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私と姪

私と姪.1

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 私には一回りも歳の離れた姉がいる。

 代々公務員一家である厳格な御剣みつるぎ家で、長女として厳しく育てられた反動なのか、四人姉妹の中で、唯一長女の和葉かずはだけが自由人に成長してしまった。

 ギターと男遊びが好きで、派手な服や香水を常に身をまとっているような人。

 頭は悪くないのに、なぜか逆に馬鹿を演じているように見える人。

 もちろん、だからといって下の姉妹たちに冷たいわけでもなく、いつも何かと気を遣って、世話を焼いてくれるような人だった。

 特に末っ子の私――和歌わかのことは、歳も離れていることもあって、まるで自分の子どものように可愛がってくれたものだ。

 そうした世話好きな面もあったので、多少の勝手は父も母も見て見ぬふりをしていたのだが、和葉がどこの誰とも分からない男の子どもを身ごもったときは、さすがにその限りではなかった。

 その当時、和葉は大学に進学したばかりの十八の歳だ。当然といえば当然である。

 とても子どもを育てられる年齢ではなかったし、相手の男が雲隠れしてしまったことも、事態の収束を不可能にした大きな原因だった。

 親の反対を押し切り、頑として子どもを生むことを決めていた和葉が、蛇蝎のごとく両親から疎まれ、文句を言われているのを見て、六歳の私は、どうして男の人を責めないのだろうか、と不思議になったものだった。

 大人になった今なら分かる。

 どこにいるかも分からない相手を責めるより、目の前にいる相手を延々と責め続けるほうが、人間楽で、安心するものだ。

 勘当同然に追い出される和葉の後ろ姿は、あまりにも孤独で、私の知っている彼女のそれではなかったことを覚えている。

 そして、去り際に私の頭を撫でてくれた、温かく、柔らかな手が震えていたことも、ハッキリと…。

 それから六年の月日がこんこんと流れ、私が中学に上がった頃、ネットで注文していた本が届いたかどうか確かめるため、郵便受けを漁っていたときに、それを見つけてしまった。

 大人しそうな小さな女の子と、より大人っぽく成長した姉の写真が印刷された、一枚の葉書。

 姉からのものだと気付いたときには、思わず隠すようにして両手で葉書を胸に抱き、自室に駆け込んだ。

 本のことなんて、すっかり忘れてしまっていた。

 中身は本当に簡単なものだった。特段何かが書かれているわけでもなかったが、文面からして、姉が今までも時折手紙を送っていたことを汲み取ることぐらいは出来た。

 自分たちには何も知らされていなかったことを悟り、幼いながらも、私は両親へ大きな反感を抱いた。初めて、両親という存在に狡猾さと卑怯さを覚えた。

 大人を、勝手に清廉潔白なものだと根拠もなく盲信していたのは、私のほうなのに…。まあ、それが幼さというものだろうが。

 葉書に映る、幸せなそうな姉の笑顔には安心したが、初めて見る姪っ子の顔が酷く陰鬱に見えたことには不安を覚えた。

 シングルマザーとして、働き続けている和葉には、自分の娘との時間をきちんと作ることすら難しいのではないか。

 心配性の私は、そこから悶々と悪い方面のことばかりを考えてしまって、ろくに眠れなかった。

 睡眠不足に悩まされた頭で学校に向かい、授業を受けていた私は、『じゃあ、私がお世話すればいいんじゃない』と思い至り、まるで画期的なアイデアでも浮かんだかのように、気分が昂揚した。

 今振り返れば、本当にただの思いつきで、相手のことも、自分の家族のことも考えていない短絡的な行動だったとは思う。

 …ただ、それが間違っていたとは、思っていない。

 そして、次の休日には早速、葉書に記載されていた住所に向かった。

 遥か彼方、外国にでも消えた気になっていた和葉の所在は、他県どころか、たった一駅分しか離れていない町にあった。

 大冒険にでも赴くような心地で、いつもは乗らない電車に乗り、見慣れぬ風景を眺めながら一駅先の町に辿り着く。

 その頃には、冒険の熱も急速に冷め始め、いよいよ目的地である姉の住んでいるボロボロのアパートの目の前に立ったときなぞには、やっぱり帰ろうかとすら本気で考えるほどだった。

 和葉のような決断力を欠片も持ち合わせなかった私は、いつまでもアパートの前で立ち止まって、塗装が剥がれた外壁を見上げていた。

 間もなくして、アパートの一階から、皺くちゃで不潔な服装をした中年の男性が出てきて、じっとこちらを見つめているのに気付いた。何だかそれが不気味で、慌てて階段を上がる。

 二階建ての木造アパートの廊下を、黙って早足になりながら進む。一度進みだしたら、私の動きは小動物みたく素早い。

 一番端の部屋の前で立ち止まり、表札を見るが、そこはくすんだ白のままで何も書かれていない。何かと物騒な世の中だし、名前を記入したりしないのだろうか。

 ただ、部屋番号だけは間違いなく合っている。

 躊躇いながら、インターホンを押す。

 チープな音が聞こえる中、出ないなら出ないで構わない、と弱気なことを私が考えていると、すぐに、「はーい」と元気な声が返ってきた。

 その声を聞いただけで、中にいるのが和葉なのだと確信した。

 あの頃と、変わらない、自由に満ちた青天井に舞い上がる資格を持つ、自分のことは自分で決められる類の人間の声質だ。

 心臓の鼓動が激しくなり、喉の奥に何かがつっかえているような息苦しさを感じていた私だったが、扉が開き、中から見慣れたような、でも何か違うような顔が現れ、その表情が怪訝な様子から満面の笑みへと変わったとき、その苦しさも霧散していた。

「もしかして、和歌?」私の制服姿を、爪先からつむじまで眺めて言う。「あ、うん。久しぶり、和葉姉ちゃん」
「やだぁ、もう!来るなら来るって連絡してくれればいいのにさぁ。ほら、上がって!」
「お、お邪魔します?」

 どうしてか疑問形になった私の声に、和葉は優しく、おかしそうに笑った。

 中は酷く質素であった。ペットボトル、音楽雑誌、カップ麺の容器といったもので散らかってはいるが、そのどれもが安っぽく、貧相に思えた。

 少なくとも、一緒に暮らしていた頃に比べると、何倍も苦労していそうなのが分かるぐらいには。

(――…これが、幸せなのだろうか。和葉姉ちゃんが、私たちから離れてでも欲しかったもの?)

