焼けてもいない。だけど、目の前にいる女性は確かに母の声で、母の目で、母の顔なんだ」
真木は口を紡ぐと、懐から真っ赤なハンカチを取り出し額をぬぐった。
「そして父だ。父は――いなかったことになっていた」
「……なんだぁ?」
あたしの声に、真木はふふ、と顎を掻いた。
「まあ、これ丸ごと僕の創作や妄想の可能性もある。だが、ここで少し考えてほしいのはそんな行為に意味があるのか、ということでね。どうかな、京さん」
「いや、別に疑ってねえよ」
真木は驚いたような顔になった。
「こんな荒唐無稽な話を、京さん、君は、その……いきなり信じるのかね?」
あたしは腕を組んでソファーに深くもたれる。
「……信じちゃいないよ。でも疑ってはいないってだけだ。続きをどうぞ」
「……ともかく僕は退院した後、聞いて回った。近所、職場、父の友人達。でも父の事を誰も知らない。瓦礫になった家をひっくり返しても父の痕跡は、欠片も、埃一つも残っていない。見つけたアルバムの結婚写真は母と近所の医者、いや今の父が写っている。元父の実家にも行ってみたが、家自体が無いときた!」
真木は再びハンカチを取り出し、汗を拭く。クーラーが効いているのだから、暑さの所為の汗ではないようだ……。
あたしは体を起こすと、道路脇の家の物置に貼られた細長い錆びた看板を指差した。
「ああ、あれだ、あの看板」
「ほう、行き止まりの看板か。動画通りだな!」
細い路地をしばらく進むと、目の前に大きなマンションが現れた。道はゴミステーションの置かれた行き止まりで終わっている。
「到着。さて!」
真木はシートベルトを外すと、後ろの座席に体を伸ばし、置いてあった大きな黒い鞄を持ち上げた。外に出ると陽射しが更に強くなっている。暑さに結構強いあたしでも中々にきつい。一方、大学内ではふうふう言っていた真木は、目の前の調査に浮足立っているのか、笑顔が絶えないようで――
「さあ、京さん、早速調査を始めようじゃないか!」
「おう、勝手にやってくんな」
「いやいやいや、君の家なんだから、まずは君が家の敷地に入らなきゃいかんでしょう!」
ほれほれと浮き浮きした感じで背中をグイグイ押してくるのであった。
車庫の横の小さな鉄の門を開け、三段という可愛い石段を一跨ぎする。と、真木が後ろで声を上げた。
「この窓から葦田のおばちゃんが覗いていたんだねえ? ははあ、成程、高さが丁度いい。中が明るけりゃあ階段がまる見えだ」
道路に戻ると、真木はゴミボックスの横に畳んで置いてあった葦田のおばちゃん専用椅子を勝手に開いて座っていた。デッサンをするかのように両手で四角を作ったりして、うんうんと頷くと、鞄の中からごついカメラを取り出し写真を撮り始めた。蝉のような機械音と共に写真が下のスリットから吐き出される。
「そのカメラも、あのラジオの仲間?」
真木はあたしの質問に片眉を上げ、家の外観を何枚か撮ると、いや、寄り道して申し訳なかった、とあたしに笑いかけた。再び鉄門を開け、あたし達は、ようやく玄関に至った。
あたしは、敷いてある大きなヤシ殻のマットをつまんでめくりあげると、その下にある幾つかの黒い染みを指差した。真木はしゃがみ込むと巻尺で大きさを測り、メモ帳に詳細を書き込んでいく。
「ふーむ、この玄関にしては不釣り合いな色と大きさのマットだ。君のセンスかい?」
あたしはくだらん質問を無視して、黒い染みを爪でガリガリと引っ掻いた。
「これが例の染み。最初はガムとかだと思ったんだ。道路にくっついてるやつは大体ガムなんだろ? けど全然取れねえ。じゃあなんか塗料かもしれないと思ったから洗剤とかアルコールかけて擦ってみたけど駄目。ハサミとかバールとかで引っ掻いても叩いても駄目。なら専門的な薬とか道具じゃなきゃ駄目なんだろうって放置してたんだ。
で、さっき言った通り、親父がタイルを張り替えたんだ。そしたら真っ新なタイルにいつの間にか前と同じく浮き上がってきやがった。触ればわかるんだけど、ひっかかりが無いんだ。まるでタイルにいつの間にか穴が開いたみたいだ」
あたしは額を突き合わせた真木を上目づかいで見た。
「で、これはなんなんだ、先輩?」
真木は首を捻った。
「さあてね……ちなみに、これと同じものは色々な場所で見ていてねえ……実は――」
真木は言葉を切り、あたしを上目づかいで見た。
「僕が昔住んでいた家の辺りにも、たくさんあったりするんだなあ」
暑い日差しと蝉の鳴き声。多分近くの公園から聞こえてくる子供の声。
五月蠅いはずなのに、やけに静かに感じる。
「さっきゴミステーションの裏をちょっと見てきたんだがね、あそこにも黒い染みがあった。多分、この辺りをくまなく調べれば、もっと多くの染みを見つけられるだろうな。京さん、君はこの染みをどう思う」
「焦らすなよ。わからんから先輩を連れてきたんだっつーの。夢の中の感想はあの動画の通り。今は――なんか気味が悪いなって感じ」
「ふむ、『感じ』か。難しいな。感覚って奴は雰囲気や情報で左右されるからねえ」
「確かにね。霊感持ちらしく手かざしでもしてみるか?」
いや結構、と真木は立ち上がると伸びをした。そして右手の指を、家の前の通りをなぞるように左から右へと動かした。
「怪談の中でこういう一節があったね。
