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⑧過去が追い掛けてくる−2

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 信乃の正体には三津弥も驚いているがそれどころではない。
 あれ程に取り乱した彼は初めて見た。どうにも危うい。

(さて、友としてはここで慶太郎を呼んでやりたいが……。冷静に考えて、事情を知っていると思われる蓮治さんを呼ぶべきだよな。慶太郎、許せよ)
 三津弥は後で恨まれる事になっても仕方がない、と思いつつ蓮治に使いを出した。
 手紙を書いている暇は無かったので口頭でこう告げて貰った。

『信乃さんが壊れてしまいそうです』と。
 蓮治は勿論、直ぐに駆け付けてきた。


「信乃、何があった!?」
 羽織りの紐もひん曲がったまま、珍しく慌てた様子の蓮治を見て、三津弥の胸がチクチクと痛んだ。

(信乃さんは彼を煙たがっていたから余り気にしていなかったけれど……蓮治さんには、信乃さんが特別なんだな)
 しかし三津弥の嫉妬じみた感傷とは裏腹に、信乃は死人でも見るような昏い眼差しで蓮治を見た。

「あの中棗の存在を、知る人間がいた」
「……そうか」
「あれはやはり光明の最高傑作と呼ばれていたよ。光明の、師匠の名を冠して――畜生、先生が知ったらどう思う!」
 泣きそうな信乃の言葉に蓮治がそっと肩を抱いて揺すった。

「信乃、落ち着け。その話は家に帰ってからしよう」
 他の人間に聞かれたくないだろう、と言外に言っているのを見て三津弥の心に罅が入る。
 自分が初めて知った信乃の過去を、きっと蓮治はずっと知っていた。それどころかもっと詳しい事情も知っていて、彼の力になれるのだ。

(どうして? 二人は本当にただの昔馴染み? 秘密を共有して、他に知られないように余人を締め出して)
 まるで一生離れる事は出来ない片割れのようじゃないか、と三津弥は思う。

「いや、お前を巻き込む気はないんだ。俺の事は放って置いてくれ」
「そんな訳に行くか! この間も言ったけれど、わたしは君の関係者だよ。排除しようとするのは止めてくれ」
「蓮治……」
 信乃は一体にどうしたらいいのかと思う。
 あの文箱は欲しいが、中棗を世に出すなど絶対に出来ない。それだけは出来ない。
 ならば諦めるしかないのか。
 信乃は蓮治に先ほどの出来事を話した。そしてどうしてもあの文箱が欲しいのだと言った。

「信乃、方法はあるよ」
 蓮治の言葉に信乃は弾かれたように彼を真っ直ぐに見詰めた。
 そのキラキラと光る瞳から蓮治は目が離せなくなる。

「どうすればいい?」
「君が、あの中棗を超えるものを作ればいい。そうして自分の名前を冠して文箱と交換させればいいんだ」
 蓮治の言葉に信乃は黙り込んだ。

(あの中棗を超えるもの。それを俺に作れだって?)

「無理だ。あれは誰にも超えられない」
 あれは最高傑作なのだ。
 すっかり錆び付いた今の信乃の腕前じゃ、とても超えるものなど作れっこない。
 諦めたようにうなだれた信乃の両肩を掴み、蓮治はゆっくりと力強く言った。

「君には超えられる。何故ならばあれを作ったのは昔の君で、今の君はまだ生きているからだ」
 光明は弟子の作品に打ちのめされ、失意のうちに不幸な事故で世を去った。
 あのまま生きていたら、もしかしたら再び意欲を取り戻してあれを超える作品を作れたのかもしれない。
 だが死んでしまってはもうどうする事も出来ない。
 何をどうしたって死人に生者は超えられないのだ。
 でも生きている人間には常に可能性がある。
 一歩でも前に進もうという意思さえあれば、いつだって道は開けている。

「光明の名で世に出た中棗を、君の名前で超えるんだ。それが今の君のすべき事だろう?」
 あれは違う、あれは間違いだったと繰り返すよりも証明して見せろ。腕で黙らせろ。
 そう発破をかけられたって、今の意気地のない信乃には簡単には応えられない。

「やっぱり無理だよ。俺はもう漆器は作らないと決めたんだ」
「なら諦めるのか? 諦めてあの出来事に拘る事を止めて、自分の名前で仕事をするか?」
「だからしないって!」
「駄目だよ。君は信乃だ。光明の最後の弟子で、彼を超えた人物だ」
「違う! 師匠を超えてなんか――」
「信乃。もう光明を自由にしてやれ。彼をきちんと負かしてやれ」
 蓮治の言葉に信乃の身体がガタガタと震えた。そして大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

(師匠に囚われたフリで、師匠を捕えていたのは自分の方だった。師匠の名声を守っているつもりで、本当は貶めていたのかもしれない。師匠を俺からきちんと切り離す為に、師匠の名声は名声として守る為に、彼以上の仕事をして見せる。この手で、俺の名で)

「棗を作るよ」
 信乃は静かな決意と共にそう口にしていた。 
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