 私にはとてもそうは思えない。しかし、和葉が埃に満ちたこの一室で幸せそうな笑顔を浮かべているのもまた事実だ。

 理解できないものが凝縮されたような空間に、私が些か及び腰になっていると、不意に後ろのほうから扉が開く音がした。

 そのときまで忘れていたが、和葉にはちょうど六歳になる娘がいて、本来、私は彼女のために来たようなものだったのだ。

 ひょっこり顔を出した彼女は、皺だらけのシャツとスカートを着て、細い手足をしていた。だが、そうした貧困の影を感じる中にも、姉に似た凛とした気丈さを覗かせている。

 女の子は、将来、必ずや美人になるだろうという、端麗な造りの顔立ちで私と和葉を見比べる。

「お、一葉ひとひら、お母さんの妹だよぉ」

 少女はじろり、と無言で睨みつけるようにして私を見てくる。

 急な出会いであったため、何も考えていなかった私は、狼狽えながらも何とか手を振って、「こんにちは」と応えるのが精一杯だった。

 一葉は、そんな私をたっぷり十秒ぐらい見つめたかと思うと、顔を逸らしてから、「こんにちは」と呟いた。

 人見知りする子どもなのかもしれない。

 何はともあれ、私も子どもが苦手なので、嬉々として寄り付いてこないのは救いでもあったが…。

 そこでやっと、私は自分が何をしようとしていたのかを冷静に理解する。

 そう、子どもが苦手なくせに、私はこの子の世話を買って出ようとしていたのだ。
「もぅ、一葉は誰に似たのか無愛想ねぇ」と和葉は腰に手を当てながらも、「でも、挨拶出来たのは凄いぞぉ」としゃがんで一葉の頭を撫でた。

 対する一葉は面倒そうに目を細めただけで、母親の手が離れるや否や、部屋の奥に置いてあるソファに腰掛け、ノートパソコンに繋がったイヤホンを耳にはめて音楽を聞き始めた。

「本当、誰に似たんだか…」

 肩を竦めながら呟いた和葉の横顔には、私の知らない繊細な思い出がたくさん詰まっているように思えて、何だか盗み見るわけにはいかないような気持ちになる。

 それから私たちは、この狭苦しいワンルームにて、互いに虫食い状態になった過去を埋め合うための一席を設けた。

 父も母も、他の姉たちも元気にやっていること、次女は姉と同じ大学に受かったこと、三女は高校総体で上位に入るほど柔道が強くなったこと、そして私は、相変わらず何の取り柄もなくだらだらと生きていること…。

 和葉はどの話にも笑って答えていたが、最後の私に関する話にだけは、眉をひそめて面白くなさそうに首を振った。

「和歌の悪いところだよ。自分のことを卑下しすぎ」
「そうは言ってもさぁ、本当に、人より出来ることなんてないし…」
「あるじゃん。和歌にも」

 そんなもの、あるわけないよ。

 私は、和葉のように容姿端麗でもなければ、次女のように頭が良いわけでもなく、三女のように運動神経が良いわけでもない。

 『平凡』という言葉が、誰よりも似合う女だと自覚があった。実際、学校生活はまさにそのタイトルが妥当な代物であった。

 それでも、話の流れを悪いほうに持っていかないためにも、私は聞き返す。

「…例えば?」

 姉が答えられないと思いながらも、私は小首を傾げて尋ねた。すると彼女は、驚いたことに、すでに解答を準備していたかのようにスラスラと言葉を連ね始めた。

「努力家なところ、慎重なところ、何よりも優しいところ。分かる?和歌だけだよ、こうして私のことをいつまでも気にかけてくれてるの」
「…ありがと」

 その言葉を聞いても、私は何だか納得できなかった。どれも、やって当たり前のことのように感じられたのだ。

 努力だって、しなければ叱られるからするだけで。

 慎重さなんて、臆病さの裏返しなわけで。

 優しさだって、嫌われたくないからってだけで…。

 私は、どこか言い訳じみた口調で和葉の言葉を否定した。

「でも、家族だもん、当然だと思うよ」

 しかし、和葉はゆっくりと首を振ってみせた。その顔には、物悲しい、寂れた町の孤独のようなものが混じっているように思えた。

「甘い甘い。家族なんて、血が繋がっているだけだから。他人だって言い切っちゃえば、所詮それと変わらないの。いや、友達なんかよりもずっと他人かもしれない」
「そんなの変だよ。私、和葉姉ちゃんのこと他人だなんて思えないもん」
「ふふ、だから、和歌は優しいんだって。いい?家族がどこも仲良しだなんて、嘘なんだから」

 どうしてそんな悲しいことを言うのか、私には分からなかった。

 分からなかったが、私の知らない六年という月日が、彼女をゆっくりとすり減らしたことだけは予測できた。

 和葉は、不服そうな私の顔を見て、小さく笑ってから、「和歌は、こんなこと分からなくていいけどね」と呟いた。

 ならば、どうして私にそれを告げたのか、と文句の一つでも言いたくなったが、和葉の寂しい面持ちに躊躇し、やめた。
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