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①珈琲が飲めない喫茶店のマスター

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 真っ赤に熟したコーヒー豆が摘み取られ、天日に干され、焙煎されて苦味や香ばしく焦げた匂いを纏って最終的に出来上がる香り。それはどういう訳だか官能的だとみぃちゃんは思う。
 ホッとするのに、ふわりと固くなった心を解されるのになのに同時に身体の奥底にある官能も刺激される。
 それは店の主の存在も大きいのかもしれないが。
 そう思いつつ、店の外にまで流れて漂っている香りにみぃちゃんは今日も胸を疼かせながらドアベルを鳴らす。
 カランコロンカラン。
 可愛らしいカウベルの音は主の趣味ではなく、登山を趣味にしている客の土産物だ。常連客が土産の品を勝手に吊るし、それをそのままにしているところがこの店の主らしい。

「いらっしゃい。今日は早いね」

 眠たげな目付きでトロリと視線を流され、投げ出すように喋るのに甘く響く声を掛けられて、気持ちが一気に浮かび上がる。

「実は徹夜明けなんです。仕事がひと段落して、寝る前に一服したいなって」
「ふぅん。それはお疲れ様。じゃあスペシャルを淹れちゃおっかな」

 無駄にキメ顔で、イイ声で言った主にみぃちゃんは苦笑を漏らす。

「スペシャルって何ですか。大雑把だなぁ」
「実はね、農園から実験的に作られた豆が届いたんだよ。手摘みなんで小量だけど、色々と焙煎方法を変えたり追熟させたりこっちもそれなりに工夫してみたんだ。中々楽しいものが出来上がったけど匂いだけでは限界があるからね。飲んだ感想が欲しいと思っていたところだ」

 主の言葉にみぃちゃんはカーッと体温が上がるのを自覚した。
 他人の実験的な仕事には興奮するし、珍しい体験にウキウキするし、主に頼られて嬉しくもある。そしてそこまで好きな癖に実際に飲む事は出来ない彼に呆れるやら不憫に思うやら複雑な感想も抱く。

「サンジさん、コーヒー専門店の主がコーヒーを飲めないって、本当にどうかと思いますよ」
「うるせ。どうかと思うって言われたって、そういう体質なんだから仕方が無いだろう」

 散々言われた事なので、主――サンジは今更どうも思わずに反射的に言い返した。本人だって随分と悩んで苦しんで足掻いて、そして諦めて今に至るのだ。それはもう、女になりたくても男に生まれてしまったから仕方が無い、というレベルの達観ぶりだ。

「コーヒーアレルギーなんて、きっとあなたくらいですよ」
「俺はレアな男なんだよ」
「まあ、それは認めます。色んな意味で規格外ですよね」
「何かムカツク」

 怒った店主はみぃちゃんの前に乱暴に小ぶりなコーヒーカップを置いた。力強い、ローストの香りがする。

「戴きます」

 口に含むとまず甘さに吃驚した。砂糖の甘さではない。水が甘いと感じるような、甘露という表現がぴったりな甘さだ。
 店主は吃驚した顔の青年をニヤニヤと楽しそうに眺める。素直な気質ほどには動かない表情が、一変するところを見るのはとても楽しい。

「どう?」
「どうって……」

 みぃちゃんは表現に困って黙り込んだ。
 甘いのに苦くて焦げた香りが強い。下手をすれば泥水と表現してもいいような強烈さに言葉を失くす。

「これを……飲むのは辛いと思います」
「んん?」
「えーと、えーと、一口で十分だから、その、強いカクテルを飲んだ時みたいに体中がそれで埋まっちゃうというか」
「ああ、ショットガンを飲むようなものか。しかも匂いがくさやレベルの」
「その表現はどうかと思いますけど……まあ、そういう事かも」
「そうか。ショットガンは喉を灼かれるのを楽しむカクテルだからな。コーヒーに同じ事をさせる訳にはいかないな」
「あなたのカクテルの楽しみ方も大概ですね」
「うるせ」

