1 / 30
第01話:婚約破棄の報せ
しおりを挟む
王都ラヴィーニアの中央通りは、華やかな貴族や商人でいつも以上に賑わっている。
だが、侯爵令嬢セシル・ラインハートの足取りは重く、肩からは小さなため息がこぼれ落ちそうだった。
彼女は生まれつき優れた記憶力と計画能力を持ち、王太子レナードの雑務をすべて引き受け、幼い頃から尽くしてきた。
レナードは周囲から将来を嘱望される人物とされていたが、実際のところは事務処理や書類整理を苦手としており、その負担をセシルに押しつけているのが現実だった。
セシルは自分が役に立てるならばと、一心に働き続けた。公務の調整役もすべて引き受け、それこそ息つく間もなく支えてきたのだ。
だが先日、突然「もうお前は必要ない」と告げられ、婚約破棄されてしまった。
◇
「……セシル様、たいへん失礼いたしますが、こちらの書類に王太子殿下のサインをいただかないと」
城の廊下に立つ侍女の声が遠く聞こえる。
それでもセシルはもう以前のように機敏に動けなかった。
いまだ頭の中でぐるぐると回るのは、レナードから叩きつけられた一言――「お前はもう不要だ」という冷たい声だけだ。
「セシル様、殿下に直接確認に行きましょうか?」
親しい侍女が心配そうに問いかける。
セシルはかすかに微笑んで首を横に振った。
「いいえ。私が行っても、きっと同じです」
そう口にしたとき、胸には言いようのない痛みが走った。
あれほどまでに尽くしてきたのに――。
「殿下からお呼びがあったので参上しました」
やがて、セシルは完全に仕事から外されるような扱いを受ける。
なけなしの勇気を奮い起こし、直接レナードと対面しようと王宮の謁見室へ足を運んだ。
◇
「おや、ずいぶんと遅かったじゃないか、セシル」
この場にはレナードと、その取り巻きとも言える貴族子息たちが集まっていた。
レナードは艶やかな金色の髪を流し、あどけない笑顔のまま、執務机に片肘をついている。
その姿を見慣れたセシルでさえ、今はその無邪気な表情にどこか寒気を覚えるほどだった。
「申し訳ございません、殿下。あれほどお忙しいのに、私が役目を果たせず――」
必死に頭を下げようとしたセシルに、レナードは手を振ってさえぎった。
「まったく、もう必要ないと言ったのに、なぜまだここへ来る? お前の仕事は終わりだよ」
「……終わり、ですか?」
「そうだ。お前にやってもらう仕事は、もうない。そもそも書類仕事なんて雑用だし、別の人にやらせればいいだけだ。私にはもっと華やかな婚約者が相応しい」
「……っ」
レナードのあまりに冷酷な一言に、セシルはうまく言葉が出ない。
周囲の貴族たちから笑いが漏れる。
「それでは、正式に婚約は破棄ということでよろしいですか?」
レナードはあっさりと頷き、嬉しそうな顔をしている。
その様子を見て、セシルは心が張り裂けそうだった。
「はい。それで、構いません……」
言葉を振り絞ったあと、セシルは震える足取りで謁見室を去った。
視界がじんわりと滲む。だが、涙を見せたくはないと、必死に自分を支える。
◇
そして、その日の夜。
セシルはラインハート侯爵家の屋敷に戻り、家族に今回の件を打ち明けた。
父は憤慨し、母は落ち込んだが、セシル自身が思うほどには怒りも悲しみも大きくないようで、どこか空っぽの感情しか湧いてこない。
「私、少しだけこの国から離れます。隣国グリーゼに行ってみようかと……」
そう言うと、父は戸惑いながらもうなずいた。
「いいだろう。お前はずっと働き詰めだった。少しは休んでくるといい。きっと気分転換にもなるはずだ」
「ありがとう、お父さま」
セシルは寂しそうに微笑んだ。
たしかに自分にとって、隣国への旅は気分転換になるかもしれない。
「殿下がこれまで押し付けてきた雑用も、誰かが継いでくれるならば、それが一番だと思います。私の手はもう、必要ないのでしょうし……」
口にしてから、虚しさを拭えない自分に気づく。
