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②産業医

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 駒沢ぬくみは子供の頃から自社製品に囲まれていた。
 体温計、体重計、歩数計、キッチンスケール、など計量器具は会社の代表的なものだから当然として、電動歯ブラシや栄養補助食品、サーモスーツやマッサージ機、健康管理用のゲームソフトなどもあった。
 勿論その全部を使っていた訳ではないし、健康器具などそもそもが子供には縁がないものだ。
 けれど計測器具、というものに温は惹かれたし数字で管理が出来る事に安心を覚えもした。

「ここまで知りたい人はいないと思うわよ」

 温の出した新商品アイディアを、企画室長に申し訳なさそうに却下された。

「そう…………ですか。僕は変化がある方が見ていて飽きないと思ったんですけど…………」
「えーとね、ずっとそれだけを見ているならそうだろうけど、普通は一日一回でも見ればいい方でしょ? 一週間単位とか、一ヶ月単位で動くのが感じられるくらいの方がいいのよ」
「…………はい」

 温はしおしおと引き下がった。
 相手は自分が専務取締役員の息子である事を知っているから、諌める言葉も控えがちになる。それを知っているからこちらも引くしかない。
 コネで入社した訳ではないが、色々と言われる事は覚悟していた。中傷も勿論、変に気を遣われる事も諂われる事も苦手だが仕方がない。

「あ、この資料を開発部に持って行ってくれる?」
「はい、分かりました」

 厄介払い、と見るのは穿ち過ぎだろう。寧ろ気分転換をさせてやろうという親切心だと思うべきだ。
 だけどきっと、僕が出て行った後の部屋はホッとした空気が漂うんだ…………。
 温はそんな風に思う自分が嫌で唇を噛んだ。

「お、パシリ君? 丁度良いね、お茶を淹れてくれよ」

 開発部のドアをノックして開けたら開口一番にそう言われた。開発部の主、ダニエルだ。

「ダニエルさん、おはようございます」
「んー、おはよ」

 ガシガシと髪を右手で掻き回しながら眠たそうな顔をしている相手に、濃い番茶を淹れてやる。

「どうぞ」
「なんだよ、お前の分は? こまも付き合えよ」

 焼き団子を買ってきたんだ、とがさごそと紙包みを開けるダニエルから包みごと取り上げて透明フィルムを綺麗に剥がしてやる。この人はくっついてた、と言って二本同時に食べるような変人だ。
 温はみたらし団子を食べながらぼんやりと窓の外を眺めた。

「いい天気ですね」
「んー?ああ、そうね」

 天気になど興味の無い男は空腹を満たすのに余念がない。どうやら朝食を抜いてきたようだ。

「あの人達、気持ち良さそうだな」

 温の言葉にダニエルもちらりと窓を見た。テキパキと窓を拭く青いツナギの男達。

「俺には理解出来ないぜ」

 ちらりと温の視線を追ってダニエルは男達を見た。そうしたら赤い髪の男と目が合ってしまい、相手がにこりと人懐こく笑った。
 ダニエルは何となくその隣に目をやったが、そちらは目を合さずに見事なまでにこちらを無視している。
 恐らくはそれが正しい。エキストラのように、書き割りのようにオフィスの人間に認識される事なく務める。

「なよっちぃ奴」

 ダニエルはぽそりと呟いた。
 背の高い二人組であるのに、色が白く柔和な顔立ちをしている。特にこちらを無視している男は少女のよう、と表現しても良い可憐さだ。
 人に敬遠されがちな自分とは違い、人が寄ってきそうだとダニエルは思った。
 その時コツコツ、と赤い髪の男が窓を叩いて合図してきた。