――大通りに面した場所に『この先、行き止まり:町内会一同』という看板まで貼ってある――実際、さっきそれは貼ってあったね。そしてこんな一節もあった。――よく車が入ってきて、おかしいなあ、ここ前は道が向こうまで通ってなかったか、とか言いながら懸命にUターン――とね。さっき君は、それが自分の経験と認めた。繰り返すけど、これは事実かな?」
「ああ。今はあんまりだけど、中学くらいまでは結構あったよ」
「ふーむ、で、京さん的には昔この道は向こうまで通っていた、と?」
「……多分」
「よし、もう一度だけ正確に記憶を掘り起こしてほしい。
裏にあるマンション絡みで工事があり、比較的最近、ここ十年くらいで行き止まりになった……というようなことは無かったかな?」
あたしも立ち上がると伸びをして、腕を組んだ。
「工事か……うーん、裏のマンションの工事は覚えてるけど、その道の工事は覚えてないな。まあ、大掛かりなもんじゃないだろうから、気づかなかっただけかもしれないけど……なんか、いつの間にか、この道は行き止まりになっていたような……駄目だ、モヤモヤするだけだな……」
真木はふむ、と小さく言うとカメラを取りだし、染みを何枚か撮った。
「写真が出てくるよ、キャッチして!」
ジーッと近くで聞くと結構大きい音と共に写真が吐き出される。あたしはそれを摘まむと、ちょっと振った。真木が笑う。
「いいねえ、やっぱり振りたくなるよねえ。そら浮き上がってきたぞ」
真っ黒な中から、まるでデジカメで撮ったかのように綺麗な画像が浮き上がってきた。へえと感心し、それから、うん? と首を捻る。
「なんか、緑色とか赤い光が舞ってるぜ。こりゃあれだ、心霊写真か、撮影失敗か……。
ん? これは――」
あたしは写真に顔を近づける。
玄関の黒い染みが映っている。光は舞っていない。
だが、染みがやけに『濃く』見える。
真木はポケットから写真を数枚取り出した。さっき撮った家の外観である。そこにはやはり同じような光の帯が写っていた。
だが、そこに真っ黒い物が映っていた。
所々、擦れているが、真っ黒い人の形だった。
これは――夢に出てきた黒い――
あたしが呻くと、真木は、ああ暑いなあ、とわざとらしく言った。
あたしは溜息をつくと玄関の鍵を開けた。
「さ、先輩、冷たい物でも飲んでってくれ。で、色々と説明しろよ、こんちくしょう」
「クーラーの温度は二十六℃で頼むよ」
氷の入った緑茶を飲み干すと、真木は前屈みになり手を組んだ。あたし達二人は、居間兼台所にあるソファーに向かい合って座っている。テーブルにはさっき撮ったポラロイド写真が並べられている。
「では色々と話そうか。まずは僕の話からいくので、少し長くなるけどよろしいか?」
「そうでないと訳が分からなくなるんだろ。いいぜ。親父は夜。母ちゃんは夕方に帰ってくる。ただ昼飯は早いうちに食いたいんだが」
「おごろう。なんでもいいぞ」
「よっしゃ。好きなだけどうぞ」
真木は小さく咳ばらいした。
「では、と……高校二年の時だな。僕は自宅でごろごろしていたんだ。ちょっと熱っぽいとかそんな言い訳をしてのずる休みさ。あの頃は家の雰囲気が最悪でね。父は痩せていて、母に暴力をすぐにふるう。僕がやめさせようとすると隠れてやる。警察に来てもらっても白を切る。チョー最悪ぅ、だったね」
「うん、あの笑いとかいらんですよ」
真木はにやにやしながら、頭を振った。
「残念! 僕が耐えられない!」
あたしは口の端を曲げて呻いた。
「まったく……んで、あんたの母親はあれか、非暴力を貫いて、罪を憎んで人を憎まずってタイプ?」
あたしの質問に真木はくっくっくっと噛み殺したような笑い声をあげる。
「そんな大袈裟なものかどうかわからないが、まあドMではなかったと信じたいね。ともかく母は黙ってた。怪我について聞かれても転んでぶつけたとかなんとか。だけど顔に青あざを作ってたからね、当り前だが警察は疑ってて、僕に録音か録画をしてくれないか、とこっそり言ってきた」
「やったのか?」
「いやいやいや! まあ簡単に言うと、母の嘘証言に失望して、どうでもよくなってしまってね。とはいえ家出とか非行とか、そういう行為に走る気概もない。だから、時々ずる休みをして、テレビで昼にやってる映画を観たりしてね、僕は何をやっているんだろうとか考えてた。今考えると普通の学生なんだが、まあ、あの日もそんな感じで、くさくさした気持ちでダラダラと人食い熊が出てくる映画を観ていたんだ。父は既にお約束の無職になっていて、台所で酒を食らってうだうだしている。ああ、この熊が今、台所であのゴミを袈裟切りにでもしてくれたらなあ、と健全な妄想に浸っていたわけだ。
そうしたら突然……家が揺れたんだ」
「地震か? ん? 時間的に震災か?」
「違う。震災は金曜で映画はやって無かったように思うが……まあ、ともかく違う。火曜だ。時間は午後二時を少し過ぎたあたり。大きな揺れだった。寝そべっていた布団から跳ね上げられて転がるくらい大きな揺れだ。続いて音だ。低く重い、地鳴りような音」
「うん!?」
あたしは思わず声を出していた。
何か――頭の中にもやっとしたものが湧きあがった。
「どうかしたかね、京さん?」
「……いやぁ、うん、その音ってのは、こう……どろどろどろって体が震えるような、マフラーが無い車が出すような音を何百倍にもしたようなやつか?」
真木があたしを睨んだまま固まった。
「い、いやあ、そうなの? あれだ、時々見る夢の中でその音を聞いた気がするんだよ」
真木の顔に、耳まで裂けんばかりの笑顔がゆっくり浮かんだ。
「ほら、な! やはり君を巻き込んで正解だった!