思考が上手くまとまらず、ただ明日の朝に王都を発つ準備を進めるのが精一杯だった。
「セシル。お前はよくやったよ。ラインハートの誇りだ」
家族の温かい言葉に、彼女はもう一度微笑む。
それでもその笑顔に本当の明るさは感じられない。
徹底して尽くしてきたのに、こうして“破棄”という形で追い出されたのだから、仕方ないのかもしれない。
◇
翌朝、まだ日が昇りきらないうちから、セシルは小さな馬車で城下町を抜け、隣国グリーゼへと向かった。
その道中、彼女はまるで身体から力が抜け落ちるような感覚に襲われていた。
悔しさや悲しみが混在して、もはや何も考えられない。
「……でも、きっと、どこかに私を必要としてくれる場所があるはず」
心の底からそう願いながら、セシルは静かに馬車の揺れに身をまかせるのだった。
だが、侯爵令嬢セシル・ラインハートの足取りは重く、肩からは小さなため息がこぼれ落ちそうだった。
彼女は生まれつき優れた記憶力と計画能力を持ち、王太子レナードの雑務をすべて引き受け、幼い頃から尽くしてきた。
レナードは周囲から将来を嘱望される人物とされていたが、実際のところは事務処理や書類整理を苦手としており、その負担をセシルに押しつけているのが現実だった。
セシルは自分が役に立てるならばと、一心に働き続けた。公務の調整役もすべて引き受け、それこそ息つく間もなく支えてきたのだ。
だが先日、突然「もうお前は必要ない」と告げられ、婚約破棄されてしまった。
◇
「……セシル様、たいへん失礼いたしますが、こちらの書類に王太子殿下のサインをいただかないと」
城の廊下に立つ侍女の声が遠く聞こえる。
それでもセシルはもう以前のように機敏に動けなかった。
いまだ頭の中でぐるぐると回るのは、レナードから叩きつけられた一言――「お前はもう不要だ」という冷たい声だけだ。
「セシル様、殿下に直接確認に行きましょうか?」
親しい侍女が心配そうに問いかける。
セシルはかすかに微笑んで首を横に振った。
「いいえ。私が行っても、きっと同じです」
そう口にしたとき、胸には言いようのない痛みが走った。
あれほどまでに尽くしてきたのに――。
「殿下からお呼びがあったので参上しました」
やがて、セシルは完全に仕事から外されるような扱いを受ける。
なけなしの勇気を奮い起こし、直接レナードと対面しようと王宮の謁見室へ足を運んだ。
◇
「おや、ずいぶんと遅かったじゃないか、セシル」
この場にはレナードと、その取り巻きとも言える貴族子息たちが集まっていた。
レナードは艶やかな金色の髪を流し、あどけない笑顔のまま、執務机に片肘をついている。
その姿を見慣れたセシルでさえ、今はその無邪気な表情にどこか寒気を覚えるほどだった。
「申し訳ございません、殿下。あれほどお忙しいのに、私が役目を果たせず――」
必死に頭を下げようとしたセシルに、レナードは手を振ってさえぎった。
「まったく、もう必要ないと言ったのに、なぜまだここへ来る? お前の仕事は終わりだよ」
「……終わり、ですか?」
「そうだ。お前にやってもらう仕事は、もうない。そもそも書類仕事なんて雑用だし、別の人にやらせればいいだけだ。私にはもっと華やかな婚約者が相応しい」
「……っ」
レナードのあまりに冷酷な一言に、セシルはうまく言葉が出ない。
周囲の貴族たちから笑いが漏れる。
「それでは、正式に婚約は破棄ということでよろしいですか?」
レナードはあっさりと頷き、嬉しそうな顔をしている。
その様子を見て、セシルは心が張り裂けそうだった。
「はい。それで、構いません……」
言葉を振り絞ったあと、セシルは震える足取りで謁見室を去った。
視界がじんわりと滲む。だが、涙を見せたくはないと、必死に自分を支える。
◇
そして、その日の夜。
セシルはラインハート侯爵家の屋敷に戻り、家族に今回の件を打ち明けた。
父は憤慨し、母は落ち込んだが、セシル自身が思うほどには怒りも悲しみも大きくないようで、どこか空っぽの感情しか湧いてこない。