「なんでしょう?」

 温が不思議そうにふらふらと歩み寄り、安全上僅かしか開かない窓をいっぱいまで開けた。

「そっちの人、呼んで」

 初めて聴くハスキーな柔らかい声は高いキーであるのに耳に心地好い。温は振り返ってダニエルを呼んだ。

「何だよ」

 いつも通り偉そうなダニエルに、男が楽しそうに言った。

「あなた、ここでたまに煙草を吸うでしょう?」

 ぎくり、とダニエルの肩が緊張する。
 職種が職種な事もあり、オフィス内は完全禁煙だ。

「気を付けないと結構、外から見えますよ。あと、僅かでもヤニが壁に付着して蓄積するから、見る人が見れば分かる」
「………………そうかよ」

 地階にある喫煙所は人が多くて煩わしい。おまけに遠くて面倒臭い。そんな理由からダニエルは日に一、二本を部屋で吸っていた。しかし今度から止めよう。流石にそれはバレたら申し開きが面倒臭い。

「お仕事中に済みませんね」

 男は伝えたい事を伝えるとまた仕事に戻った。その空に浮かんでいるような光景にダニエルはぞっとしながら舌打ちをして、顔を背けて椅子に戻った。
 少女のような相方はその間も一人黙々と窓を拭いていた。
 その様子を見てここまで無関心ってのも面白く無いなとダニエルは鼻白み、温は綺麗な人だなと見惚れた。
 青空を背景にその人の髪が陽光にキラキラと輝いていて、まるで絵画のようだった。
    温は本当に綺麗な人だと思った。

 ****

 新入社員は入社して一ヶ月ごとに産業医との面談がある。ほんの五分、十分の軽い雑談に過ぎないがそこから医者は心身の耗弱状態を見抜く。

「そうか、宮城君は良い先輩に恵まれたんだね」

 優しい声で言われて啓太は嬉しそうに笑った。

「花ちゃんは本当に凄いんだ。それに優しくて、可愛いんだよ」

 その言葉を聞いて産業医の栗原はおや、と思う。『可愛い』と言った顔が存外に男らしく、それは特別な感情を伴っているように見えた。
 あとで花ちゃんとも話してみよう。もしかしたら、彼は可愛いと思われるのを良しとしていないかもしれない。生真面目で繊細なところがあるから、侮辱だなどと受け取りかねない。
 栗原は二年目、三年目の社員も注意してみるようにしていた。

「宮城君は素直なところが長所だけれど、話す前に一呼吸置くともっといいよ。それで言った後に相手がどういう顔をするか観察するといい。人に合わせて対応を変えていけたら、色んな人と付き合えるようになるよ」

 にっこりと微笑まれて啓太はそうか、と思う。そうか一呼吸かと。

「先生、ありがとうございます。俺、いつも焦っちゃって。パニクって自分から台無しにする事も多くて……うん、じっくりと付き合います」
「…………うん」

 付き合うって先輩・後輩としてだよね? 口説いていくとかそういう話じゃないよね?
 男同士に偏見はないけれど敢えて推奨もしていない。一般的にはそれを悩む人が多いのだから。
 まあ直ぐにどうこうという事もないだろうから様子を見ていこう。栗原は次の面談相手を呼んだ。
 目の前に座る小柄な青年を見て、栗原は気が引き締まった。

「こま君は開発部のダニエルさんと仲が良いんだってね」

 にこにこと言われて温は軽く俯いた。

「仲が良いって言うか、よくお使いで行くので……」
「でもねぇ、企画室と開発部は昔から余り仲が良く無いんだよ。だから君達が上手くやってるのがちょっと意外かも」

 あの人って傍若無人で偉そうだしねと楽しそうに軽口を叩く栗原に釣られて、ほんの僅かに温の口元が緩んだ。

「僕、あの人は怖くないんです」
「結構きつい事を言うけど?」
「それでも、あの人は怖くない」
「………………」

 しんとした表情に栗原は冷やりとしながらも変わらぬ表情と態度を装う。
 あの人は怖くないという事は、裏を返せば他の人は怖いという事だ。
 人が怖い、と思い始めたら全てが上手く回らなくなる。悪い兆候だ。

「こま君は結構な大物なのかもね。ダニエルさんに対等にものを言えるのは鹿又さんくらいなのにさ」
「かまさんは…………優しいから。いつも相手の事を思ってくれて優しい人だから」

