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第三章 感情を、思い出させてくれたのは

3-2

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 翌日、待ち合わせ時間に高校前へと向かった。俺の家の場所を説明したものの上手く伝わらず、それなら高校まで迎えに行くと言ったのだ。
 杏珠は申し訳なさそうだったけれど、説明するのも結果として迷子になられるのも面倒くさいと伝えると、渋々学校での待ち合わせで了承してくれた。
「お待たせ」
 校門前に立つ杏珠に手を挙げると、杏珠も笑顔を浮かべた。今日の杏珠はグレーのTシャツにショートパンツ、それからサンダルといった夏らしい装いだった。
「あれ? 蒼志君、今日自転車なの?」
「そう」
 学校から俺の家までは歩いて十五分ほどの場所にある。普段は歩いてもなんともない距離だけれど、夏の昼時に十五分も歩けば汗が噴き出てくる。なんならその十五分で熱中症になるかも知れない。
「私も自転車にしたらよかったなー。学校に行くっていう意識が強すぎて、ついいつも通り歩いてきちゃった」
「……後ろ、乗る?」
「え?」
 驚いたように言う杏珠に俺はそんな変なことを言っただろうかと不思議に思う。
「暑いだろ、歩いたら」
「まあ、うん。そう、なんだけど」
 暫く考えるような素振りを見せてから「どうせ何も思ってないんだろうな」と呟くと、杏珠は俺の自転車の後ろに横向きで座る。そのまま俺のことを掴めばいいのに、荷台を掴むから、俺が自転車を漕ぎ始めた拍子に「きゃっ」と悲鳴を上げる声が聞こえたと同時に杏珠の身体が大きく傾いたのがわかった。
「何やってんの」
「だって、急に発車するから」
「ちゃんと捕まってろよ」
「……うん」
 俺の着ているTシャツの両端をそっと掴む杏珠に思わずため息を吐いた。
「それじゃあまた落ちるって」
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
「……これでいいんじゃないの?」
 Tシャツを引っ張るようにしていた杏珠の手を、俺は自分の腹へと回した。後ろから抱きつくような体勢になった杏珠が「……っ」と息を呑んだのがわかった。
 その反応に、俺はそこはかとない居心地の悪さをごまかすかのように、思いっきりペダルを踏む足に力を込めた。
 自転車の上で杏珠も俺も無言だった。何を話していいかわからなかったし、密着している背中から聞こえる杏珠の心臓の鼓動が早くて、居心地の悪さに拍車を掛けた。Tシャツ越しに伝わる熱が妙に熱くてクラクラする。
 少しでも早く自宅に帰ろう。そう思い、普段なら七分はかかる道のりを五分もかからず到着することができた。
「……着いた、よ」
「ありが、とう」
 ペダルを踏む足を止めた俺に礼を言うと、杏珠は慌てて自転車から飛び降りる。背中に感じていたぬくもりがなくなって、ひんやりとする。あんなにも熱かったはずなのに、先程までのぬくもりが恋しいだなんてどうかしている。
「蒼志君?」
「ああ、今行く」
 自転車を駐車場に止めると、俺は玄関前で待っていた杏珠の元へと向かう。ポケットから取りだした鍵でドアを開けると、中からはひんやりとした空気が流れ出た。
「涼しい」
「冷房つけといたから。二階に俺の部屋あるから先に上がってて。飲みものとか持って行くよ」
「ありがと」
「突き当たりの部屋だから」
 杏珠に伝えながらキッチンへと向かうと、冷やしておいたミネラルウオーターを二本と、友達が来ると伝えたら飛ぶように喜びながら「これおやつ用意しておいたから」と言って母親が焼いてくれた林檎パイを持って二階に上がる。
 ドアが閉まった自分の部屋の前に立つと、俺は中にいるであろう杏珠に声を掛けた。
「ドア開けてくれる?」
「…………」
 けれど、中から返答はない。部屋を間違えたのだろうか? にしても、二階に上がって行ったのだから俺の声は聞こえているはずだ。
「杏珠?」
 呼びかけてもやはり返答はない。仕方なく俺はミネラルウオーターを小脇に抱えると、どうにかドアを開けた。
 部屋の中には本棚の前で立ち尽くす杏珠の姿があった。
「部屋にいたなら開けてくれたらいいのに。……杏珠?」
 話しかけても返事をすることがない杏珠を不信に思い、俺はその顔を覗き込んだ。手に持った何かをジッと見つめている杏珠は、俺に気付くと慌ててその本を背中に隠した。
「ご、ごめん。気付かなくて」
「いいけど、何読んでたの?」
「べ、別に……」
「ふーん? まあ、いいや。読み終わったら戻しておいてね」
