お隣の大好きな人

鳴海

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 直樹が本格な受験勉強期間に入ったことで、二人が会える時間は大きく減った。そのせいで、放課後になると真はかなり退屈を持て余していた。

 そんなある日のこと、学校から帰ってきた真は、自分の部屋にランドセルを置くとリビングに向かった。そこには母と五才年下の妹である沙耶がいて、二人で仲良くおやつを食べていた。

 真たち一家がこのマンションに越してきた時、実は母は妊娠中であり、その時にお腹の中にいたのが沙耶である。そもそも、マンションの購入を決めた理由が母の妊娠だったのだ。運良くすぐに良い物件が見つかり、一家は無事に引っ越しすることができた。

 しかし、妊娠による体の負担と新居での慣れない生活のため、母は心身共にかなり疲れていた。真に幼稚園で友達ができず、悲しい思いをしていたことに気付いてあげることができなかったのは、そのためでだったのだ。決して故意に放置していたワケではない。

 とはいえ、結果として真に悲し思いをさせたことには違いない。
 沙耶の出産からしばらく経ち、少し気持ちに余裕ができた母が過去を振り返った時、あまりの不甲斐なさに自分自身に怒りが募ったものだが、いくら反省しても時間は巻き戻らない。同じくらいの子供と比べると真の親への態度は素気ないし、どことなく壁を感じるが、それも自分のせいだと悲しくも理解できた。

 だからこそ、過去を嘆くよりは未来を見据えて少しずつでも真の信頼を取り戻していこうと、母はいつも思っていたのである。

 対して真はというと。

 特になにも考えてなかった。家族に対して壁を作っているつもりもない。ただ、家族よりもなによりも、最も大切で大好きなのが直樹になってしまっただけのことだった。

 だから、直樹の受験により、しばらくお隣に行けなくなったことも、真はすぐに母親に報告した。その時の真の顔が、あまりにも絶望に満ちていたため、母は真にこんなことを提案してみることにした。

「お隣に行かないのなら、真は暇になるのよね。だったら、お母さんのお手伝いがてら、お料理の練習をしてみない?」
「お料理の練習?」

 どうして、と首を傾げる真に母はにっこりと言う。

「ご飯を作るだけじゃなく、お菓子作りも練習するの。上手にできたら、夜食にして下さいって言って、直樹くんのところに持って行くといいわ。きっと喜んでくれるわよ~」

 母の言葉を聞いた真は、その綺麗に整った顔をぱぁっと輝かせた。

「本当にそう思う? 直樹くん、喜んでくれるかな?」
「喜ぶに決まってるわ!」
「だったら僕、練習するよ。ご飯もお菓子も上手に作れるようにがんばる。お母さん、教えてくれる?」
「勿論よ! 一緒にがんばろうね」
「うん!!」

 心からの笑みを見せる息子に、母の心も温かくなる。

 お隣に住む高校生、直樹少年に息子がものすごく懐いていることを、母はよく知っていた。そして、その理由も。
 幼稚園児だった真が誰かに救いを求め、親がその助けを求める声に気付いてやれなかった時、ただ一人そのSOSに気付いて手を差し伸べたのが直樹だった。

 直樹と出会って真は変わった。引っ込み思案で大人しく、物怖じばかりしていた真は、いつの間にか驚くほど明るくなり、自分の意見もはっきりと言える子になっていた。だからと言って我儘になったワケではく、空気をよく読み、人の心の中の思いを汲み取る配慮もみせる。

 すべて直樹のおかげだ。
 あの時、もし真が直樹と出会えてなければ、どうなっていたことか。きっと真は今とはまったく違う人間になっていただろう。想像するだけで恐ろしい。

 真の両親は心から直樹に感謝していた。
 その思いは、今ではすっかり良好な関係を築いている直樹の両親にも、当然ながら伝えてある。いつも息子がお邪魔してばかりで申し訳ないという気持ちも。

 お隣にはこれまでも、母の力作である手作り菓子を持って行き、日頃の感謝の気持ちとして受け取ってもらっている。
 実は真の母の趣味はお菓子作りで、腕前にはそれなりに自信を持っているのだ。仕事で家を空けることの多い直樹の母と親しくなれたのも、直樹に対する感謝の気持ちを伝えるため、手作り菓子を持っていったことがきっかけだった。

 甘い物に目がないという直樹の母は、いつも大喜びで菓子を受け取ってくれている。真が直樹のために料理をして渡すことも、快く許してくれるに違いない。
 そういう思いもあって、真に料理を覚えることを勧めたのだった。

 その日以来、真は晩御飯を作る手伝いをしながら、一生懸命に料理を覚えるようになった。学校が休みの時には、スイーツ作りにも励んでいる。

 この料理を一緒にするという触れ合いを通じて、息子との距離は今までよりも近付いた……というか、実は今までも息子は自分たちに壁を作っていなかったことに母は気付くことができた。ただ、普通は子供の一番が両親であることに対し、真の一番が直樹であるだけなのだ。

 親としては、そのことを少し寂しいと思うし、直樹に対して嫉妬心を覚えてしまうこともある。
 けれど、そんなモノよりも直樹には感謝の気持ちの方が大きいし、なにより、直樹のことを話す時の真が本当に嬉しそうで、楽しそうで、そんな幸せそうな真を見ていると自分まで幸せな気持ちになるものだから、もう今のままで十分だなと母は苦笑しながら思ってしまうのだった。

 そうやって、たまに妹も含めながらのお料理レッスンは進んでいき、日に日に真の料理の腕は上がっていった。自らやる気を持って事に当たる時の子供の成長は凄まじく、真はあらゆることを貪欲に吸収していく。

「ねえ真、そろそろ作ったお菓子、お隣さんに食べてもらってもいいんじゃない? 随分上手に作れるようになったわよ」

 ある日、母の目から贔屓目なしで見て、真がかなり手際よく料理できるようになった判断できた頃のことである。
 母の言葉に、真は喜ぶかと思いきや、なぜか気乗りしない様子をみせた。

「食べても直樹くん、お腹壊したりしないかなぁ? 受験勉強がんばってるんだし、迷惑だけは絶対にかけたくないよ」

 どうやら自作のお菓子を信用しきれないらしい。
 あらあらと母は笑顔で答えた。

「ウチの家族はもう何度も真の作ったもの食べてるけど、みんな平気でしょう? 直樹くんもきっと大丈夫よ。ね、沙耶もそう思うよね。お兄ちゃんのお菓子、美味しいよね?」

 母に問われて、小さな沙耶も首をコクコクと頷いてみせる。

「美味しいよ。お兄ちゃんのお菓子は全部美味しい。沙耶、大好きだもん!」

 胸を張って自信満々に答えた沙耶の頭を、真は優しく撫でた。えへっと沙耶が嬉しそうに笑う。

 その笑顔に後押しされた真は、よしっと決心した。

「それじゃあ、来週は直樹くんに僕の作ったお菓子を食べてもらうことにするよ」
「ええ、がんばって」
「お兄ちゃん、がんばって!」
「うん!」

 決めたはいいが、さて、なにを作ろうか。

 真は自分の部屋に戻ると、机の上のノートパソコンを起動した。慣れた手つきでキーボードに指を滑らせ、スイーツのレシピを色々と検索する。

 自分の作ったお菓子を食べて、美味しいと言ってくれる直樹を想像するだけで、真の顔には自然と笑みがこみ上げてくるのだった。

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