 ふわり、と微笑んだ表情の美しさに栗原は一瞬心を奪われる。
 心根の綺麗な子なんだな。だから傷付きやすいのだろうけど。

「そうだね、彼は優しくて仕事が出来て面倒見も良い。ちょっと出来過ぎなくらいでね」

 ああいうタイプに僕の出番はない。良くも悪くも自分でケリを付けてしまい、人の助けを必要としないのだ。
 ちょっと悔しいというか、胸が疼いたりするけど自分が無力だと知る事は良い薬になる。増上慢に成り下がらない為の、謙虚さを知る指標。

「それでいて人に憎まれないんだから得なキャラクターだよ」

 寧ろ苦労人、貧乏くじを引いているようにすら見える。あればかりは計算なのか天然なのか、栗原にも見抜けない。

「憎まれないって…………心が安らぐものでしょうね」

 ぽつりと呟いた温に栗原の胸が痛む。
 産業医としての職務を超えた、個人的な胸の痛みだ。

「誰もがちょっとした悪意の餌食になってる。でも本気で憎まれる事はそうそう無いよ」

 敢えて淡々と言ったら温は逆らう事無く同意した。

「そうですね。本気で憎むのにもエネルギーがいるから」

 その答えを聞いて栗原は失敗したなと思う。
 ちょっとした悪意がじわじわとボディブローのように効いて消耗した子に、そのくらいは耐えろと言ったようなものだ。失敗した。言い方を間違えた。
 栗原は内心の焦りを押し隠して逡巡する。このままこの話題を推し進めるべきか、あっさりと切り替えてアプローチを変更すべきか。

「ちょっとした悪意を発するとスッとするのかもしれない。自分が誰かを傷付ける力があると知って、自信を持つのかも。でもそこから良い関係になる事は無い訳だから、それが不毛だと気付かないとずっと暗い悦びに浸ったまま成長しない。そういう根暗なのって僕は苦手だな」

 かなりの賭けだが、栗原は軽い調子でそう言ってみた。

「暗い悦び…………」
「健全じゃない事にも悦びはある。それも手っ取り早くて努力を必要としない」
「簡単だから、誰でもする?」
「誰でもはしない。簡単だからといって靡かない人は大勢いるから」
「大勢…………でしょうか」

 僕はそんなに世界を信じられない、と無言で伝えてきた相手に栗原は本気の焦りを覚えた。
 この子は世界に対して根深い不信がある。一体どうして出来上がったものか分からないが。

「僕はそう信じてるよ。人の正しさ、明るい方へ伸びて行こうとする力を信じている」
「先生…………いい人ですね」

 小さく笑った温を見て、栗原は自分が完全にしくじった事を知る。

 ”この人は自分とは違う側だ”

 そう思わせてしまっては駄目なのだ。彼の懐に入り込めない。弾かれて、線の外だ。

「いつでも話においで。僕はいつでも此処にいるからね」

 まるで降参宣言だな、と忸怩たる思いを隠して栗原はそう告げた。

 ****

 専門家は失敗しない。大抵の人はそう思っている。とんでもない間違いだ、と栗原は思う。

「沢山の失敗の中から辛うじて拾った勝ちを積み上げて、自分のアドバンテージを拡げて行く。そうやって何とか自分に近い場所で落としどころを決める。それが専門家というものだと思う」

 栗原の言葉に幼馴染の男は困ったように笑った。

「お前は物の見方が悲観的で捻くれてるんだよ。よくそれでカウンセラーなんてやってるな」
「カウンセラーじゃない。僕は産業医だ。健康管理にだって口を出すし、食事のアドバイスだってする。女性社員のダイエット相談にも乗る」

 純粋なお喋り、それだけが求められている事もよくある。

「一社に一人、パーソナルドクターの要る時代か」
「ジジ臭い事を言うなよ」

 時代なんて言葉、僕は聞きたくない。
 幼馴染の気安さで拗ねて詰る。栗原は普段は戒めている他人への甘えをこの男には見せる。

「悪かったな」

 ゴシゴシと頭を擦るように撫でられてくすぐったく笑った。
 僕にだって癒しは必要なんだ。そんな事、こいつには言ってやらないけど。

「それでくりはらさん、今度はどんな面倒臭い子を見付けたんですか?」

 その台詞にぎくりとする。

「…………守秘義務だよ」
「それは分かってる。けど心配なんだ」
「大丈夫。僕は専門家だよ」
「専門家が失敗しないなんて間違いだ、と言ったのはお前だ」
「…………君は優秀だ」
「それはどうも」