 部屋の真ん中に置いた机の上にミネラルウオーターとアップルパイを並べる。杏珠は露骨に安心したように息を吐くと、俺に見られないように背中に隠した本を本棚に戻した。――戻そうと、した。
「で、何読んでたの?」
「あっ」
「なんだ」
 戻そうとした本を手に取って覗き見る。その手に持っていたのは、奇病について書かれた本だった。発症した当初、自分の病気のことをわかっておいた方がいいから、と担当医から薦められた両親が購入し、俺の本棚に入れた。買ってもらったからには、と何冊かは読んだけれどどれも書いてある内容は薄い。そもそも解明されていれば奇病とは呼ばれないのだから書ける内容が少なくても仕方ないのかもしれない。
「心失病のこと知りたいなら、こっちよりこっちがわかりやすく書いてくれてるかな。あ、それは持ってる本の中では一番心失病のページ数が多いけど、中身はスカスカの薄っぺらい感じ。似たようなことや著者の意見ばっかり書いてあって、結局のところは何もわかりませんみたいな内容だったよ」
「ちゃんと読んでるんだね」
「まあ、せっかく買ってもらったしね」
 肩をすくめ、俺は先程まで杏珠が読んでいた本をパラパラとめくった。
「で、心失病の何が知りたかったの?」
「あ、え、その……治す方法はあるのかな、って思って」
「あー……それね。それならこっちがいいかな」
 一番分厚い本を本棚から取り出すと、パラパラとページをめくる。栞が挟まれたそのページは他のページに比べると折れ曲がったり色が変わったりと、劣化が明らかに見てわかった。
「ここに書いてる。今までに治った人は一人しかいないって」
 俺がめくったページを、杏珠は興味深そうに覗き込んだ。
「『彼は大切な人の誕生で、心をそして余命を取り戻した。結果として、彼の子と人生を歩むことが可能となった』らしいよ」
「大切な人の誕生で……」
「まあ、子供が生まれることは女性にとっては勿論、男性にとっても凄く大切でかけがえのないことらしいからね。それで感情を取り戻したとしても不思議じゃない、らしい」
 とはいえ、みんながみんな同じことで感情を取り戻すわけではないようだ。同じような条件が重なった人が、どうにか妻の出産を早めて感情を取り戻そうとしたらしいが上手くはいかなかったと別の本に書いてあった。
「蒼志君は、怖くないの?」
「何が」
「……死ぬことが」
「……怖いかどうかなんて、もうわからなくなったよ」
 心失病の幸せなところはそこだと思う。死の恐怖に怯えることがない。ただ死が事実としてそこにあるだけなのだ。
「……そう、なんだ」
 俺の答えに、杏珠は小さく頷くとその場にしゃがみ込んだ。
「杏珠?」
「……私は、凄く怖い」
 杏珠の手が小さく震えているのがわかった。
「おばあちゃんの病院に行ったって、言ったでしょ」
「うん」
 杏珠の隣に座ると、俺は手を伸ばして机の上からミネラルウオーターを取ると手渡した。それを受け取ると、ぎゅっと握りしめるようにしたまま杏珠はぽつりぽつりと話し始める。
「余命三ヶ月だって言われたときにね、病気の進行が凄く早くて、もう治療もできないって言われてたの。無理にキツい治療をしたとしてもほんの少しの延命どころか苦しむだけだって。だから今は日常生活を送れるぐらいの薬と、検診だけで……あとはもう死を待つだけなの」
「そう、なんだ」
 家族にとってみたらきっとそれはとても辛くて苦しい状況に違いない。杏珠の表情をみていればどれほどの悲しみなのか、感情が残っていない俺にも想像はつく。
 あの時のように「どちらが早く死ぬかな」なんてことはとてもじゃないけれど言えない。言ってはいけないと、俺にだってわかる。
「……病気なんかなくなっちゃえばいいのに。もっと、もっと一緒にいたい。離れたくないよ」
 杏珠の悲痛な叫びは、俺の胸を抉るように痛めた。それと同時に、こんなにも杏珠に思ってもらえる杏珠の祖母が少しだけ羨ましかった。
 杏珠は『私が今死んだら、蒼志君は悲しんでくれる?』と尋ねたけれど、逆に杏珠は今俺が死ねば悲しんでくれるのだろうか。少しは寂しがってくれるのだろうか。
 聞きたいけれど、聞けない。もしも『そんなわけないじゃん』とでも言われたらと想像するだけで、もう存在しないはずの感情が悲鳴を上げるように心が痛んだから。
「……勉強、する?」
 代わりに俺が発したのは、面白みも何もないそんな言葉だった。杏珠も頷くと、持ってきたカバンからノートと教科書を取り出す。
 薄暗くなるまで、俺の部屋には杏珠が質問する声と、それに答える俺の声、それからシャープペンシルがノートの上を走る音しか聞こえなかった。
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