 サンジは短く悪態を吐きつつ次のコーヒーを用意する。そうこうするうちに店内に軽やかなベルの音が響き、新しい客が姿を見せた。

「ちょっとちょっと、すんごい匂いが外に漂ってるよ~。何なの? 一体」

 みぃちゃん程ではないが背の高い優しい容貌をした青年で、明るい髪色も相まって急に店内が華やいだ。

「ひーすけさん、早いね」

 そう言ったみぃちゃんに青年が苦笑を返す。

「みぃちゃんこそこんな時間にいるなんて珍しい。よく起きられたね」
「俺だっていつも十時には起きてるよ。……今日は徹夜明けだけど」
「あらら、だったらお腹が空いてるんじゃない? 差し入れ、分けてあげようか?」

 そう言って青年が紙包みをかざして来るので、みぃちゃんはふんふんと動物っぽく鼻を動かした。

「カレーパン?」
「当たり。焼きカレーパンだけどね。食べる?」
「…………いいの? サンジさんの分、無くならない?」

 ”気ぃ遣いしぃ” の青年にひーすけは笑って大丈夫だと請け負う。

「殿がどれだけ食べるか分からないからね、余分に持ってきたんだ。ほら、この人気紛れだから」
「おい、そこのクソチワワ。人の店をカレー臭でいっぱいにして何言ってんの? 迷惑なんだけど」
「加齢臭? それは気になるだろうけど……そうか。迷惑なら持って帰ろう」
「加齢臭ってなんだよ! 大して歳変わんないだろ! それから帰るならそれは置いてけ」
「一緒にされるのはちょっとねぇ。あと俺だけ帰れってどれだけ横暴なのよ」
「相手がお前じゃなきゃ言わねぇよ」
「酷いなぁ。あ、俺にもコーヒーね」
「五百万円でーす」
「あんたいつの時代の人間だよ!? ベタだなぁ」

 ぽんぽんと勢いの良い応酬をみぃちゃんは無言で眺める。この騒がしい男は山崎飛丞やまざきひすけと言い、サンジの営む喫茶店の近くでパン屋をやっている。色々と経営上の付き合いもあるのか、まるで幼馴染のように仲が良い。

「はい、みぃちゃん。カレーパンにもコーヒーって合うよね」

 ことり、と目の前にカレーパンの乗った皿を置かれてみぃちゃんは急に空腹を思い出す。
 そう言えば、昨日の夕方から何も食べていなかった。心なし、胃も痛いような気がする。

「戴きます」

 みぃちゃんは両手を合わせ、礼儀正しく言ってから口いっぱいに頬張った。
 トロトロのルーは甘くて辛い。なんだかサンジの感性と似たところを感じる。

「美味しいです」

 まぐまぐと子供みたいに一心に食べながら短い感想を言った。みぃちゃんにはそれ程気の利いたことは言えない、と分かっている飛丞は頷いてからサンジを見た。

「どうよ?」
「んあー、このツブツブしたのって何?」
「胡椒」
「これ邪魔。あと、香りにもう一工夫欲しいね」
「…………作り直してくるよ」
「おお、頑張れー」

 丸きりの他人事で無責任に励ましを口にするサンジと、ポーカーフェイスを装いながらも悔しさの透けて見える飛丞をみぃちゃんは交互に見比べた。
 友達、だと思うんだけど何か自分には分からないものが二人の間には挟まっているような気がする。一体なんだろう。
 考え込んだみぃちゃんにサンジが声を掛けてきた。

「牛乳いる?」
「え? いや、俺はコーヒーはブラックで飲むので」
「知ってるよ。そうじゃなくてさ、カレーパンには牛乳が合うだろう」
「え? え? そうですか?」
「「そうだよ」」

 こんなところだけ声を揃えて断言する二人に、みぃちゃんはやっぱりよく分からなくて口を噤んだ。
 大人が大真面目に言うような事じゃないと思うんだけど、この二人ったら真剣なんだもんな。本当によく分からないよ。
 みぃちゃんは目の前に出された牛乳を困ったように見詰めた。

 ***

 食事を出さない所為か、昼前の店内には他に客が入って来なかった。
 こんなんで経営が成り立つのかな、とみぃちゃんは心配になりつつ内輪の雰囲気が居心地良いのでその事には目を瞑る。
 三人はサンジが試験的に出したコーヒーについて一頻り話し合った。
 そして話が途切れたところで飛丞がさり気無く言った。