 何でも無い顔で杯を飲み干した男の横顔を睨み、それからぷいっと自分の顔を背けた。
 面倒臭い人間に必要以上に肩入れして何でもしてやりたくなってしまう。それは時として職務を超えて、一線を越えてしまう。自分のその悪癖を幼馴染も知っていた。

「安っぽい同情は駄目だ。それが専門家であっても――いや、専門家であるからこそ無力だと、お前もよく知っているだろう?」

 言わずもがなをわざわざ念押ししてくる男にムキになって反論する。

「同情なんてしていない。気持ちに寄り添いたいと思っているだけだ。不要な深入りもする気はないよ」

 そう言い訳をしながらも、深入りせずにその人の問題をどうして解決してあげられるだろうと栗原は思う。
 他人事のまま分析して、アドバイスして、それが本当にカウンセリングとなるだろうか。
 学生時代からの悩みはこうして働いている現在まで持ち越されている。

「お前が疲弊しないか、擦り減らないかそれだけが心配なんだって」

 隣の気配が淋しくなって、幼馴染の優しさを感じる。本気で心配されているのがわかって擽ったい。

「うん。ちゃんと、分かっとく」

 君の危惧と心配を胸に産業医の椅子に座るよ。
 栗原は肝に銘じていたのだ。分かってもいたのだ。けれども避けられないからこそその人間たる所以なのだろう。
『面倒臭い子』は混乱して瞳孔を一杯に見開いて医務室のドアを叩いてきた。

「先生、僕は自分がもう嫌だ」

 そんな中学生みたいな台詞をいい歳した大人が言って、とは栗原は思わない。
 人は幾つになっても自分に絶望するし、新社会人なんてまだまだ子供と一緒だ。

「そうなの。嫌になっちゃったのか」

 それは困ったどうしようか、とのんびりと言った栗原に温は少し腹を立てて身を乗り出した。

「僕は悩んでるんですよっ。もう少し焦ってくれてもいいでしょう!?」
「だって、僕には事情が分からないからさ。どうしてそう思うのか、教えてくれたらコメントのしようもあるんだけど」
「そ…………れは、その、今に始まった事じゃないんですけど――」

 重たい口を空気の漏れたタイヤみたいにぱふぱふとスカスカと開いて温は語った。
 気になる人がいて、けれどその人はこちらを全く気にしないから寂しいけれど安心して見ていた。それはもう不躾になるくらいじっと目で追って、自分の部屋の前から消えた時にはわざわざ用事を作って追い掛けて行ってしまった。

「こちらを全く気にしないから、何となく別世界というか硝子に隔てられて何も届かないような気がしていたんです」

 けれど地下駐車場で、喫煙所近くであの人と顔を合わせて相手に眉を顰められた。それで迷惑に思われていた事を察した。

「僕はとても失礼な事をしていた。あの人が綺麗だから、一日中眺めて何を想像してもいいなんて思った」
「何を想像したの?」

 栗原の言葉に温が口籠る。それを忍耐深く待っていたら泣きそうな情けない声で白状した。

「あの人の、唇が開くところを。その声が、僕の名前を呼ぶところを」

 そうしたらどんな気持ちがするだろうと想像した。そう告げた子に栗原は何も言えない。
 淡い想いだ。けれども明らかに色付いた、恋の萌芽じゃないか。
 自分の恋心にすら戸惑う青年を守ってやりたいと栗原は思った。

「君が、何も言わないからどういうつもりか分からなくて戸惑ったのかもしれないよ。『こんにちは』って言えば、向こうも安心して挨拶を返すのじゃないかな」
「…………言えない。もう彼の前になんて、立てない」

