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㉚水の通い路(完結)

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「お義父さん、やっぱり桧のお風呂にしましょうよ。信乃さんはお風呂が好きだから、きっとそれで家に居着いてくれるわよ」
「そうだねぇ……今の湯船は少し狭いし、そろそろ新調してもいいよ」
「やった! 早速手配しますわね」
 行動的な嫁は直ぐ様手配に動いた。蓮治はヤレヤレ、と思いながらふらりと家を出た。
 空気が湿って底冷えのする日で、こんな日は熱燗でも引っ掛けて寝てしまうに限る。
 それが恋しい人と一つ布団ならば尚のこと温かい。
 蓮治は通い慣れた道を足早に歩いた。


 喜多屋は手代と花嫁候補の一人を添わせて夫婦養子に貰い、晴れて公認となった信乃を蓮治は家に呼んだ。しかし信乃は泊まりはしても、一緒に食事をしても、幾日か経つと一人で自宅に帰ってしまう。
 ずっと一人で暮らしてきたから急には大勢との暮らしに慣れないのだろう。そう思って蓮治も辛抱強く待っていたのだが、これがいつまでも変わらない。
 仕方がなく蓮治の方がせっせと通い詰める事になったがこれはこれで楽しい。
 それに信乃を独り占めする事が出来る。

 嫁は華族の姫君さえ持っていないような立派な道具を贈られて信乃にすっかり懐いているし、義理の息子は主であった蓮治よりも職人の信乃に近しい気持ちを抱くようで一緒に酒を飲んでは可愛がられている。
 それが少しばかり蓮治には面白くない。

「俺の信乃なのに……」
 そう言うと夫婦は決まって分かっていると答えるが、ちっとも分かっていないと蓮治は思う。

(少しはわたしに遠慮しなさいよ)
 それに馴れ馴れしいのは息子夫婦ばかりではない。信乃の腕にすっかり惚れ込んだ道楽ジジイ共が、やれ珍しい画集があるだの酒を入手しただのと言っては自分の家に呼ぶ。

「信乃は俺のなのに……」
 長老など酷い時は自分が待っていると知ってるのに信乃を家に泊めて帰してくれない。囲碁の相手など自分の孫にでもさせればいいのに、商売が忙しいからと息子も孫も相手にしてくれないのだと信乃に泣きつく。

「でも信乃はっ! 俺のだからっ!」
「お前、意外と嫉妬深いよな」
 迎えに来た蓮治に信乃は呆れたように独りごち、少し待っていろと言った。
 信乃が職人と何やら専門的な事を話している間に、蓮治は仕方なく老人と世間話をして待っている。

「今度、箱根に行くのだって?」
「ええ、まだ信乃も本調子じゃありませんし、私も少し骨休めをしてこようかと思いまして」
 嫌な予感を覚えつつ蓮治がそう言ったら、老人は自分も一緒に行こうかなどと言い出した。

「わしも腰の具合が少々悪くての、二人がいたら心強いし――」
「済みません、用事を思い出しました。信乃、帰るよ!」
 蓮治は老人の話を聞く前に慌てて退散した。信乃と水入らずの旅行について来られるなど冗談では無い。
 背後で老人が笑っているのに気付いたが、戻るつもりはなかった。

 逃げ出した蓮治は信乃と共に船に揺られていた。
「全く、こちらはまだ新婚だというのに遠慮がない」
「誰が新婚だばか」
 信乃は嫌そうに悪態を吐いて、身体はもう大丈夫だから旅行になど行かなくてもいいぞと小声で言った。

「旅行は行こうよ。わたしも楽しみにしているし、君の身体の事だけじゃなく家を離れたいし」
「蓮治……?」
 きょとんと不思議そうな顔をした信乃に蓮治が顔を寄せて囁く。

「だって君、家人に声を聴かれそうだと我慢してるだろう? 必死に声を押し殺す様子もそそるけど、い~い声で啼くのを聴かせて貰いたいからね。宿では離れを借りたし、遠慮しないでいいよ」
「このっ……むっつり助平が……」
 信乃は真っ赤な顔で蓮治を睨んだが嫌だとは言わない。蓮治に手加減なしに抱かれる事は嫌いでは無い。

「朝から晩まで君を抱いて、一夜たりとも一人では過ごせない身体に変えてしまいたいね」
 蜜が滴るような声色で言われて信乃がぞくりと身を震わせた。

(今だってもう、そのようなものだけれど)
 思ったけれど言わない。代わりにそっと指を繋いでキュッと握り締めた。

(声なら聴かせてやるから今夜はうちに)
 信乃の合図を読み取って蓮治が小さく頷いた。その頬が上気して赤く染まっているのを信乃は気恥ずかしくも嬉しく思う。

(喜多屋が嫌な訳じゃねぇんだ)
 蓮治が自分の居場所を作ってくれようとしている事は分かっている。
 周りに自分の存在を認めさせて(こう言うと蓮治は認めさせたのは信乃自身の力だと反論するだろうが)、共に暮らして家族として迎え入れようとしている。その事を信乃は勿論嬉しく思う。嬉しく思うが、それ程に形に拘らなくてもいいとも思う。

(何もかもを世間並みにしようとしなくても、俺はもう大丈夫だ。お前がこの先もずっと俺と一緒に歩んでくれるのはわかってるから。だから――)

「たまには二人っきりで甘えさせろよ」
 信乃は船の揺れに合わせて蓮治の胸に凭れ、下から顔を見上げて囁いた。
 蓮治は腕の中に収まっている恋人に満足し、二人きりで甘えさせろなどと睦言めいた台詞を言われて舞い上がり、信乃と二人で喜多屋を出る事を素早く検討してしまう。
 そんな蓮治にサッと気付いて信乃が嗜める。

「ばか。たまにでいいんだよ」
 蓮治が家を捨てる事も、自分をずっと手元に置く必要もない。
 行ったり来たり、船で通い合うのも風情があって良いものだ。
 そんな風に諭されて、蓮治は力なく笑った。

「君の方が俺よりもずっと自由なんだな」
「野良猫みたいなものでね」
「それじゃあ後で鈴を付けてあげよう」
「やぁだね」
 戯れる二人の耳に何処からか都都逸の声が聴こえてきた。
 慶太郎が客に乞われて謡っているのだろうか。
 二人は同時に同じ事を思い、暫しその声に耳を澄ますのだった。

 完
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