「私、少しだけこの国から離れます。隣国グリーゼに行ってみようかと……」
そう言うと、父は戸惑いながらもうなずいた。
「いいだろう。お前はずっと働き詰めだった。少しは休んでくるといい。きっと気分転換にもなるはずだ」
「ありがとう、お父さま」
セシルは寂しそうに微笑んだ。
たしかに自分にとって、隣国への旅は気分転換になるかもしれない。
「殿下がこれまで押し付けてきた雑用も、誰かが継いでくれるならば、それが一番だと思います。私の手はもう、必要ないのでしょうし……」
口にしてから、虚しさを拭えない自分に気づく。
思考が上手くまとまらず、ただ明日の朝に王都を発つ準備を進めるのが精一杯だった。
「セシル。お前はよくやったよ。ラインハートの誇りだ」
家族の温かい言葉に、彼女はもう一度微笑む。
それでもその笑顔に本当の明るさは感じられない。
徹底して尽くしてきたのに、こうして“破棄”という形で追い出されたのだから、仕方ないのかもしれない。
◇
翌朝、まだ日が昇りきらないうちから、セシルは小さな馬車で城下町を抜け、隣国グリーゼへと向かった。
その道中、彼女はまるで身体から力が抜け落ちるような感覚に襲われていた。
悔しさや悲しみが混在して、もはや何も考えられない。
「……でも、きっと、どこかに私を必要としてくれる場所があるはず」
心の底からそう願いながら、セシルは静かに馬車の揺れに身をまかせるのだった。
21
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説
私が妻です!
ミカン♬
恋愛
幼い頃のトラウマで男性が怖いエルシーは夫のヴァルと結婚して2年、まだ本当の夫婦には成っていない。
王都で一人暮らす夫から連絡が途絶えて2か月、エルシーは弟のような護衛レノを連れて夫の家に向かうと、愛人と赤子と暮らしていた。失意のエルシーを狙う従兄妹のオリバーに王都でも襲われる。その時に助けてくれた侯爵夫人にお世話になってエルシーは生まれ変わろうと決心する。
侯爵家に離婚届けにサインを求めて夫がやってきた。
そこに王宮騎士団の副団長エイダンが追いかけてきて、夫の様子がおかしくなるのだった。
世界観など全てフワっと設定です。サクっと終わります。
5/23 完結に状況の説明を書き足しました。申し訳ありません。
★★★なろう様では最後に閑話をいれています。
脱字報告、応援して下さった皆様本当に有難うございました。
他のサイトにも投稿しています。
さげわたし
凛江
恋愛
サラトガ領主セドリックはランドル王国の英雄。
今回の戦でも国を守ったセドリックに、ランドル国王は褒章として自分の養女であるアメリア王女を贈る。
だが彼女には悪い噂がつきまとっていた。
実は養女とは名ばかりで、アメリア王女はランドル王の秘密の恋人なのではないかと。
そしてアメリアに飽きた王が、セドリックに下げ渡したのではないかと。
※こちらも不定期更新です。
連載中の作品「お転婆令嬢」は更新が滞っていて申し訳ないです(>_<)。
婚約破棄を兄上に報告申し上げます~ここまでお怒りになった兄を見たのは初めてでした~
ルイス
恋愛
カスタム王国の伯爵令嬢ことアリシアは、慕っていた侯爵令息のランドールに婚約破棄を言い渡された
「理由はどういったことなのでしょうか?」
「なに、他に好きな女性ができただけだ。お前は少し固過ぎたようだ、私の隣にはふさわしくない」
悲しみに暮れたアリシアは、兄に婚約が破棄されたことを告げる
それを聞いたアリシアの腹違いの兄であり、現国王の息子トランス王子殿下は怒りを露わにした。
腹違いお兄様の復讐……アリシアはそこにイケない感情が芽生えつつあったのだ。
お父様、ざまあの時間です
佐崎咲
恋愛
義母と義姉に虐げられてきた私、ユミリア=ミストーク。
父は義母と義姉の所業を知っていながら放置。
ねえ。どう考えても不貞を働いたお父様が一番悪くない?