 そんな勇気は無いのだろう。一方的に見る立場から、反撃を喰らうかもしれない立場になったところだし。

「その人に直接言えないなら、周りの人に話し掛ければいい。君が笑顔で挨拶しているのを見れば、悪い人間じゃないという事は分かって貰えるだろう?」
 態度で誠実さと善良さを示せとアドバイスした栗原に、しかし温は素直に頷けなかった。だって彼の隣に立つ男はどことなし怖い。苦手なタイプだ。

「一人が怖ければ、最初は誰かに助けて貰えばいい。その人に話し掛けている人の隣に一緒にいるだけでもいい」

 そう言われて直ぐに思い浮かんだのはダニエルだ。彼は赤毛の男に話し掛けられて以来、たまに床清掃やワックスがけなど窓拭き以外で社内に入ってきた男と言葉を交わしているようだった。

「出来るか分からないけど…………やってみます」

 逃げずに挑戦しようとする温を良い傾向だと捉えた。それが栗原の決定的な失敗だと、ずっと後になるまで彼が知る事は無かった。

 ****

 清掃に入っている会社に凄い美人がいて、男はご機嫌だった。それを相方が呆れて見ている。

「窓拭き以外はやらないなんて言ってた癖に、現金なもんだな」
    そう詰られてもご機嫌のまま男が笑顔で応える。

「あれあれ、焼き餅かな?」
「ばか。迷惑がられている癖に」

 室内での喫煙を注意して以来、顔を合わせれば何かと絡むが相手のダニエルという男は迷惑そうな顔しかしない。あからさまに話し掛ける男を警戒して遠ざけようとしていた。

「あの嫌そうに寄せられた眉間の皺がさ、たまらくセクシーだよね。硬質で緩んで無いのにエロいって、凄くそそられる」
「悪趣味」
「そりゃあんたには分からないだろうね」

 バカにしたように言われて少女めいた男がムッとした顔を見せる。

「俺はお前と違って職場で獲物を探さないんだよ」
「なら何処で探すんだ?」
「朝になったら消える処」
「………………」

 一緒に住んでいる相方は、たまに夜中に姿を消して朝まで帰って来ない。
 それがアルコールを求めてであれ、人肌を求めてであれ、自分に干渉する権利は無いと知っている。知っているが神経を煮えたぎる油に浸けられるような痛みが無くなる訳では無い。
 見た目が軽そうな男はいつだって沸騰しそうな血の滾りを抑えている。

「俺は場所なんて選ばない。だってどうせ向こうから飛び込んでくるんだし」

 不可抗力だ、と堂々と言い放つ男にもう一人は嘆息を吐く。

「お前の罠に掛かるようなマヌケの多さに、俺は人類に絶望しそうだよ」
「罠なんて掛けてない」
「まだな」

 遊び半分に手に入れてあっさりと捨てる。こいつは勿論最低だが、引っ掛かる方も悪いと思っている。

「兎に角、あの人は止めておけ」
「…………あんたがそんな事をいうなんて珍しい」

 他人には無関心の癖に、と指摘されて肩を竦める。

「あの人はマヌケじゃない。お前の罠になんて大人しく引っ掛からない。だから無駄な事は止めておけと親切で言ってる」
「親切? あんたが俺に?」
「相棒じゃないか」

 白々しいその言葉に言われた男はちょっとだけ泣きたくなる。
 たまに張られる予防線は、自分の気持ちなど相手に知られているのじゃないかと疑わせる。
 告白したらもう終わり。一緒にいられない。それを恐れてもう十年も距離を縮められないでいる。
 誰の邪魔も入らない高所でたった二人、ずっと一緒に過ごしてきたというのに。

「相棒なら、振られた時は慰めてね」

 優しくしてくれと、ささやかな本音を零して男は立ち上がった。
 夜間の掃除で出会う人間を、二人きりの世界に邪魔だと感じて腹癒せに誘う事まで知られているだろうか。今夜は誰にも邪魔されないといい。
 二人は静まり返ったオフィスへ戻って行った。

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