「ところで旦那はまた海外?」
「あ? 蓮の事か? あいつならキナバル山に行ってる。何か撮りそびれてる景色があるんだとよ」
「いつまで?」
「…………さぁな」

 サンジは興味無さげにそう言ったが、瞳が揺れた事にみぃちゃんは気が付いた。
 サンジの恋人である蓮は山岳写真家で、しょっちゅう海外に出掛けている。元々登山家なので純粋に登山の為に赴く事もあれば、写真を撮る為に出掛けていく事もある。今回のキナバル山は比較的楽な方なので、写真が目的なのだろう。危険が少ない分心配は減るが、淋しい事には変わりない。

「相変わらずなんだ」
「今更何も変わらないだろう。それよりどれが美味しかったんだよ」
「ああ、飲ませて貰った奴ねぇ、どれも突出し過ぎて、冒険し過ぎて売り物にはならないんじゃないの?」
「…………チッ。勿体ねぇなあ」

 サンジはぼやいたがどうやら自分でも分かっていたようだ。飛び切りの変り種をやはり飛び切り実験的にエキセントリックに仕上げる。それは個人の趣味でやるべき事で、商売には向いていない。仮にも経営者なのでそれくらいは分かっている。

「しょうまには大量仕入は出来ねぇって返事するか」
「ん? これってあいつが送ってきたの?」
「ああ。どうせ売り物にならないからってな」
「あの変態、点数稼ぎをしやがって…………」

 ぼそり、と呟いた飛丞が怖い。
 普段は優しげな風貌に似合った口調と雰囲気であるのに、海外移住をしてコーヒー農園を営んでいるという男の話題になるとピリピリと神経を尖らせる。
 みぃちゃんはその瀬戸翔馬という男にまだ会った事が無いが、サンジ曰く『ひーすけの同類』だそうだ。つまりは相応の変人という事だろう。
 同族嫌悪という奴なのかな、とみぃちゃんは理解している。

「サンジさんさぁ、今日、飲みに行かない? 新商品開発に失敗したもの同士」

 ぱぁ~っと飲んで気持ちを切り替えようよ、と誘った飛丞にサンジの気持ちが動く。

「そうだな、気分転換は必要だよな」
「そうそう、飲んで忘れて、また明日から頑張れば良いんだよ」
「そうするかぁ!」

 途端に目を活き活きと輝かせるサンジを見て、現金だなぁとみぃちゃんは苦笑する。
 それにしても飛丞は、飲んで忘れてしまえとは仕事の失敗の事だけを言っているのだろうか。
 何らかの暗示を含んでいるような気がするのは気の所為だろうか、とみぃちゃんは疑問を抱いた。

「みぃちゃんも来るだろう?」

 飛丞の『新商品開発に失敗したもの同士』と言う言葉に同意した癖に、サンジはみぃちゃんのことも飲みに誘った。
 お邪魔虫みたいで気は引けるがサンジと飲みに行けるのは嬉しいので、みぃちゃんは大きく頷いた。

「一眠りしてから行きます」
「よし、今日は肉を食うぞー」
「あんたいつも肉ばっかりじゃないですか」

 サンジの台詞に飛丞が顔を顰めながら文句を言った。
 みぃちゃんはここぞとばかりにサンジに加勢する。

「俺も肉が食べたいです。血が足りなくて眩暈がする」
「それは肉を食えばいいって問題じゃないだろう! 早く帰って寝ろよ!」

 慌てたサンジに店を追い出され、みぃちゃんは渋々家に帰る。
 そう言えば代金を全く払っていないが、それでも客と言えるのだろうか。

「新商品以前に、もう少し商売っ気を出した方がいいと思うなぁ」

 みぃちゃんはのんびりと呟いて、愛猫のシッポちゃんを抱き締めてベッドに入った。
 数時間眠ったらまたあの人に逢える。
 今日は楽しい一日だなぁとみぃちゃんは幸せな気分で目を閉じた。 
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