義母と義姉は置いといて、とにかくお父様、おまえだ!
私が幼い頃からあたためてきた『ざまあ』、今こそ発動してやんよ!
※無断転載・複写はお断りいたします。
【完結】私のことを愛さないと仰ったはずなのに 〜家族に虐げれ、妹のワガママで婚約破棄をされた令嬢は、新しい婚約者に溺愛される〜
ゆうき@初書籍化作品発売中
恋愛
とある子爵家の長女であるエルミーユは、家長の父と使用人の母から生まれたことと、常人離れした記憶力を持っているせいで、幼い頃から家族に嫌われ、酷い暴言を言われたり、酷い扱いをされる生活を送っていた。
エルミーユには、十歳の時に決められた婚約者がおり、十八歳になったら家を出て嫁ぐことが決められていた。
地獄のような家を出るために、なにをされても気丈に振舞う生活を送り続け、無事に十八歳を迎える。
しかし、まだ婚約者がおらず、エルミーユだけ結婚するのが面白くないと思った、ワガママな異母妹の策略で騙されてしまった婚約者に、婚約破棄を突き付けられてしまう。
突然結婚の話が無くなり、落胆するエルミーユは、とあるパーティーで伯爵家の若き家長、ブラハルトと出会う。
社交界では彼の恐ろしい噂が流れており、彼は孤立してしまっていたが、少し話をしたエルミーユは、彼が噂のような恐ろしい人ではないと気づき、一緒にいてとても居心地が良いと感じる。
そんなブラハルトと、互いの結婚事情について話した後、互いに利益があるから、婚約しようと持ち出される。
喜んで婚約を受けるエルミーユに、ブラハルトは思わぬことを口にした。それは、エルミーユのことは愛さないというものだった。
それでも全然構わないと思い、ブラハルトとの生活が始まったが、愛さないという話だったのに、なぜか溺愛されてしまい……?
⭐︎全56話、最終話まで予約投稿済みです。小説家になろう様にも投稿しております。2/16女性HOTランキング1位ありがとうございます!⭐︎
【完結】「異世界に召喚されたら聖女を名乗る女に冤罪をかけられ森に捨てられました。特殊スキルで育てたリンゴを食べて生き抜きます」
まほりろ
恋愛
※小説家になろう「異世界転生ジャンル」日間ランキング9位!2022/09/05
仕事からの帰り道、近所に住むセレブ女子大生と一緒に異世界に召喚された。
私たちを呼び出したのは中世ヨーロッパ風の世界に住むイケメン王子。
王子は美人女子大生に夢中になり彼女を本物の聖女と認定した。
冴えない見た目の私は、故郷で女子大生を脅迫していた冤罪をかけられ追放されてしまう。
本物の聖女は私だったのに……。この国が困ったことになっても助けてあげないんだから。
「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します。
※小説家になろう先行投稿。カクヨム、エブリスタにも投稿予定。
※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。
もうすぐ婚約破棄を宣告できるようになるから、あと少しだけ辛抱しておくれ。そう書かれた手紙が、婚約者から届きました
柚木ゆず
恋愛
《もうすぐアンナに婚約の破棄を宣告できるようになる。そうしたらいつでも会えるようになるから、あと少しだけ辛抱しておくれ》
最近お忙しく、めっきり会えなくなってしまった婚約者のロマニ様。そんなロマニ様から届いた私アンナへのお手紙には、そういった内容が記されていました。
そのため、詳しいお話を伺うべくレルザー侯爵邸に――ロマニ様のもとへ向かおうとしていた、そんな時でした。ロマニ様の双子の弟であるダヴィッド様が突然ご来訪され、予想だにしなかったことを仰られ始めたのでした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる