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第二十五話:夜の準備と葵珠の影

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 夕刻が迫るころ、追儺《ついな》の式を行うため、宮廷の中庭には幾つもの灯籠や飾り物が配置され始めていた。
 厄除けの札や、特別に調合された香が用意され、皇女こうじょ藤緒ふじお華陽かよう后妃が中心となって指揮を執っている。

 朱雅《しゅが》は侍衛長のもとで警備体制の確認に忙しく立ち回り、若狭《わかさ》は女官たちへの連絡とサポートに走り回っていた。
 一方の凛羽《りんう》は、夜の式で笛を奏でる役目を担うため、少し離れた部屋で静かに調律を整えている。

「よし……笛の管は大丈夫。あとは、自分の体調がどう持つか、か」

 昨晩まで寝込んでいたこともあり、まだ万全とは言えない。
 だが、不思議と精神は落ち着いていた。
 あやかしの怨念を受け入れた際の、あの痛み――今では遠い記憶になりつつある。

「女官たちが少しずつ戻ってきているのは嬉しい。だけど、まだ全員じゃないし、完全に意識を取り戻せていない人もいる。これを機に、みんなが目を覚ましてくれたら……」

 そんな独り言を呟き、凛羽は外の空を見上げる。
 空は淡い茜色から、紫の夜闇へと移行していく最中だ。

 

「ずいぶんとお熱心ね。そんなに笛ばかり見つめて、いったい何を想っているのかしら」

 不意に部屋の襖が開き、艶やかな声が凛羽の耳を打つ。
 凛羽が振り向くと、そこには葵珠きしゅ后妃が立っていた。
 紫の衣装が薄暗い光の中で美しく映え、その笑みはどこか毒を含んでいる。

葵珠きしゅさま……。こんなところに、どうして」

 凛羽は驚きつつ、警戒心を隠さずに言葉を選ぶ。
 葵珠はゆるりと扇を振り、優雅に歩み寄ってくる。

「そろそろ追儺の式が始まるという噂を耳にしてね。わたくしも少し興味が湧いたの。皇女さまと華陽が、盛大に行うらしいじゃない。
 だけど、その式ってほんとうに意味があるのかしら? もし夜に怨霊が出るなら、わたくしはむしろ歓迎したいのだけれど」

「やっぱり……あなたはあやかしの力をどうにか利用しようとしているんですか?」

 凛羽が問いただすと、葵珠は笑みを深め、唇をわずかに開く。

「利用……といえばそうかもしれないし、ただ眺めて楽しんでいるだけかもしれない。何しろ、あの女官の怨念は美しいわ。人間の負の感情が凝縮されていて、とても崇高だと思うの」

「それは狂っているとしか……人の苦しみを美しいだなんて」

「ふふっ、凛羽……あなたは自分の影にあやかしを溶け込ませたのでしょう? その痛みと苦しみを理解してしまったのよね。
 だったら、もう少し面白い表情を見せてくれないかしら。たとえば、“自分も闇に魅了されている”って顔で」

 葵珠は軽く扇で凛羽の頬を撫でるようにしながら、妖しい声で囁く。
 凛羽は身を引き、憤りを押さえながら問いかけた。

「あなたの目的は何? いったい何のために怨念を眺めているの?」

「目的? さあね。単なる退屈しのぎかもしれないし、もっと深い理由があるのかもしれない。……ただ、はっきり言えるのは、わたくしはあなた方の“追儺の式”に興味がないということ。下手に怨霊を鎮められては困る面もあるけれど、手を出すほどでもないわ」

 その言葉に、凛羽は少し表情を曇らせる。

「手を出すほどでもない……どういうことです?」

「言葉のままよ。どうせあなたたちがどんなに頑張っても、完全に怨念を消し去るのは無理でしょうし、華陽かようだって中途半端な力しかない。皇女さまも同じね。わたくしが“闇”を支配したければ、いつでもそうできる立場にいるの」

「……もしそうだとして、あなたはわたしたちを妨害するつもりはないんですか?」

「さあ、どうかしら。今のところは見て楽しむだけ。あなたが何をするのか見届けたいの。もしあなたが本気であの怨念を救おうとするなら……その結果がどれほど美しく崩れるか、わたくし興味があるのよ」

 葵珠は目を細め、まるで猛獣もうじゅうが獲物を観察するような表情を浮かべる。
 凛羽は背筋に寒気を覚えつつ、なんとか平静を保つ。

 

「……そうですか。なら、好きに眺めていればいい。わたしたちはわたしたちなりに、女官たちを救うために動きます。あなたが何を思おうが、わたしには関係ない」

「強気ね、凛羽。父親譲りの意思かしら。……まあ、頑張るといいわ。それがどんな結末を招くのか、わたくし、期待しているから」

 葵珠は挑発するように微笑んで見せると、部屋を出て行こうとする。
 だが、出口に差し掛かったところで、ふと振り返り、小さく吐息をついた。

「あなたの笛、正行まさゆきさまが残した“あやかしとの共鳴”の結晶でしょう? 確かに素晴らしいわ。でも、笛ごときでどこまで闇を解放できるか、楽しみにしているわね」

 最後まで傲慢な態度を貫き、葵珠は姿を消す。
 残された凛羽は悔しさと不安で、胸がざわつくのを感じる。

(葵珠さまがどう動くか、わからない。あの人は誰かを邪魔するとも限らないし、急にこちらを襲ってくるとも限らない……)

 夜が深まれば、追儺の式が始まる。
 そこであやかしを完全に救えなければ、葵珠の言うとおり、全てが崩れ去るかもしれない。
 だが、それでも前に進むしかない。

「女官たちを見捨てるわけにはいかない。わたしは……わたしたちはあやかしを救うんだ」

 凛羽は胸の痛みを押さえるように、笛袋をぎゅっと握りしめる。
 強靭な闇をまとった葵珠きしゅ后妃の影――その存在が、今夜の式の不安材料として重くのしかかっていた。
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