まあ、ともかく君のそれは今は放置しておいて僕の事を全部話してしまおう。
地鳴りのような音の後は、木が軋む音が銃撃戦みたく響いて、そして天井が裂けながら落ちてきた。一瞬空が見えて、なんだか真っ黒い雲が見えて、気がついたら病院さ」
あたしは声を上げそうになり、慌てて両手を上げて口をつぐんだ。真木が目を丸くする。
「どうした京さん? 続けていいのかい? あ、そう……。
で、舞台は病院だ。看護婦がきてね、僕はどうしたんですかって聞いたら、事故に遭ったって言うんだ。
事故? そうよ、トラックが家に突っ込んできて家が倒壊したのよって。
なんだそりゃって思ったね。車が突っ込んで来たら音でわかるよ。今みたいな静かに走る車なんてのは無い時代だしね。もしかして気遣われているのか、それとも、からかってるのかと疑った。だけど退院して新聞を見ると事故の記事が載っている。近所の人に聞いて回ったけど、みんなトラックが突っ込んできてって話をする。みんなで寄ってたかって僕を騙そうとしているみたいで気味が悪かった。しかし、それを深く考えているどころではない事態が目の前に二つあってね……」
「二つ? もしかして一つはさっき言ってた毒親?」
あたしの問いに真木は頷いた。
「病院で目を覚まして、看護婦に色々聞いていたら、ばたばたと廊下を走ってくる足音が聞こえた。ああ、来ただけでも奇跡だが、またあの二人の顔を見なければならんのか、と一瞬で鬱々とした気分になった」
真木は苦笑いを浮かべた。
「まあ、それでも――親は親だからね。覚悟をして身構えたんだ」
「偉いねえ、先輩は」
「お褒めに与り恐悦至極。ところがところが――僕の覚悟の直後、病室に二人の人間が入って来た。
一人は若い女性だ。茶髪で日焼けしていて、がっちりした健康的な体。
もう一人は知っている人で、小太りの男性。うちの近所に住んでいる小児科の先生だ。
二人は涙を流して良かった、心配したと連呼している。そこで僕は女性の顔に見覚えがあるのに気がついた」
「誰だったんだよ? あれか小児科の看護婦とか――」
「母だ」
「……はい?」
「母はいつも眼鏡をかけ、おどおどして俯いてばかりいた。髪も染めていないし、焼けてもいない。だけど、目の前にいる女性は確かに母の声で、母の目で、母の顔なんだ」
真木は口を紡ぐと、懐から真っ赤なハンカチを取り出し額をぬぐった。
「そして父だ。父は――いなかったことになっていた」
「……なんだぁ?」
あたしの声に、真木はふふ、と顎を掻いた。
「まあ、これ丸ごと僕の創作や妄想の可能性もある。だが、ここで少し考えてほしいのはそんな行為に意味があるのか、ということでね。どうかな、京さん」
「いや、別に疑ってねえよ」
真木は驚いたような顔になった。
「こんな荒唐無稽な話を、京さん、君は、その……いきなり信じるのかね?」
あたしは腕を組んでソファーに深くもたれる。
「……信じちゃいないよ。でも疑ってはいないってだけだ。続きをどうぞ」
「……ともかく僕は退院した後、聞いて回った。近所、職場、父の友人達。でも父の事を誰も知らない。瓦礫になった家をひっくり返しても父の痕跡は、欠片も、埃一つも残っていない。見つけたアルバムの結婚写真は母と近所の医者、いや今の父が写っている。元父の実家にも行ってみたが、家自体が無いときた!」
真木は再びハンカチを取り出し、汗を拭く。クーラーが効いているのだから、暑さの所為の汗ではないようだ……。
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